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10.“求めよ、さらば、与えられん”

10.“求めよ、さらば、与えられん”



 翌日の朝、松は会社に向かわず、徳永さんが乗る予定の飛行機が出る空港に向かった。


 空港に着いてから、松は、ハタと止まってしまった。松は外国に行ったことがなく、国内線の飛行機すら乗ったことがない。つまりは、空港という場所に来たことがなかった。この広い空港の、外国へ行こうとしている人がどこへ行くのか、ニューヨーク行の飛行機がどのあたりから出るのかまるで見当がつかなかった。



 しばらく立ちすくんでぼーっとしていたが、とりあえず「国際線」とかかれている方向に足を運んだ。スーツケースやリュックをさげた国内外の人間がうじゃうじゃしている。いままさに外国に行こうとウキウキした気分が伝わってくる。



 松は、壁に貼られている空港内の案内図に目をやった。


 第一ターミナル、第二ターミナル…「北ウィング」、「南ウィング」と書かれてあるのだが「北ウィング」と言われても、明菜ちゃんはここからいずこへ向かって海を渡ろうとしたのかなあと、全然関係のないことしか想像できず、なんともピンとこなかった。


 空港って、どこもかしこも天井が広いよなー、なんか外国にいくぞっていう高揚した気分が伝染しそうだった。テキトーに目星をつけた場所でウロウロするのに時間がかかってしまった。いったいどこを探したらいいのやら。途方にくれそうになっていたその時、後ろから声をかけられた。




「花家さん!」



 振り返るととても見覚えのあるふたりがこちらに向かって微笑んでいた。ふたりは赤ん坊のバギーをついている。徳永さんのお隣に住んでいたあの若夫婦だった。



「どうしたの、徳永さんのお見送り?」笑顔で奥さんが近づいてきてくれた。



「はい」覚えのある顔に出会えて松も頬がほころんだ。「奥さんたちもですか?」



「私達、たった今、お別れしてお見送りしてきたところよ」彼女は言った。「荷物あずかっていたから、彼、昨日ウチに泊まったの。それで、見送りがてら一緒に持ってきてあげたのよ」



「そうだったんですか」



「あれぇー今日は花家さんが見送りに来るって、徳永さん、言ってたっけ?」


 と隣でご主人が独り言をぶつぶつ言い始めたところ、奥さんがヒジで夫をつっついて黙らせていた。



「まだ、徳永さんと会えてないの?」



「ハイ…」



「チェックインはとっくにすませてたわよ。このあたりをちょっとだけブラついてから中に入るって言っていたから、今だったらまだこの辺にいるかもよ。一緒に探してあげるわよ」



 彼女は赤ん坊をバギーに寝かせて夫にまかすと、松の手をとって一緒にその辺を探しまわってくれた。



「ほんのちょっと前までここに居たんだけどねェ…」


 ひと通り走り回った後、どこにも見当たらなくて、ふたりは売店の前でしょんぼりと立ちすくんだ。



「ありがとうございます」松は礼を言った。



「せっかくなのに、会えなかったら残念よね」



「もうちょっと早くこればよかったですよね。こんなにギリギリに来たわたしが悪いんですから、仕方ないです」



 旦那さんがバギーを押して近づいてきた。



「見つかった?」



 奥さんは首を振った。


 赤ちゃんがグズっているようで、お父さんの胸に抱かれている。赤ちゃんを旦那さんから受け取ると、奥さんが言った。



「主人がこれから仕事なんで、あたし達もう帰らないといけないの。車できているから、一緒に乗って帰る?」



「あっ、いいえ」松は言った。「わたしはもう一度、この辺をさがしてから帰ります。予定があるなら、どうぞ先に帰って下さい。ご迷惑をかけてすいませんでした」



「徳永さん、花家さんにニューヨークに遊びに来いって、誘われなかった?」奥さんが言った。



「ああ、仰っていました」松は答えた。



「もし行くことがあったら」奥さんは言って笑った。「また、土産話きかせてね~」




 松はそこで、若夫婦一家と別れを告げた。そしてまた、その辺をプラプラ歩いて探してみたけれど、それらしき人は見当たらなかった。




 松は、空港内のトイレ近くの前にある、背もたれのない小さな椅子にどっかりと座りこんだ。きっともう中に入ってしまったんだ。なんだか自分の気持ちを劇的に考えて、ここまでやってくるなんてばかみたいに思えた。




 仕方ない、帰るか。


 すぐそばのコーヒーのスタンドに目がいった。松はそこでカプチーノを買って、売店前の丸椅子に座ってコーヒーを飲んだ。これを飲んだら帰るつもりだった。飲みながら目の前のトイレの出入り口をぼーっと眺めていた。




「あれっ」



 トイレから出てきた背の高い男の人が、こちらを向いて立っている。松は、コーヒーのカップを片手に、この人誰だっけと思いながら、その人を眺め返していた。



「ハナイエさんじゃない」



「徳永さん」と、松は言った。「えっと」



「ここで何しているの?」



「もう、中に入られてしまったのかと…」



「いや、トイレに行っていたんだよ」彼は後ろのトイレの表示を指さして言った。「これからはいるところ」



「そうですか…」と言ったが、後の言葉が続かない。



「どうしたの、何か用事?」彼は言った。



 ようじ…



 何か用事があったっけ?



 と、松は思った。




「何か忘れ物してたっけ」徳永さんは言った。



「あの、お見送りにきました」




 徳永さんは、一瞬、



???という顔になった後、



「…」という感じになった。




「それは、ありがとう」と、彼は言ったが、まだ「…」という表情のままだった。



 その表情は何を意味するのか、迷惑なのかな、と、思った。



 「あのわたし」松は何か喋らなければと、頭を回転させた。「試験の結果をお知らせしたくて。あれだけお世話になったのに、何も言わずにお別れになってしまって、申し訳ないなーと思って、どうしてもお会ってお礼申し上げたかったんです」




 徳永さんは、「…」という顔のままますます固くなっていった。




「結果は、不合格だったんですけど…」と、松は前置きした。「貿易実務の得点が足をひっぱっちゃったので不合格だったんですけど、でも、英会話の点数は前の英会話講座のテストのときよりずっと格段に上がっていて、英語の筆記の方も点数が高かったんです…徳永さんが、一生懸命指導してくれたお陰です。本当にありがとうございました」





言えた。とりあえず思った事のひとつを、言った。





「試験結果のことは、知っているよ。結果発表の日にトクミツさんに電話して聞いたし、それに、ハナイエさん、メールくれていたでしょ」徳永さんは短く言った。




「ああ、はい、でもお返事なかったので、メールが着いてないと思っていました」




「そんなことないよ、ちゃんと読んでいたよ」と、彼は言った。そして無言になった。




 ちゃんと読んでいたのに、どうして返事くれなかったんだろう、と松は思った。



 返事するほどのことでもないのかな、と思った。



 徳永さんは、まだ「…」っていう顔のままだった。



 なんとも言えない表情。



 徳永さんはいつも表情の変化が豊かなので、こんな風に黙り込まれると、何を考えているか分からない。松は、こんなところにまで、こんなことを言うために、わざわざ見送りに来るなんて、と、やっぱり迷惑がっているのかと思った。




「もう時間ですよね」松は言った。「お引止めしてすいません」




「え?ああ、うん」徳永さんはそう言って腕時計を見て、電光掲示板にも目をやった。そして、「でも、まだ大丈夫だよ。僕もここでカプチーノを飲んでいい?」と言った。




「へっ?」




「カプチーノだよ。ハナイエさん今までカプチーノ飲んでいたでしょ」彼は彼女の片方の手に握られているコーヒーの紙コップを見て言った。「唇に泡が付いているからわかる」




 松は、赤くなって急いで唇の泡をふきとった。そして、「はい。じゃあわたし買ってきます」と言って、急いでさっきと同ところでカプチーノを買ってきた。




 徳永さんは、松の隣にある丸い椅子に座って待っていた。




「おーっサンキュ」徳永さんはいつもと同じような無頓着な顔になって紙コップを受け取って礼を言うと、おいしそうにカプチーノを飲み始めた。




「今日は、会社はどうしたの」



「休暇をとりました」



「そっか」


 としか言わなかったが、徳永さんはいつもの笑顔に戻っていた。




 こうやって横からみてみると、マツゲは長いし、目はぱっちりしているし、鼻は高いし、やはり彼はイケメンだなぁと思った。




「見送りに来てもらうのに会社休ませちゃって悪かったね」



「イエ…」


 松は、徳永さんが唇に泡つけて、カプチーノを飲み干すところを眺めていた。



 その間、桐子の言葉を頭の中で繰り返していた。



 「明日、ちゃんと自分の口からいいなさいよ!」と隣で言われているような気分だった。




「あのー」


と言ったが、呼吸をするのも苦しい…



「ん?」



「わたし、ニューヨークへ遊びに行ってもいいですか」



「ええ?ああ、いいよ。いいって何度も言ったでしょ。是非おいでよ」



「あの、この秋にでも」



「いいよ。いつでも大歓迎だよ。君の友達、あの桐子ちゃんていう子と一緒にさ」



「あの、ひとりで行ってもいいですか」



「ん?」と言って徳永さんは松の顔を見た。


そしてまた、「…」っていう表情になった。



「…あの、ご迷惑でなければなんですけど」


 松は、自分の顔が見れないぐらい赤くなっていて、緊張しているのが自分でも分かった。そしてもう一度言った。



「ひとりで遊びにいかせてもらいたいんですけど…」



 

 シーンとなった。彼がなかなか返事をしようとしないので、だんだんと後悔がこみあがってきた。でもいいや、彼はもうすぐいなくなる人なんだから、どれだけ恥をかいても、かまうもんか。




「迷惑じゃないよ」と彼は言ってから、また、「…」って顔になった。




 再び沈黙。



 徳永さんは無言でコーヒーを飲み続けていた。



 何を考えているのか…



 こんなこと、前にも経験したことがあった。



 神崎君にボタンを下さいって電話をかけたときのことだ。あの時も緊張の塊で、今と同じに、松は真っ赤になっていた。断られて恥をかいても、卒業でお別れなんだからかまわないやというヤケクソ半分な気持ちだった。今回もなんだか状況が似ている。ひとりで遊びに行かせて下さいなんて、彼は本当は嫌なのかもしれない…





 コーヒーを飲み終わると、「いつ、来るの?」と、彼は言った。





 心臓が再び動き始めた。



 松は、「よければなんですけど、十月ぐらいに。いつ休暇がとれるか分からないですけど、今年は夏期休暇をまだとっていないので、その時とろうと思って」と、言った。




「十月ね、分かったよ」と、徳永さんは言った。「たぶん、現地に着いてから一か月ぐらいはバタバタしていると思うけど、その後ならいつでも大丈夫だから、予定しておくよ。休暇が決まったら、連絡してくれる?」




「あっはい」




「携帯の電話番号もメールアドレスも変えないでそのまま向こうにもっていくから」




「分かりました」まるで仕事しているみたいな会話だなと思った。




 また少し無言になった。



 彼はもう一度袖口をまくって腕時計に目をやった。もう行かねばならない時間だった。



 まだ言うべきことが残っているのに…



 彼は空になった紙コップをそばにあるクズカゴに捨てた。




「あの」


言わなきゃ、今、言わなきゃ。




「ん?」



「あの、メールしたら、今度は、お返事くれますよね」


何か言わねばと思うあまり、失礼極まりないことを口走ってしまった。



しかし徳永さんは、すぐに


「するよ。この前返事しなかったのは、悪かったよ」と、言ってくれた。



「悪くなんかないですよ。わたしがお世話になったのに」



「いやー、自分の査定のために君に英会話のレッスンをしたなんて君に知られて、すごく怒っていると思ってさ。なんか、もう、社内試験のことじたい忘れてしまいたくて、ホントにゴメン」



 彼は、すごくいたたまれないような様子だった。


 やっぱり彼は、あの時、口を滑らせてしまったことを後悔していて、社内試験の後、試験のことについて何も触れようとしなかったのだ。




「でも、そのお陰であんなにレッスンして頂けたし」松は言った。「すごく一生懸命やってくださったんで、わたし本当に嬉しかったんです」



「そっか」と、彼は言った。「そんな風に思ってくれていたならよかったよ」彼は言って唇に泡をつけたままにっこりとほほ笑んだ。そして口元をぬぐった。

「さて行くか」


 そう言って、彼は立ち上がった。


 二人は一緒に歩き出した。


 手荷物検査の列はもう空いていた。見送りの人とはここでお別れだった。




「向こうの連絡先が決まったらメールするよ」徳永さんは言った。



「はい、待っています」



 徳永さんは、シャツの胸ポケットから航空券とパスポートを取り出して用意した。



 もう間もなくだった。


 もう時間はない。



 松は、徳永さんの手ににぎられている航空券とパスポートを凝視しながら、どうしたらいいのか分からない気持ちと、言わなきゃいけないという気持がせめぎあって卒倒寸前だった。




 徳永さんは、「ハーっ」と息を吐いた。そして、松をまっすぐに見ると、「さっきから何か言いたげな顔しているけど」と、カンネンしたかのようにこう言った。「言いたいことがあれば、早く言ってくれる?もう時間ないから」




「あのわたし、徳永さんのことが好きなのかもしれません」


と、松はいきなり言った。


 いきなりなわりには、徳永さんは驚きもせず、


「かも(・・)しれないの?」と、気に入らないようだった。




「えーと、好きなんだと思います」


松は、自分は英語もダメだが、日本語もあやしいと思った。


「好きです、はい。多分だいぶ前から」




「うん、知っているよ」徳永さんはすごくじれったそうだった。「知ってたよ」



「はあ」



「周りの人から聞いたの」と、徳永さんは言った。



「何がですか?」



「オレがキミの事を好きだってことを、周りの人から聞いたんでしょ。だから今日、言いにきたんでしょ」



 また顔が赤くなってくる。


 徳永さんは、にやにや笑いながらお見通しな顔をしていた。



「はい…」と、松は答えた。



 松は、心臓が止まりそうなほど苦しかった。徳永さんの顔にいつもの満面の笑みが戻って来た。彼は、



「ありがとう、嬉しいよ」と、照れくさそうにちょっと下を向いて


「すごく」と付け加えた。




 どうしてこういう成り行きになるのだろうか。



 せっかく勇気を出して告白したのに、知っていたってどういうことなんだろう…



 愛の告白ってこんなもんなのだろうか。と、考えている間も、徳永さんはこちらを見てにこにこしていた。そして、


「じゃ、元気でね」と言った。




「徳永さんもお元気で」



「ハナイエさん…ニューヨーク、本当にひとりで来るの?」と、彼はからかうように言った。「ひとりで来れる?」



「はい、ひとりで行きます。わたし、そんなに引っ込み思案じゃないですから、大丈夫ですよ」



 徳永さんは、ハハハと明るく笑った。



「そうだったね!」と言った。彼が笑ってくれたので、松も微笑み返すことが出来た。



 松は、彼が行くと思った。


 が、彼は、やり残したことがあるかのようにその場から動こうとしなかった。




 どうしたんだろう。何か忘れ物?




 ふたりはほんの少しの間向かい合って立っていた。


 彼は、おもむろに機内に持ち込む小さなキャリーの上に、肩にひっかけていた手荷物を置いた。そしていきなり、両腕をひろげ、松の体をぐいと自分の胸に引き寄せると抱きしめた。



 突然のことで何が何だか分からなかったけど、松は、条件反射で、徳永さんの背中に腕を回して一瞬ギュッと互いに抱きしめあった。




 この時の、心と体が同時にじわーっと暖かかくなってくるあの感覚は忘れることが出来ない。英語が上達しているよって言われた時と同じぐらい、幸せな感覚が、泉のように溢れてくるようであった。




 それは、ほんの十数秒ほどの間のことだった。徳永さんは、松を静かに離すと、何食わぬ顔で手荷物をとりあげ、「じゃあ」と言った。



 そして、手物検査を済ませて、向こう側に行ってしまった。彼は、最後に、振り返ってもう一度手を振った。




 徳永さんの姿が見えなくなると、松はそのまま空港を後にした。



 休暇は午前中しかとっていなかった。


 早くもどらないと。


 松は小走りに空港を出て、電車の改札口に急いだ。来た時は焦りと不安で胸が苦しかったけれど、今は、体は軽く心はぽかぽかと温かかった。



本編終了、エピローグへ。

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