猛暑日
「あっぢいいいぃ……」
両手にうちわを装備しても、扇風機を独り占めしてもまったく解消される気配のないこの暑さ。
今、日本列島は夏の太平洋高気圧に包まれ、どこもかしこも異常なまでの暑さを記録している。
昼間のワイドショーを見ていても、日本のそこかしろで過去最高気温を叩きだす場所ばかりで、テレビを見ているこちらも余計な暑さまで感じる。
しかし、問題はそこではない。いや、根本的な問題はそこにあるのだろうけども、そうではない。
「刹佳さぁん……。あぢいぃ……」
「我慢して下さい。冷たい麦茶をいれるので……」
全身から吹き出す汗。前髪がこめかみにぴっとりと付き、Tシャツも首周りから背中にかけてびっしょりと濡れ、すごく気持ち悪い。
冷蔵庫から麦茶の入ったポットを出し、氷の入ったグラスに注いで持ってきてくれた刹佳さんも額に汗が光っている。
「大体、なんで目の前にエアコンがあるってのに付けられねぇんだよおぉ……」
カラン、と涼しい音をたててキンキンに冷えたお茶を一気飲みして言う。目の前に最新型のエアコンがオレのことを見下ろしているというのに、この生殺し状態にいい加減イライラしていた。
「仕方ないでしょう。あなたの傍にエアコン嫌いの方がべったりとしているんですから」
冷静に刹佳さんは言う。そして、目線はオレの隣にいる稔に向けられる。
「くうぅん、すうぅん……」
この暑さの中、気持ちよさそうな寝息を立てて眠る彼。数十分前からオレの膝を枕にし、大事そうにブサイクなぬいぐるみを抱いて昼寝をしているのだが、
「はっ……」
急に頭を上げて眠りから覚めた。身体を起こし、辺りを少し見回してオレの顔を見ると、
「起きまったぁ……」
と、伸びをしながらそう言った。いちいち動きが可愛らしい。
「それにしてもよく寝ていましたね。どうぞ、冷たい麦茶です」
起き上がったばかりの稔の前に刹佳さんは同じように麦茶を注いで持ってくる。彼は手渡しでそれを受け取ると、ゴキュゴキュと美味しそうに飲み干し、空になったグラスをテーブルの上に置き、どこか満足そうな顔をしてオレにくっついてきた。しかし、
「篤志さん、何だか汗臭いです」
そう言って、すぐに離れる。鼻に手を当て、ほんの少し眉間にしわを寄せている稔の頭に向かって、オレはすぐに拳を下ろした。まったく、なんて失礼な奴なんだ。
刹佳さんもさっき言っていたが、稔はエアコンが嫌いだ。いや、本人からすれば好き嫌いというものを感じることができないので苦手なものとして認識されているのだろうけれど、エアコン、というより風が出る機械すべてが彼にとって苦手認識されていた。
どうして風の出る機械が嫌なのかはオレもわからないが、エアコンに関してはそれだけではない。彼は異常なまでの寒がりで冷え性なのだ。だから、こんなに部屋が蒸し風呂状態であっても稔がリビングにいる以上エアコンにスイッチを入れることができないのだ。
「失礼な奴だな! こんなに暑かったら汗だくにもなるだろ!」
「暑い、ですか。僕は……まあ、少しジメジメしているとは思いますが、ちょうど適温だと思いますけど……」
ぬいぐるみをギュッと抱きしめて稔は首を傾げながら言う。オレも刹佳さんも汗をかくほどの暑さを感じているというのに、コイツは汗どころか頬も火照っていない。
「篤志さん、汗臭いです。臭いのやあです、こっち来ないでください」
この野郎……! 人がオマエのために我慢してやってるというのに……。オレは今すぐにでも稔をこの部屋から追い出し、エアコンを付けてガンガンに部屋を冷やしてやりたかった。
いや、追い出してやればいいんだ。気持ちの悪い顔をしたぬいぐるみで顔を隠しながらもじもじとしている彼を見ながら、悪い自分が心の内で目覚めた。
そうだよ、なにを稔に気を遣っているんだ。こんな人間的な感覚のおかしな奴を優先的に考えている暇があるのなら、真っ先に自分の欲のままにすればいい。
今、オレは暑い。身体が溶けてしまいそうなくらい暑い。暑い、暑い、暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い!!
「稔……」
顔を俯かせ、オレは小さく低い声で稔に声をかける。
「何でしょう」
耳のいい稔はどれだけ小さな声でも反応を返してくれる。だが、返事を聞いてすぐにオレは乱暴にも彼の身体を力いっぱい持ち上げた。寝起きでまだぼんやりとしている稔は突然持ち上げられて、ふええっ。といつものように困惑しながら鳴き声を出すが、その声が聞こえたのはすでにリビングの外へと放り出した後だった。
「よっしゃああああっ!!!」
バタン! とドアを勢いよく閉め、すぐさまリモコンの置いてあるテーブルへと走る。そして、白く細長いそれを壁の隅に設置されてあるエアコンに向け、スイッチを入れた。電源が入ると同時に設定温度を25度に、風量と風向を最大に変更するなり、オレはようやくソファーへと落ち着いた。
「花本さん……」
そんなオレの姿を見ていた刹佳さんは呆れ果てる。
「ああぁ……涼しい」
エアコンから吐き出される冷気が火照った身体に当たり、とても心地よい。室内の温度がどんどん下がっていくのを感じ、幸福感をおぼえる。
外へ追い出した稔には悪いことをしたとは少し思うが、それでもあのまま彼のためにエアコンを我慢していたら、もしかしたらオレがぶっ倒れていたかもしれない。
この暑さを適温だと言った稔は、正直なところこの部屋でなくても過ごせるはずだ。しかし、リビングにしかエアコンがなくこの暑さに耐えられないオレは現段階ではここにしか居場所がない。
「マジで、天国……」
呟いて、オレはズルズルとソファーから滑り落ちるかのようにずり落ち、そのまま眠りについてしまった。
◇
「ふえええ」
何故、僕は廊下にいるのだろう。
今まで僕はリビングのソファーで気持ち良くお昼寝をしていた。なのに、突然篤志さんに追い出されてしまった。
「酷いです、篤志さん」
座り込んだまま、僕は呟く。が、ドアの隙間から漏れ出てくる冷気に飛び上がり、そこから少し離れたところでまた座り込んだ。
僕は篤志さんと温度感覚が違うらしい。今は夏で気温も三十度を超えている。けれど、冷え性の僕にとっては今のこの気温が適温だと感じている。だが、篤志さんは暑いと感じているらしく、僕を追い出すことでエアコンを付け、リビングで快適に過ごしている。
「はっ、ぬいぐるみさん……お部屋の中です」
ずっと手元にあったはずのぬいぐるみを部屋の中へ置き去りにしてしまった。どうしよう、中に取りに入るにも極寒の部屋なんて入りたくもない。
うぐぐ、と考え、はっとあることを思いついた。そして僕はぬいぐるみ救出のため、すぐに行動に出ようとした。
まずは自室へ駆け込み、寒さから自分の身を守るためクローゼットの中から毛布を何枚も取り出し、ベッドからも布団を剥ぎ取って全身を包む。少々重さを感じるが、あの中に入ることを考えるとこれくらいの重さなど余裕で耐えられる。
「んっ……」
毛布の一枚が内股を擦ってくる。くすぐったくて声を出してしまうが、幸い誰も聞いていない。
「よし、行きます」
何枚もの分厚い布をまとい、僕は自室を飛び出す。普段のように俊敏には動けないし、これだけの毛布や布団に包まれているとさすがに暑さを感じるが、そんなのはこの廊下の数歩だけの辛抱で済む。
「と、到着しました」
呟き、ゆっくりとドアを開ける。布と布の隙間から前方を確認し、同時に足元にも気を付けながら進んでいくと、
「稔さん……」
キッチンの方から刹さんの呆れた声が聞こえた。しかし、今の僕は彼の呆れに付き合っていられるほどの余裕はない。
「ふええ、寒いですぅ」
ひんやりと足元から冷気が毛布の中に充満する。ブルッと冷えが身体全体に行き渡り震えるが、ぬいぐるみを奪還するまでの我慢である。
「ふあ、篤志さん……寝ています」
ドアからまっすぐソファーへと進むと、そこにはだらしなく眠る篤志さんの姿があった。背もたれからズレ落ち、下半身は床に着いてしまっている状態の彼にわざとらしくため息を吐くと、僕は求めているものを探す。
「はっ、ぬいぐるみ……ありました」
探していたぬいぐるみは僕が昼寝をしていた辺りにちょこんと落ちていた。両手に持っていた毛布の端を一瞬だけ離し、ぬいぐるみを手にするとすぐにでもその場を引き返そうとした。が、
「……んぅ……。あぁ……? 稔、なにしてんだ」
なんと、先ほどまで眠っていた篤志さんが目を覚ましてしまったのだ。
「あっ、篤志さん……」
「つか、なんだよその格好は……」
見つかってしまった......。
僕は一瞬慌てるが、その姿を彼に見せないよう毛布で全身を覆い隠す。視界は分厚い布に奪われてしまうけれど、焦ったところを見られるよりかはマシだ。
しかし、突然僕の身体がぐらりと傾いた。
「ふえっ」
そのまま、ドサッとソファーらしきものに打ち付けられる。衝撃と小さな痛みを感じた。
「なっ、なんですかっ。なんですかぁっ」
視界を毛布で遮られているために一体自分の身に何が起こっているのかさっぱり分からなかった。必死に手足をバタつかせるが、その行為が更に毛布が僕を包んでいく。
「ふええええええ」
もう、何がなんだか分からず鳴き声をあげたその時、バサッと視界が大きく開け、光が差し込んできた。
「なーにやってんだよオマエは......」
「ふ、ふあええ......。篤志さん......」
真っ白に光る景色の中心には、篤志さんがいる。僕は仰向けにソファーに倒れたまま、彼と顔を合わせた。
胸の奥で鼓動が激しくなっていく。何故か顔が熱くて、身体が縮こまってしまう。
「ふ、ふええええ。篤志さん......ふえええ」
「なにをさっきから鳴いてんだよ」
「はっ、はううう......。あっ、暑いですっ」
馬乗りのようにして見下ろす篤志さんに、僕は思わず手にしていたぬいぐるみを投げつけた。ボフッとそれは彼の顔に直撃し、ぐえっ! と情けない声を出させた。
「いっ、てえぇなああ! なにすんだよ!」
「暑いですっ。暑いです暑いですっ。篤志さんと一緒にいると熱くなりますっ。もう、こっち来ないでくださいっ」
自分でも理不尽に思うようなことを勢いで言い、僕は胸の中をムカムカとさせながらリビングを出ていった。
「あんの野郎......。なにが暑苦しいだ!」
部屋の中にいる篤志さんから、そんな言葉が聞こえる。けど、僕は廊下を数歩歩いた先で立ち止まり、そっと胸に手を当てた。
ドクン、ドクンと鼓動が激しく胸打つ。体の奥底から熱が上がってきて、落ち着きがなくなっていく。
――この気持ちは、一体何なのでしょう。
抱いてはいけない気持ち。でも、感じてしまう。
今まで適温に感じていた場所なのに、とても暑い。
「もうっ、これだから篤志さんはダメダメなんです」
思ってもいないことを言って、僕は自分の部屋へと駆ける。
そうだ、僕は篤志さんのことが......好き、なのかもしれない。
でも、感情のない僕には、今感じている気持ちが“好き”と呼ばれるものだということをまだ理解することは出来なかった。
それどころか、これからも理解することは出来ないかもしれない。