9.湧きあがる気持ち
9.湧きあがる気持ち
次の月曜日に、社内試験の結果が来た。
給与明細のような、端っこの点線をハサミで切ってパラっとめくるタイプの通知表だった。結果は、予想通り不合格だった。松は科目別の点数を見たが、それは意外な結果であった。
簿記が満点で、その次に点数が高かったのは、何と英会話だった。その次に英語の筆記で、うんとはずされて、貿易実務が赤点という結果だった。
この点数からすれば、貿易実務さえ及第点が取れていれば合格ラインという実に惜しい結果だった。
簿記の満点が金字塔のように光っている側で、そう悪くない点数の英会話と英語筆記の点数が横に並んでいる。
そして、うーんと離されて、なんともみずぼらしく可哀想な貿易実務の点数が赤く主張している。
不合格は残念だったけど、貿易の点数が低かったことよりも、頑張ったエイゴが、いや英会話を頑張ったお陰なのか、筆記の方の得点までもがウンとあがっているのが嬉しかった。もう絶対ダメだと思った英会話がすごーくよかったのが、信じられなかった。
「残念だったねー」トクミツ氏が試験の結果を見て言った。「ま、今回は難しかったらしいから」
「はい」
「次回頑張ったらいいんだよ。あ、それと。お世話になった人にはお礼を言っといた方がいいよ。結構気にかけているもんだから」
「はい、そうします」トクミツ氏は徳永さんの名前は出さなかったが、徳永さんに礼は言っとけよという意味だと思った。まず、津山さんにメールした。
『すいません、貿易実務○○点でした!勉強不足でごめんなさい』と、津山さんにメールを送った。
あまりにひどい点数で、恥ずかしさより笑いがこみあげてくる悪さだ。
『残念だったねー。後半の得点が伸びていなかったから、まずいなーって思ったけど、皆今回は難しいって言っていたから、まぁそんなに落ち込まないで』という返事が返って来た。
徳永さんはニューヨーク行の前に、親会社の東京の本社に滞在していた。まだ日本にいる。彼のいる親会社の連絡先は聞いていない。携帯電話は解約しないと聞いていたので、社内試験は、不合格だったが、英会話の得点が予想以上によかった旨を携帯メールに報告した。
『社内試験は不合格でしたけど、英語筆記と英会話は〇〇点でした。予想以上によかったです。徳永さんが教えて下さったおかげです。ありがとうございました!』
いつもの徳永さんの調子で、『よかったな』とか、『落ちて残念だったな』とか『まだまだ、もっと勉強しろよ』とか、『これからも英語つづけろよ』とか、そんな返事を期待していた。
…が、待てど暮らせど一行に返事がこない。
生徒の得点の良し悪しが査定に響くのなら、もっと反応があってもいいのになーと思いつつも、いや、もう縁のなくなってしまった人に愛想よくしても仕方ないと思っているのかなと思うと、ちょっと寂しかった。
徳永さんは、松のこと好きなのよ、それは皆知っているよ、と桐子は言っていたけれど、そうでもないのかな…と思った。
もう徳永さんのことを考えるのは今度こそやめようと思っている所に、数日して、ちょっとした問題が起った。
「徳永さんの指定振込先が解約されているので、経費の振込がエラーで戻ってきまして」と、財務部から連絡が来た。
徳永さんの経費の振込先は、このあたりにしかない地方銀行で、松の会社の社員は全員ここの銀行に口座をもっていて、そこに振り込まれる。
「徳永さんは、ここを去る際に、ここの銀行の口座を解約していったんだと思います」松は答えた。「それで振り込めなかったのでしょう」
「それでは、別の口座に振り込むので、ご本人に違う銀行の口座を教えてもらってください」
徳永さんと話せる機会ができたので、松は、嬉々として彼のいる親会社の彼の担当の部署を急いで調べて電話をかけた。徳永さんと話していなかったのはたったの数日だったのに、もう懐かしかった。松は、経費の支払いの要件の他にも、テストの結果のことを是非に知らせてお礼を言っておかなくちゃと心構えて、コール音をききながら徳永さんがでてくるのを待っていた。ところが電話にでたのは、事務の担当の女性だった。
「申し訳ありません、徳永は出張中でして」とても丁寧な受け答えだった。松が事情を話すと、事務の女性はとてもスマートに事を運び、たちまち要件がすんでしまった。
「あの…」
「何か?」
「徳永さんはいつ、ニューヨークに発たれるのですか」
「明後日の朝一の飛行機の予定です」
明後日の朝一か…と思いながら、お礼だけ言って電話を切った。その日、松は理由もなく、徳永さんから連絡がこないかとずっと待っていたが、電話もメールもまったく梨の礫だった。
松は、しぶしぶ席を立って家路についた。家に帰る途中、この前、送別会の後、桐子と桐子の彼のタカシ君と話していたことを思い出していた。
「わたしは、ショウは内気だから、徳永さんのこと好きでも何も言えないって思っていたんだ」桐子がお酒のはいったグラスを傾け語りはじめた。
「だから、ショウが、徳永さんのことが好きでも、きっかけがないと言いだせないって思っていたの。徳永さんも不器用で、デリカシーに欠けるし、よくみたらあまり男前とも言い難いし、イケメン好きのショウにしたら、思い切って告白するほど好きじゃないのかもしれない。そのうちショウが、それほど徳永さんのことが好きでないなら、下手に煽ったりするのも悪いなあとも思うようになって」
「…うん」
「でもね、徳永さんがショウに好きだって伝えたら、ショウも気持ちが変わるかなーって思っていたの。一緒に仕事している間は無理としても、最後の日ぐらい、それらしいこと言うのかなって少し期待していたんだけど、徳永さんは何も言わなかったし、やっぱり、徳永さんもそこまでする気持はなかったのかなぁって」
タケシ君はにこにこしながら、コトが上手く運ばなくて気落ち気味の彼女を慰めた。ふたりは長い付き合いで、まるで熟年夫婦のように自然に相手を労わることができるのだ。
「仲いいね」松は羨ましくなって言った。
「あたし達も、最初っからこんな感じじゃなかったよ」桐子はタケシ君に微笑みかけた。「あたしも最初は松と同じで、タケシにはすっごく冷たかったんだー。ねっタケシ」
「冷たいも何も」タケシ君は面白そうに言う。「オマエ、俺に全く無関心だったじゃないか」
「そんなことないよ!普通に友達だと思っていたの。でも、タケシは何度も告白してくれて、その度に断って、すごく傷つけてきたの。タケシはそんなわたしをずーっと好きでいつづけてくれてさ」
「へぇーっすごい」松は、感心してタケシ君を見た。タケシ君は照れて笑っていた。「そんなに桐子のことが好きだったんだね」
「タケシと両想いになったのは、ほんの数年前からなんだよ。でもタケシは中学生の頃からわたしのことをずーっと想ってくれていたの。わたし、とても借りが大きすぎて、彼には返せていないの」
「こういうのも、粘り勝ちって言うのかな」タケシ君はちょっと照れながら言った。
「まぁ、自分の気持ちが諦める方向にいかなかったってだけの話なんだけど。こういうことはね、まわりがどう騒いでもどうしようにもないんだよ。本人同士の問題なんだから、花家さんもそう思うだろ」と、タケシ君は松に水を向けた。
「へ?」
「本人同士の問題だと思わない?花家さんが徳永さんに何も言わないのは、別に意地張ってるわけじゃあないだろ?」
意地を張っている…そうなのかな、そんな風に見えるのだろうか。
「花家さんが、徳永さんが好きでないのなら、僕らは何も言うことないんだよ。でも、少しでも気持ちがあるんなら」タケシ君は続けた。
「このまま何もしないのは、後で後悔することになるって、桐子は言いたいんだよ」
「・・・・・・」
「まさか、徳永さんが舞い戻ってきて、向こうから告白してくれるのを待ってるんじゃないでしょ?」と、タケシ君はいたずらっぽく言った。
「そこまで自惚れていないよね」
「ちょっとぉ、タケシ誰が自惚れているって?」
桐子が文句をつけようとするのを、松はさえぎった。
「ううん、いいの。桐子」松は言った。
「でもー」
「いいの、タケシ君の言っていること当たっている所もある。わたし、自惚れているわけじゃないけど、まわりから徳永さんがわたしのこと、好きかもしれないって言われて、正直、すこし浮かれてたかも」
松は言った。
「もちあげられて、いい気分だった。だから、このままの状態でサヨナラした方が気分よく終われると思っていたんだと思う」
「えっ、そうなの?」桐子は、自分の目の前で友達にケチをつけた恋人に文句を付けようとしていたが、今の一言で止まってしまった。
「ということは、やっぱりショウは徳永さんのこと、好きだったの?」
「それはわからない」松は、本当に分からなかった。
「そんな風におもったことなかったから。どうなのかな、わたし徳永さんのこと好きなんだと思う?」と、逆に尋ね返した。
「わたしはそう思うよ」桐子は言った。「そう思うんだけど」
「そっか…」と松は言ったが、それ以上の答えはでてこなかった。
その日の夜、桐子と桐子の彼氏のタケシ君と一緒に松はお酒を飲んだ。タケシ君はとても桐子のことを想っているようで、とても優しい人だった。こういうのを、幸せなカップルって言うんだろうなーと思いつつ、二人を目の前にして、自分は果たして、誰かとこういった関係になり得るんだろうかという気分だった。
「徳永さんは松のことが好きなんだよ」と、桐子は耳にタコができるほど言ったが、松にはよく分からなかった。昔、神崎君や大田原君のことが好きで、ただ眺めていた頃のように「好き」の向こうに何も見えなかった。
「ごめんね、ショウ」桐子は言った。「こんな話して。徳永さんとはもう会えないのにね」
「ううん、桐子。わたしこそ、気を遣ってくれてありがとう」
もう会えない…
毎日会って、色々お世話をしたり、なったりしていたのに明日からもう居ないんだという実感が初めて湧いてきた。
徳永さんが使っていた電話も机も撤去され、徳永さんがついこの前までいた場所は、からっぽの空間になった。
鳴る電話も、響き渡る声にも徳永さんの声はなく、英語で話しかけてくる電話ももうない。周りの人も徳永さんがいたことさえ忘れてしまったかのように振舞っている。隣の隣の営業課長の古賀氏も、ついこの前、飲み会で暴言を放っていた事さえ、全く忘れてしまったかのようだった。
「英語、続けた方がいいよ」と、徳永さんは言っていた。「約束してね」
胸がぐーっと締め付けられるように切なくなる…
なんだろうこの気持ち。
こんなこと経験したことない。
寂しいのと、心に穴があいたような感じと、何かやり残したような複雑なキモチだった。
胸の奥にモヤモヤしたものを感じながら、夕方になった。終業近くになって営業マン達が帰社する時間帯に合わせるかのように、まわりの営業課に電話が鳴りだす。松の居る経理課は静かなものだが、徳永さんがいたころは、よく隣の席まで国際電話を取りに言ったものだ。
ジリリリリリ…
目の前の電話が鳴った。
松が電話を取ると、聞き覚えのあるインド訛りの英語が聞こえて来た。国際電話だった。スワニーさんだった。隣の島の電話は撤去されているので、もうかかってくることはなかったが、スワニーさんは松の居る経理課の電話にたまーにかけてくることがあった。
スワニーさんは、徳永さんの携帯番号を知りたがっていた。松は彼に彼の電話番号は変わっていないはずです、と言って「念のために」と彼の電話番号を教えてあげた。スワニーさんは、満足して電話を切った。
スワニーさんと最初電話で話していた頃、まるで聞きとることができなかった。「後で、こちらから掛けさせますから」と言っていつも英語でかかってくる電話に同じ応対ばかりしていた。今回は、普通に話すことできた。普通にスワニーさんの言う言葉がなんとかではあるが理解できて、普通に返答することができた。いつも「英語の電話がかかってきたら嫌だなあ」というドキドキ感は、ないことはないが、物凄く減った。とても落ち着いて話せるようになっていた。それも全部徳永さんが熱心に指導してくれたお陰だった。
松は、受話器を置いて考えてみた。
わたし、徳永さんにしてもらってばっかりだ。
朝早く出勤してもらって、夜遅く残ってもらって、バーベキューに呼んでもらったり、お休みの日をまるまる一日割いて特訓してもらったり。
聞き取れるようになるまで、つきあってくれた。どんな質問にも誠実に答えてくれた。その上、ニューヨークに遊びに来いと、誘ってくれさえした。
自分の知らないところで、松の事を「ハナゲ」とあだ名をつけていたけど、それは愛称であって、全く悪気のないことで、後から彼は謝ってくれた。とてもすまなそうだった。そして、彼はこう言った。「これからも英語、続けてね。約束して」
いやに強引だなぁと思いつつも、松は、社交辞令としか受け取っていなかった。徳永さんには振り回されることが多かったから、本音を言うと、あまり近づきたくなかった。でも、自分はしてもらったことにお返しをしなかったし、お礼さえ殆どしていなかった。
松は、知らないうちに電話をかけていた。
「あの、先日そちらの徳永さんが、ニューヨークに明後日発つってお聞きしたのですが」電話にでてくれたのは、先日、社内経費の振込先のことで担当してくれた、事務の女の人だった。「便名と時間を教えてくれませんか」
彼女は徳永さんが乗るはずの、飛行機の便名を教えてくれた。
「〇〇空港の、JAL×××便ですが」
〇〇空港は、松達の会社から、電車でほんの一時間半ほどのところにある空港だった。
「えっ、成田じゃないんですか?」
「はい、徳永さんが以前そちらにお住まいだった時の荷物が、まだあるそうで、そちらで荷物をピックアップしてから乗りたいと仰って、わざわざ今日、新幹線でそちらに移動されましたよ」
「何時の便ですか」
「朝の九時の便です」
「ありがとう」
松は、明日の午前中、急用ができたので有給を取りたいとトクミツ課長に申し出た。突然のことでトクミツ氏もちょっと驚いているようだった。
「何かあったの?」と、彼は言った。
**
「ショウ~今から帰り?」
ビルの出口で桐子と遭遇した。彼女は両腕いっぱいにファイルの束をかかえて移動の途中だった。
「うん」
「そうだ、明日のランチ一緒にしない?」桐子は足を止めていった。
「ごめん、明日はチョット…午前中、有給をとるんだ」
「どうしたの、何か様子がヘンだけど」
松の声がいつもと違うことに気が付いた桐子は松の顔を覗き込んだ。
「どうしよう桐子」松は泣きそうな顔になっている。「あたし、どうしよう」
「どうしたの?」
「明日の朝、徳永さんが〇〇空港からニューヨークに発つんだって」
「そうなの?成田からじゃなくって?ああ、明日、休みとってそれで見送りに行くことしたんだ」カンのいい桐子がそう言う。
松は頷いた。桐子は嬉しそうだった。
「何て顔しているのよ、ね、どうしたの?」
何を言われても、松のこわばった顔は元に戻らない。
「どうしよう…桐子」松の声はもう消えそうだった。
「だからどうしたの?」
「あたし、徳永さんのこと、好きかもしれない」
「うん、わたしもそう思う。ていうか、私達、前からそうじゃないのって言っていたじゃない」なにを今更って顔をしながら桐子は言った。
「どうしよう…」
「どうしようって」桐子は言った。「明日、見送りに行くんでしょ?」
「うん」
「じゃ、そう言えば?」
「・・・・・・」
「何て顔しているのよ!」桐子は笑って励ました。
「いつまででも内気なままじゃ前進しないじゃないの。とにかく明日、ちゃんと言いなさいよ。徳永さんによろしく言っておいて。ニューヨークに遊びに行かせて下さいって桐子が言っていたって」
「うん」
「もう帰るんでしょ?」
「うん…」
「バイバイ!明日は頑張ってね!」彼女はそう言って、「じゃ、あたし仕事中だからまたね。朗報待っているよ」と言って、去ってしまった。
こんな風に前向きに男の人と向き合おうという気持になったのは、本当に久しぶりだった。
たぶん、中学の卒業式の前日に学ランのボタンをもらおうと、ドキドキしながら神崎君に会いに行った時以来かもしれない。
あの時亜衣ちゃんは、「ショウってすごいねー」と、松の行動を褒めてくれたけれど、法華津君に手作りプレゼントを渡しに行った亜衣ちゃんこそ、松は尊敬の眼差しで見ていた。その時松は、亜衣ちゃんはお母さんに恋心を応援してもらっていたよな…と、自分にはありえない家庭環境を羨んだ、あの時のギューッとした切ない思いもよみがえって来た。
松は、幼いころから、人を好きになることは、恥ずかしいことだと教え込まれてきた。それ以来、自分の気持ちにフタをしてきた。好きな男の子ができても、憧れの眼差しで見るだけだった。告白しようとか仲良くしようとかそんなふうに考えることを決してしてこなかった。だけど、今回は、今回ばかりは…
「あの子、引っ込み思案なところがあるんだよね、あんな性格じゃ受かりっこないよ」
ちがうもん…わたしは、引っ込み思案なんかじゃない。
絶対にそんなことない。
と、松は心の中で自分に何度も言っていた。
旅行と言うものは、いつでもいけるようでめったに行けるものではないのだよと、トクミツ氏は言ったではないか。
人生のチャンスも、いつでも目の前にあるようで、本当はあまりないのかもしれない。
つづく