1.淡い恋心
1.淡い恋心
花家松は自分の名前がコンプレックスだった。
だから自己紹介が死ぬほど嫌いだった。
小学校一年の冬、松は隣町から引っ越してきた。
新しい町、新しい校区。転校初日、冷たい廊下の上を、松は、カルガモの子供のような気分で先生の後にくっついていった。教室のドアの前についたとき、もう一人転校生がいたことに、緊張のあまり気が付かなかったぐらいだった。もう一人の転入生は、背の高い男の子だった。
クラスに入って行くと、三十数名の子供の顔が一斉にこちらを見る。ひゃー、スゴイ人。こんな大勢の知らない人達の前で己紹介しなくちゃならないのかと思うと気が重かった。松はスカートのヒダをもじもじと触りながら、落ち着かない気持ちで突っ立っていた。先生が転校生の紹介をしたいと私達を前に立たせた。めちゃくちゃ緊張する。松と一緒に教室に入って来た男の子に向かって、先に自己紹介をするよう先生かが言った。
「ホケツヒロシです」
???
聞き覚えのない名前だったので、覚えられなかった。先生が、拍手をすると皆も拍手をした。次に私の番になった。
「ハナイエショウです」
蚊が泣くような小さな声で言った。皆、「何て言ったの?」というような顔をしている。松は真っ赤になって隣をちらりと見た。ホケツ君もとても緊張しているようだった。松はもう一度自分の名前を言ったが、やはり声が小さくて後ろの方まで聞き取れなかったようだ。先生が、黒板に新入生の名前を書いてくれた。
「法華津弘」
「花家松」
松は、黒板の文字でやっとこの背の高い少年の名前がホケツであることを知った。花家と同じぐらい珍しく難しい名前だった。こんなの読めっこないと思った。それが、法華津君の第一印象だった。
小学校二年になった。
「おーい、ハナイエ、ハナケ、それともハナゲー♪」
教室の後ろの方から男の子たちのからかう声が聞こえてくる。まただ。松は返事もせずに真っ赤になった。自分の名前の嫌なのは花家を、花家と呼ばれることだった。字体のイメージから見れば悪くないのだが、ハナゲと言われて鼻の中に生えている毛を連想しない人はいないだろう。
あまりに珍しくて個性のあるこの名前が嫌で、松は名字の歴史辞典で自分の苗字の由来を調べたこともある。驚くことに「鼻毛」と書く苗字も世の中には存在しているようで、「花家と書く家もある」とのことだった。全国の鼻毛さんも、先祖は私達と同じ「花家」だったのかもしれない。おそらく「はなげ、はなげ」と呼ばれるようになって、イメージが「お花の家」よりも「鼻の穴の中の毛」に変化してしまい、イメージが定着した方に、文字の方が変わってしまったのだろうかな、とも思った。
とはいえ、どれほど名前の由来を調べても、文字は変えられっこないが、悩ましいのが読み間違えられることである。松の名前は「ショウ」であって「マツ」ではない。カナがうってなければ、殆どの確率で間違えられる。「ハナケマツさん?」新しい教師がやってくると、まずもって読み間違えをされる。名簿は前任者や、クラス担任から前もって渡されているはずなのに、どうして事前にしらべてこないのだと思う。席の後ろの方に座っていると「ハナイエ」です、とか「ショウ」です、と訂正するのがとても億劫になることもある。松は声が大きくない方だったので、何度言っても向こうが聞き取れないこともあった。そんなことが続くと、間違えたままでもいいやと諦めモードになって「ハナケ」や「マツ」のままで通すこともあった。
ところが、松の気持ちにおかまいなく小学校時代の松のあだ名は殆ど「ハナゲ」に定着してしまっていた。男の子たちがつけたあだ名だった。それがきっかけで、松は男の子と話すことがトラウマになった。なぜハナゲと呼ばれるのか。おそらく、あまりいい印象を持たれていないからに違いない。皆が、わたしのことを仲間内で話すときに「ハナゲ」と呼んでいるのだろう。「おーい、ハナゲ」クラスの男の子が、からかうのではなく、真面目に松のことをそう呼んだ。ガキ大将の男子だけでなく、普通の男子のクラスメイト達も同じ様に「ハナゲ」と呼ばれるのがショックだった。呼ばれるたびに「鼻の中の毛」をイメージしているのかと思うと、松は返事をする気になれなかった。返事もせず、無視し続ける松はますます男子からからからかいの対象になっていった。ところが、法華津君だけは「ハナイエさん」と呼んでくれているのに、松は気が付いていた。
法華津君は、背が高くて、ハンサムで、はきはきしていて、紳士的な男の子だった。同じ日に転校してきたこともあって、松は法華津君だけには親近感を持っていた。彼は、クラスの中でも中心的な存在にすぐになった。そして松は、彼にすぐに、淡い気持ちを持つようになった。それゆえ、彼の前で「ハナゲ」と呼ばれることが、耐えられないほど嫌だった。
ある日、仲のいいルリちゃんと、好きな男の子がいるのかという話になった。
松は、男の子が好きということが、女友達の好き、というのとどう違うのかよくわからなかったけど「法華津君」には、好感を持っていた。松は「法華津君が好き」と言おうと口をひらこうとしたら、ルリちゃんの方から「わたしは法華津君が好きだ」と言うので、松はビックリしてしまった。法華津君は、人気があるのだ。この時、松達はまだ小学二年生だったけど、優しくて丁寧で、笑顔が爽やかな「法華津君」がどの女子からも好かれていることを知った。
中学生になった。
松の通う市立中学は全校生徒、千五百人。一学年十三クラスもあった。ヤンキーも普通の子も頭脳明晰な子も皆、同じクラスで授業を受ける。もまれた時代だった。淡い心を持っていた法華津君は同じ中学だったが遠くクラスが離れてしまい、姿を見ることもなく、松は忘れてしまっていた。そして、松は、同じクラスの神崎君に恋をしていた。
神崎君は、いがぐり頭のスポーツ少年だった。
口数が多くて、落ち着きはないけれど、女子とも気さくによく喋る明るい感じの男子だった。一年生の頃は、隣同士の席で普通に喋れて、とても楽しい時間をすごしていたが、あまり意識していなかった。彼のことが気になり始めたのはクラスが離れた二年になってから。神崎君のことが好きかもしれない。そう自覚するようになってから、寝ても覚めても松の心が「神崎君」一色になるまで時間はかからなかった。
ところが、二年生になると、神崎君とはクラスどころか、校舎さえも別れてしまった。そしてその頃になると、女子の中で「男子の中で誰が好きか」と言う話で盛り上がるようになった。修学旅行や合宿などの行事になると、女子同士で恋バナの花が咲く。誰が誰が好きで、誰と誰が三角関係で、誰と誰がカップルか皆、よく噂した。松の好きな人は「神崎君」だったから、仲間内にはそのことは話していた。
同じクラスの同じグループの亜衣ちゃんも、松が好きなのは「神崎君」だと教えていたので、一日数回、神崎君のいる教室の隣のトイレまで渡り廊下を通って、隣の校舎まで歩いて行くのにつきあってくれた。神崎君は落ち着きがなかったから、よく廊下に出て友達と喋ったり遊んだりしていたので、彼の姿を見る機会があるとすれば、休憩時間の「トイレタイム」の時だけだった。
トイレ前の廊下で友達を待ちながら、チラチラ隣の教室をうかがう。せっかく寒い渡り廊下を渡ってきても、寒い時期はあまり教室から人は出てこない。神崎君のクラスに松や亜衣ちゃんの友達はいなかったので、よそのクラスに入って行く口実がなかった。亜衣ちゃんがトイレから出てくると、もうトイレには用事がなくなる。神崎君の姿を拝めなかった松は、ションボリとその場所を後にすることになるのだった。
中学三年なると、恋バナの他に、もっと他のことが、皆のアタマを占めはじめる。受験だ。松は市内の共学のS高校を志望していた。亜衣ちゃんは、松とは違う共学のN高校。もちろん神崎君がどこの学校を行くことになるのか気にかかる。が、神崎君と共通の友人がいない中、誰がどこの学校を志望しているのか情報が入ってくるのは、入試の後、卒業式も間近になる頃である。
中学三年、クリスマスの時期になった。十二月二十五日は終業式の日だった。前日の二十四日の日に亜衣ちゃんからあるお願いをされた。
「法華津君にプレゼントを渡したいからつきあって」
亜衣ちゃんが、法華津君のことを好きな事は知っていた。法華津君は、中学入学後、身長は伸び続け、一八〇センチ近くあり、運動部に所属しひときわ目立っていた。千五百人もいるマンモス校の中でも有名人で、憧れている女子は少なくなかった。いわゆる競争率の高そうな人なのである。松はとっくに法華津君への恋心は消えてなくなっていたけれど、法華津君と同じクラスだった時代に、自分が「ハナゲ」と呼ばれていたことがあった。松は、自分が男子から嫌われていて、侮辱された時代があったことを法華津君が覚えていて、今だにそういったイメージを持たれているのではないかと恐れていた。
だから、亜衣ちゃんに「法華津君にプレゼントを渡したいから付き合って」と言われた時に、すぐに「ウン」とは言えなかった。
「ショウはいいな~、法華津君と一緒に転校してきたことがあって」亜衣ちゃんは言う。
松は、小学校一年の時に、法華津君と一緒に転校してきたことを亜衣ちゃんに話したことがあった。その話を聞くたびに、亜衣ちゃんは松を羨んだ。けれど、松の今好きな人は「神崎君」であり、法華津君は、いまや「松がハナゲと呼ばれていた時代を知っている男子」であり、近づきたくない人であった。
しかし、親友亜衣ちゃんのたっての願いでもあり、自分は、亜衣ちゃんの友達の中で一番法華津君とは家が近かったので、これは自分しか一緒に行く人間はいない、と思うに至った。
松は、中学三年のクリスマスの日に、亜衣ちゃんのお供で法華津君の家まで行くことになった。
法華津君の家は、前にも亜衣ちゃんと一緒に何度か見に行ったことがあるので、場所の雰囲気はだいたい分かっていた。家の前に若い木が数本生えてある簡単な広場があって、その近くで亜衣ちゃんと待ち合わせをした。ドキドキが半端でない亜衣ちゃん。しかし、亜衣ちゃんと同じぐらいに松の方が、心臓が飛び出しそうになっていた。
ここまで来ると、自分が法華津君にどう思われているかどうかというよりも、好きな人にプレゼントをあげようとしている亜衣ちゃんをただただ尊敬してしまう。
亜衣ちゃんは綺麗にラッピングした手作りプレゼントを胸に抱えていた。そんな亜衣ちゃんを見て、自分が同じことを神崎君にできるかと思うと、絶対にできないだろうと思った。そんなことをすれば、恥ずかしさのあまり、死んでしまうだろうと思った。
法華津君の家の近くで、一時間以上グズグズしてから、ようやく意を決した亜衣ちゃんがピンポンを押した。
亜衣ちゃんは冷静な声で、法華津君に出てきてもらえるよう頼んだ。ほどなくして、法華津君が家から出てきた。私服でとてもラフな姿をしていた。亜衣ちゃんと松は、広場の前の歩道の上で待っていた。
法華津君が亜衣ちゃんと向き合っていた。
亜衣ちゃんは、たどたどしくプレゼントを渡して、どうやって使ってほしいか、プレゼントの中身の説明をしていた。
法華津君は、「ありがとう」と言って、遠慮がちにプレゼントを受け取っていた。
松はその間何をしていたのかというと、亜衣ちゃんの姿の影にかくれて、法華津君の視界から完全に姿を隠して、亜衣ちゃんの代わりに真っ赤になっていた。法華津君のことが好きなわけではない。ただただ、自分にはできないであろうとても勇気のいることを、親友である亜衣ちゃんが目の前で堂々としているのを目の当たりにして、亜衣ちゃんを尊敬するやら、恥ずかしいやらで、どうにも感情をコントロールできなくなっていたのである。
プレゼントを受けとると、法華津君は家に戻って行った。
亜衣ちゃんは胸をなでおろし、「つきあってくれてありがとう!」と笑顔だったが、「もぉー、ショウったら、後ろにひっこんじゃって、一緒にいてくれなかったじゃん」と言っていた。本当に、いったい何のための付添いやら、と松は自分でも情けなく思った。
「本当に今日はありがとう!」と、亜衣ちゃんは帰り道、一仕事終えたすがすがしい表情で何度も言ってくれたが、礼をされるようなことは何一つできなかった自分が悔しかった。自分は神崎君に同じことはまずできないだろうと思ったのだ。
亜衣ちゃんの家は、家族仲がいい。亜衣ちゃんは恋バナをお母さんともするようで、クリスマスにプレゼントを作って、好きな人に渡したいなーと言う話をしたところ、お母さんにも好きなようにすればいいのにと、勧められていた。自分の親に同じことを言って、母が同じように答えただろうかと思うと、なんだか羨ましかった。お母さんが応援してくれているのだ。
「応援っていうほどでもないけどね」亜衣ちゃんは言った。「後悔のないよう気持ちは伝えた方がいいよって言ってくれるだけ」
「ふーん、いいなぁ」
「ショウの家はそうじゃないの?」
「うん、多分そんなこと言ってくれないと思う」と、松は言った。
「えー、何でだろ」
何でと言われても説明が難しかった。亜衣ちゃんはいつも悩み事があるときは、じっくり聞いてくれる人だった。松は勇気を出して言った。
「実はこの前ね、ノートに詩を書いたのをお祖母ちゃん達に見られちゃって」
松は、神崎君の事が好きになってから、その想いをその頃よく読んでいたロマン小説風に似せて詩を書いていた。そのことを亜衣ちゃんに話した。
「うちはね、両親が離婚しているから、普段のわたしの生活は殆どお祖父ちゃんお祖母ちゃんにまかせきりでしょ。お祖母ちゃんは、わたしの部屋を掃除している間に、神崎君のことが好きだってことを書いた詩のノートを見つけちゃったの。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、わたしの書いた詩を見て、ものすごい問題を発見したかのようにわたしを呼び出して、こんな気持ちは一時のものだから、真剣に取る必要ない、思春期に異性が気になることは誰でも経験するものだから、本気にとってはだめだ。こんな詩が人目についたら恥ずかしいからって言って」
松は、ちょっと言葉を止めて、小さくため息をつき、続けた。
「お祖父とお祖母ちゃんは、わたしの想いをつづった大事な詩を書いたノートを、わたしの目の前のたき火の火にくべて焼いてしまったの」
「そんなことがあったの?」亜衣ちゃんは、とても驚いた様子だった。
「うん…だから、わたしが男の子にプレゼントを渡したいなんて言ったら、家の人は絶対に賛成しないと思うんだ」
「えーっでも、お母さんもそう言っているの?」
「うん」と、ショウは答えた。「うちの両親は、恋愛結婚みたいだったけど、離婚しちゃったんで、お見合い結婚の方がうまくいってたに違いないって言うんだよね。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも“お相手”っていうのは親と家族が決めてやるのが一番っていう言い方するし」
「じゃ、好きな男子ができても、告白したり、つきあったりできないの?」
「どうだろ、わたしが誰が好きになるのかはあまり重要なことではないみたい。というか、親が決めた人を好きになればいいって言うし」
亜衣ちゃんは、言葉が見つからないようで絶句していた。
「なんか、そういうのって、ツラいね」と、亜衣ちゃんは言った。
「うん…」
「じゃ、神崎君が好きってこと、おうちの人に言ったりしていないんだ」
「んー、ノート焼かれちゃって以来、そういうこと言える雰囲気ないんだよね。わりとそういった事については、やかましく言いそうだから」
「やかましくって」亜衣ちゃんは尋ねた。「どんなこと言うの?」
「んー、我が家の娘に見合うには、成績がよくないといけないとか、見た目がどうかとか、家柄がどうかとか、色々言うんだよね」
「い…家柄?」
それって一体、ナンデスカ、と言う感じだったと思う。この民主主義が浸透した時代に、中学生の娘のボーイフレンドに家柄がどうこうと文句をつける親など、そうあまりいないだろう。
「そうなんだ」亜衣ちゃんは同情しているというより、この新たな価値観を提示さてとても衝撃を受けているようだった。
亜衣ちゃんはとても優しいコで、普段は思い遣りにあふれた励ましの言葉をかけてくれるのだけれど、この時だけは、何も言うことはできなかったようだった。
「気にしなくていいよ、亜衣ちゃん」松は笑って平気な振りをよそおった。「わたしは、神崎くんが好きで、見ているだけでいいと思っているから」
年が明け、二月になった。亜衣ちゃんは積極的に、中学最後のバレンタインの日に、法華津君にプレゼントを渡していた。その時は付添いはしなかったけれど、またまた亜衣ちゃんの勇気に感服させられていた。
卒業式が近づいていた。その頃には、誰がどこの高校に行くか、学校中、皆が殆ど分かっていた。法華津君は自分が打ち込んでいるスポーツの強い私学の高校に、神崎君は市外の共学に決まっていた。
松は、告白したり付き合いたい気持ちはなかったから、卒業したら、神崎君への恋は終わってしまうことは分かっていた。分かっているだけに、尚更、何もしないというのが苛立たしかった。亜衣ちゃんに限らず、告白したりされたりする子は、ちらほらいていた。カップルになっているのかどうかは別にして、皆、それなりに青春をしているのだと思った。
松は、自分も何かしてみたいと思うようになった。神崎君に何かを渡しに行く…?いや、告白をする…どれも違う気がする。違う気がするけど、思いつくのは、どれも顔が真っ赤になるようなことばかりだった。けれど、真っ赤になったところで、もう卒業である。恥をかいても、誰とも顔を合わさずにすむのだ。
卒業式の前日、松は亜衣ちゃんに神崎君に電話をしたいからつきあってと頼んだ。亜衣ちゃんは「いいよ!」と快く言ってくれた。
電話ボックスにふたりして入って、コインを何枚か入れて神崎君宅へ電話をかける。隣には亜衣ちゃん。松は、電話のコードを指先でいじりながら、ドキドキ胸打っている心臓の音を感じていた。
「ハイ、神崎です」
「あの、花家と言いますが、神崎タケト君いらっしゃいますか」
と、言ってみた。
とりあえず今は電話なのだから、顔が真っ赤になっている所は見られずにすむ。
「ぼくだけど」と、電話の向こう。
本人が出てくると思わなかったので、用意していたことがすぐに口から出てこなかった。それでも何とか、松は、明日の卒業式に、学ランのボタンをもらえないかと、切り出した。
「学ランのボタン?」と、彼は言った。
「はい、学ランのボタンが欲しいんです」
「いいよ」と、電話の向こうで神崎君は言った。
「ありがとう」と言うと、松は電話を切った。
むちゃくちゃ恥ずかしくて、これ以上話せなかったのだ。
「どうだった、どうだった?」亜衣ちゃんは自分のことのように、聞いてくる。
「明日、ボタンくれるって」松は答えた。
「よかったね~」亜衣ちゃんは喜んでくれた。
「明日、卒業式の後、神崎君のところに一緒に行ってくれる?」
「いいよ!」亜衣ちゃんは承諾してくれた。「だけど、ショウはぶっきらぼうだね」
「えっそう?」
「せっかく電話したんだから、もっと話せばいいのにーなんだかすぐに電話切っちゃってさあ」
「だって、恥ずかしくて…」
「恥ずかしくったって、用件だけ喋ってすぐにガチャンって電話切ることないんじゃない?」
その時は、自分は失礼なことをしたという意識はなかった。とにかく中学最後の思い出になるであろう日に、自分も青春をするんだという気持しかなかった。
翌日の卒業式が終わり、松は亜衣ちゃんと一緒に、昇降口の外で神崎君が出てくるのを待っていた。制服の胸には赤い花、手にはそれぞれに、卒業証書が入った黒い筒を持ち、皆、いい顔をしていた。
そんな中、松は今か今かと時を待っていた。
来た!
落ち着きのない神崎君らしく、最初の方に出てきた。松は亜衣ちゃんを伴って、神崎君に話しかけた。
「あの…制服のボタンをもらえませんか」と切り出した。
神崎君を目の前にするのは、一年生の時以来だった。しばらく近づかないうちに、ずいぶん背が高くなったと実感した。神崎君は、ポケットをゴソゴソやって、ひとつのボタンを取り出した。そして無言で、松にそれをくれた。
「あ、ありがとう」
松はそう言ったかどうかわからないような声で礼を言って、そこで神崎君と別れた。
手には、神崎君の学ランのボタンがキラキラと輝いている。亜衣ちゃんは隣で、自分のことのように嬉しそうで、また、恥ずかしそうにもしていた。
「よかったね~」と、亜衣ちゃん。
「うん」
と、松はいったものの、何か腑に落ちなかった。確かにとてもドキドキしたけれど、亜衣ちゃんの付添いをしたときのようなドキドキ感はなかった。覚悟を決めていったからかな?それとも、これで最後だからだろうか。
「ショウったらすごね!私だったらこんなことお願いする勇気ないよ」と、亜衣ちゃんは言った。
松は、そうかな?と思った。
わたしは好きな人に手作りプレゼントを渡す度胸の持ち主の亜衣ちゃんにかなわないと思っているのに…
「そんなことないよ。それにもう卒業だもん。恥かいたって会うこともないじゃない」
「それはそうだけど、やっぱりすごいよ」亜衣ちゃんは最後まで感心していた。
その後、松は友達と写真を撮ったりして、中学最後の日を締めくくった。
家に戻り、神崎君の学ランの金ボタンを机の上に置いた。腑に落ちなかった理由がだんだんとはっきりしてきた。
(このボタン、ポケットから出してきたんだよな)
と、松は思った。
つまり予備ボタン。ボタンを下さいという意味は、第二ボタンか、第二がダメであれば、他のつけているボタンをくれるものではないだろうか。前日に電話をして予約しているのだから、身に着けているボタンをくれたっていいじゃないの。と、だんだんと、ふてぶてしい気分がこみあがってくる。
松は、いや、ボタンをくれただけでもありがたいじゃないか、と思い直そうとした。
松は、しばらく机の上にその金ボタンを置いていたが、ボタンはそのうちどこかへ行ってしまった。探してみたけれど、見つからず、そのうち松もあきらめてしまった。あれは予備ボタンであり、神崎君と共に、三年間の学校生活を過ごしてきたものではなかった。神崎君はわたしのことを何とも思っていなかったのだ。そうと思うと、そこまで執着するべきものかなと思う気持と共に、「これが振られる気持ちなのか」と、初めて失恋したことを知った。
松は、ぼーっとなってしまった。
三年間に渡る片想いが終わった瞬間だった。何か期待をしたわけではなかったが、ショックを受けている自分に驚いていた。
時が経って、一区切り感がついてくると、松は、卒業式のあの日、花を胸に着け、卒業証書を手に持ち、友人と別れを惜しんだ最後の日をたびたび思い出すようになった。
総じて、さして事件も事故も、とりたてて思い出すような強烈な出来事もない平和な中学三年間だったな、と思った。ただ、神崎君が好きだった、好きだけで終わってしまったそれだけの三年間だった。もし、もっと早く、もっとハッキリと神崎君に告白していたら、わたしの中学生活ももう少し変わったものになっていたかな?とも思った。こんな最後の日ではなく、ボタンを下さいと言う曖昧な表現でもなく、もしもっと勇気をもって打明けていたのなら…
つらつらと昔のことを考えていると、二年生の時、ラブレターをもらったことが思い出された。
あの時、ラブレターをよこすなど、オクテの松には考えられない告白の手段と思い、本気にとらなかった。しかしながら、ラブレターとは、プレゼントを渡したり、ボタンをもらったりするより、ずっとダイレクトで分かりやすい愛の表現ではなかろうか。きっと、あの時、あの男の子は、相当な勇気をもってラブレターを書いてくれたに違いない。なのにわたしは、彼の気持ちを本気にとらず、誰にも知られたくなかった彼の恋心を、踏みにじってしまった。彼に、悪いことをしてしまったのだ。
松は、自分が振られて、初めて、他人の気持ちを考えるようになっていた。
彼女は自分を責めた。何てことをしてしまったのだろう。
自分がもっと思い遣りがあれば、彼は傷つかずにすんだかもしれなかった。そうと思うと、ものすごく反省しなければならないことを、安易にしてしまったのだと思った。全くバカだ。今になって気づくなんておそすぎる(・・・・・)じゃないかと思った。
こうして、何とも言えない空虚感と、頑張って好きな人に近づこうとした達成感と、それに伴う反省をごっちゃ混ぜになったような妙な気分を最後に、松の中学時代の青春は終わった。高校入学後、神崎君のことはしばらく想いが残ったものの、その後、だんだんと松の記憶から薄れていった。
高校から電車通学になった。
これまで歩いて二十分だった通学が、徒歩電車をいれて四十分。共学の学校。一学年の人数が、これまでの半分以下になった。中学からの顔見知りはほとんどおらず、最初のうちは、クラスになじむのに一生懸命だったが、春が終わる頃には、友達もできて、松は高校生活を楽しんでいた。
高校に入ってしばらくした後のこと。占いに凝りだした同じクラスのユカリが、腕試しに、好きな人との間柄がどうなるのか、休み時間の間を縫って、タロット占いをやり始めた。ユカリは自分は人より霊感が強く、知人から譲り受けたこのタロットカードも半日で自分のものに変えてしまったと言っていた。女子達は興味津々で、皆、ユカリに占ってもらいっていた。お陰でユカリはクラス中の女子の想い人の名を知ることになった。
このころ、松は、神崎君に想いがまだ残っていたので、ユカリに彼の気持ちを占ってもらったことがあった。ユカリは「神崎タケト」と言う名前を頭の中で繰り返しながら、カードを繰った。
「すごくいいカードがでた」と、ユカリは言う。
「相思相愛」
ユカリはこんないいカード滅多に出ないと言った。そして、しばらく別の人の占いをするためにカードをシャッフルし始めたが、「さっきの松の好きな神崎タケトの名前が耳について離れないわー」と言い続けた。
松は意外だなーと思った。神崎君が、あの神崎君が、家にある予備のボタンしかくれなかった神崎君が、自分に気があるだなんて、卒業して三か月もたつのに信じられないと思った。実際、神崎君とは卒業式以降、二度と会うことはなく、この後、本当に忘れてしまったけれど、この時、松は神崎君のことがまだ好きで、ユカリの口から「いいカードが出た」と言われたことで、松は少しでも、神崎君から想われることもあったんだろうかと、そう考えるようになった。
好きな人に好きと言えないのに、好きな気持ちを自分でどうこうすることもできず、ただ眺めるだけのくせに、自分は、意外と、男性から好かれているのかもしれないなどという根拠のない自惚れがこのころからでき始めた。
このような精神状態のまま、松は二年生になり、高校時代の憧れの人、大田原君と同じクラスになった。
大田原君は、法華津君や神崎君と同じでスポーツマンで、外見もすこし神崎君に似ていた。しかし、決定的に違うのは、大田原君は、絶対的なカリスマがあるということだった。
大田原君は、法華津君ほど背も高くなく、神崎君ほどお喋りでなかったが、頭がよく、人相のいい顔をしていた。特に、見えないところに目があるような感じで、何気ない様子でそつなく何でもこなし、隙がまるでなかった。友人からからかわれることもあったが、常に尊重されており、自分が人にくっついていくことはなく、いつも人の方から寄ってこられるような自信がみなぎっているところがあった。大田原君は一年の頃は、目立つグループにいなかったが、二年になると、がぜんその才能が際立ってきた。そして、席替えで松の近くになるチャンスが二、三度続いた。
大田原君と何を話したのか、オクテの松はあまり記憶がない。しかし、大田原君とは喋りたい松は、友達と話すフリをして、後ろをむいたり横を向いたりして、大田原君の方向に顔をむけて、必死に何か喋りかけていた。このころの話題と言えば、卒業後の進路についてだったような気がする。
三年生になって、やはり大田原君とはクラスが離れた。好きになった途端、クラスが離れてしまうのは中学の頃と一緒だった。松の頭の中は、殆ど神崎君の影は消えて、代わりに大田原君が居座るようになっていた。
高校三年ともなれば、中学生の頃のように、好きな人は誰それといった、好きな男子を言いあって楽しむようなことは、皆しなくなっていた。それぞれに、誰それが好きで、誰かが誰かとつきあっていて、といったような事はあったが、大騒ぎして言い合うような話題ではなかった。松は、大田原君が好きだということは、誰にも口にしなかった。言ったところで、「じゃあ、好きだって言ってみれば」とか「付き合ってみれば」とさらっと言われるに決まっている。松は、告白してその後どういう展開になるのだろうか、と思っていた。仮に相思相愛になったとして、いったい大田原君にどうして欲しいのか、どんな希望もなかった。
この頃の松にとって、大原田君は目の保養のような存在だった。
特定の男性アイドルに子供の頃から興味のなかった松にとって、身近なハンサム少年がアイドル代わりだったのだ。だから、目で追うだけで、「あの人に恋している自分」という夢に浸って、恋人気分を味わっていた。へたに告白してしまったら、振られる現実が待っているかもしれない。自分を満たしてくれているこの淡い恋心が消えてしまうかもしれない。「もしかしたらあの人は自分を好いてくれているのかもしれない」といった夢が崩れかねる現実があるかもしれなかった。松は、自分が守ろうとしているのは、自分よがりの安っぽいプライドだと薄々分かっていたけれど、たとえ、ばかげていると言われようが臆病だと罵られようが、松は、決して、自分のカラから出て行こうとはしなかった。
しかしながら、松が信奉する「女学生のような恋」(実際、女学生なのだが)に、世の女学生共が満足しているわけではない。松の同じクラスで仲の良かった清美ちゃんが、ある日言った。
「わたし大田原君のことが好きなんだ。今度の彼の誕生日に、プレゼントを渡そうと思っているんだー」
清美ちゃんは、松に「プレゼントを渡しに行くからついてきて」とは頼んだりしない。何気ない、ちょっとそこまで言ってくるわと気軽な様子なのである。
「そうなんだ、頑張ってね!」と、松は清美ちゃんを笑顔で送り出したが、心の中は、「またか」と、思っていた。
小学生の時、法華津君に想いがあったけれど、ルリちゃんから「わたしは法華津君のことが好き」と言われて、何も言えなくなったことを思い出した。今回も、清美ちゃんの方から先手を打たれたような感じになってしまい、松は何も言えなくなってしまった。むろん、清美ちゃんに心の内を知らせるつもりはなかったが、面と向かって「大田原君が好き」と、言われれば、なんともいえないモヤモヤしたものは感じる。
清美ちゃんは、予定した日に、足取り軽く、大田原君にプレゼントを渡しに行った。松はそれをなすすべもなく見送っていた。大田原君ともっとお喋りできるようになったら楽しいだろうなーという希望がないわけではないが、その先どうしたいか意思のない松に、恋する清美ちゃんに対して、何の言葉も浮かんでこなかった。
その後、松達はすぐに高校を卒業したので清美ちゃんの恋がうまくいったのか知らない。大田原君は、県外の遠い所に進学したので、その後どんな彼女と巡り合ったのか知る機会は全くなかった。
そして、大田原君のことは、神崎君の時同様にその後、だんだんと影をひそめ、ただの思い出の人となっていった。
松は自宅から電車で通える近場の短大に進んだ。
女ばかりの世界にどっぷりはまって、恋をすることは殆ど忘れていた。
部活動やバイト先などで、たまに同い年の男性と会うことがあっても、心ときめくような人などどこにも見当たらなかった。男性なんて下らない、とさえ思うようになった。そして、短大卒業を迎え、松は、就職し、社会に出て行くことになった。
つづく




