1.値上げ交渉中
真っ青な空、心地良い春風、少し強さを増した日差し。
たっぷりと日焼け止めを塗って、いつものショッピングセンターに遊びに行きたい。
それなのに、あたし、倉本星子は、この重たい空気の部屋に縛り付けられている。
あっ、もちろん、実際に縄とかで縛られているわけではないのよ。そんなハードな趣味はないの。
ただ、逃げられないだけ。
「別れて欲しい。」
あたしの旦那、倉本蓮が格好良い顔を歪め、あたしを真っ直ぐに見つめている。
何なの?この展開?ありえなぁい。
結婚して、四年ちょっと。それでもう破局?
それに何なの?このレンの隣にいる冴えないのに派手な女。
蛍光ピンクのロリータファッション?
ロリータファッションって、シックなモノトーンが多いはずでしょう?
それなのに、ピンク。それもサーモンピンクとかならありそうなのに、蛍光ピンク。
何処で売っているの?
その上、肌も荒れていて、化粧もありえなぁい。
実際の肌と合っていない真っ白なファンデーション。大きな口を強調する真っ赤なルージュ。
口元が強調され過ぎて、目とか鼻が翳んで何処にあるのかわからない。
もっと女を磨く努力をしなさいよ。
と、叫んでしまいたいけど、場を読む能力くらい多少ある。
本当のおバカじゃない、はずだ。
「どうして?」
レンの前では、おバカは隠してきた。
なるべく、お上品なお嬢様を装ってきたつもり。
別れてくれと言う男にもうそんな演技の必要はないと思うが、癖って怖いわ。
「ごめん、全面的に俺が悪いんだ。セイコには申し訳ない事をしたと思っている。」
「謝罪だけじゃ、わからないでしょう。」
はぁ、これも疲れるわ。
レンは優し過ぎて、はっきり物を言わない事が時々ある。
いや、今回の場合は、優しさではなく、自己防衛のためだろう。
でも、自分で仕出かした事は自分で決着をつけるべきだ。
さっさと、何があって、隣の蛍光ピンクの女は何者で、何で別れたいのか、はっきり言え。
ついでに、別れた後の事も話せ。
大人しくしているうちに、さっさと吐け。
「彼女が妊娠したんだ。」
は?妊娠?蛍光ピンク女が妊娠?誰の子?って、この場合、レンが種よね?
えっ?あたしという綺麗(ここ、重要)な妻がありながら、浮気?
それもこの蛍光ピンク女が相手?ありないぁい。
「それで?」
「だから、彼女と結婚して、子供を育てていきたいんだ。頼む、別れてくれ。」
あぁ、そう。ご自由に。
と、言いたいところだけど、冗談じゃないわ。
こんな自由で優雅な生活を簡単に手放してたまるものですか。
仕事も家事もしないで自由にお金が使えて、あたしの行動に文句も言わない。
友達にも鼻高々で自慢出来る、格好良くて素敵な旦那様。
やっと最高の男を見つけたのに、こんな女に取られるなんて、ありえなぁい。
「私に至らない事があるのは、認めるわ。でも、それなら言ってくれればいいじゃない。私、レンのためなら一生懸命直す。レンの事、愛しているの。別れたくないの。絶対に嫌よ。」
取り乱したフリをしているが、心の中では舌を出している。
あたしが愛しているのは、お金とレンのルックス。レン自身の興味はもうない。
「セイコ…。」
レンが噛み締めるようにあたしの名前を読んで、あたしの顔を見つめた。
これは成功かしら?もうひと押し?
「レンのいない時間は、すごく淋しかった。でも、お仕事だから仕方がないと思って、いつもレンを待っていたのよ。それなのに…。」
言葉を詰まらせ、テーブルに顔を伏せた。想いが盛り上がり、泣き出してしまったみたいに見えるはずだ。涙なんて出てないけど、効果的でしょう?
目線だけを動かしレンを見ると、本当に慌てている。
堕ろせなんて言えないけど、慰謝料をがっぽり貰いましょう。
そのための演技なら安いモノでしょう。
レンくらいの男なら、ゲットし直せばいいのよ。私なら、簡単だわ。
「でも、仕方がないのね。」
マスカラが落ちない事を気にしながら、涙を拭うフリをする。
顔をゆっくり上げると、レンの顔には安堵の表情。
もう少し、焦ってもいいんじゃない?
苛立つから、もう少し意地悪してやる。
「レンは、もう、私の事なんて、愛してないのね。…私がどんなにレンを愛していても一方通行だったのね、ずっと…。」
噛み殺した欠伸のお蔭で目元に涙。上目遣いでレンに視線を向ける。
「そんなに俺を愛してくれていたなんて気付かなった。ごめん、俺もセイコを愛していたのに…。」
「本当に?」
まずい方向に行き出した?彼女に堕胎させるなんて、そんな事にならないでしょうね?
ありえないわよ、新しい命を殺すなんて。
「あぁ、本当だ。」
「でも、もう、これ以上、一緒にはいられないのよね?彼女のお腹にはレンの子供がいるんでしょう?私はその妨げになっているんでしょう。レンにとっても、彼女にとっても邪魔な存在なんでしょう?」
引くように見せて、縋り付く。
これが可哀想で悧巧な女を演じる基本(?)。
「セイコにはすまない事をしたと思っている。お金で片付く問題じゃないが、慰謝料は弾ませてもらう。それで許してくれないか?」
もう少し言い方があるんじゃないだろうか?いや、あるはずだ。
「慰謝料?レンは私の気持ちをお金で片付けようとするのね。酷いわ。…確かに、これから一人で生活していくのに、お金は要るわ。でも、私が本当に欲しいのは、レンとの穏やかな生活を続けていく事と、レンの愛なのに…。」
ああ、自分の演技に反吐が出そう。よくここまで出来るものね。
「ごめん。許して欲しいとは言わない。でも、わかって欲しい。それで、これから生活するのに、ここをセイコに渡そうと思う。もちろん、ローンは俺が払い続ける。あと、生活費を月々払う。だから…。」
誠意を感じさせない言い回ししか出来ないのか?まぁ、別にいいけど。
あたしくらい神経が太くなければ、本気で揉めて、裁判に持ち込むぞ。
と、文句を言いたいのを飲み込み、話を進めるしかないね。
ここに住み続けるのは、確かに便利だ。ショッピングセンターには近いし、何処に遊びに行くにも交通の便がいい。
でも、すぐにでも再婚するつもりだから、そんな条件、飲みたくない。新しい男と新しい場所で新しい生活をしたいもの。
もしかして、あたしがこれから一生独身で過ごすと思っているのかしら?
それとも慰謝料をケチるためなの?そうだよねぇ、この条件なら再婚したら、支払ストップに出来るものね。最低限の金額で済むとか計算しているのかな?
「ううん。私はここにはいられない。だって、レンとの思い出が多過ぎて、辛いの。きっと一人残されたら、泣きながら暮らすようになってしまうわ。この街もレンと一緒にいた事を思い出させる。一人で歩いたら、淋しくて、何度もレンを欲してしまう。」
「セイコ…。」
「レンに捨てられたら、実家に帰るわ。もう、レンとも会わない。未練たらしく、縋り付きたくない。過去の女なんて迷惑なだけですもの。彼女と子供と三人の生活の邪魔は出来ないものね。」
だから、一括で慰謝料を頂戴。
そうねぇ、五百万円位?子供もいないし、実家に潜り込めば生活費も掛からない。
その間に、レンに変わる男をゲットすればいいわね。
「百万でいいか?」
百万?安く見られたモノね。
お金があるくせにケチなんだから。
「レンには新しい家族が出来て、お金が必要なんですものね。別れようとしている女に情けなんてかける余裕はないわよね。本当は丸裸で追い出したいくらいなんでしょう。…愛していたなんて、別れるための嘘なのね。そのくらい、私が嫌いになってしまったのね。」
長い睫毛を伏せ、視線をテーブルに向ける。感情的になってしまった自分を反省するように。
いやぁ、自分で言うのもなんだけど、役者だなぁ、あたし。
「もちろん、セイコの事を愛していたのは嘘じゃない。じゃあ、三百万でどうだ?」
だから、その誠実さを全く感じさせない言い回し、どうにかしてよ。
でも、もうひと押しかな。お金に意地汚い女だと印象付けないように、伏し目がちのまま、レンの言葉が耳に入らなかったフリをしよう。
「ごめんなさい。別にお金でレンの愛を図ろうとしている訳じゃないの。ただ、誠意を見せて欲しいの。別れた後も私を愛してくれたという誠意が欲しいの。」
「五百万。それが俺に出来得るセイコに対する誠意の精一杯だ。頼む、別れてくれ。」
だから、もう少し言い方を考えて。
よっぽど私と別れたいのね。こうなったら、焦らして、もっと引き出してやるぅ。
「本当に私が邪魔になったのね。私だって、レンの子供が欲しかった。レンの愛を独り占めしたいの。レンに似た可愛い子供とレンと私、幸せな家庭を築きたかったのに…。そんな邪険に扱われたのなら、私、もう生きていたくない。ねぇ、殺してくれない?もう、レンといられないのなら、それでもいいわ。」
ヤンデレ?
まぁ、それにしてもよくここまで言った。偉いぞ、あたし。
レンに人を殺す度量がないのは計算済みだし、新しく始めようとしている人がそんな愚かな事をするはずもない。
「セイコには本当にすまないと思っている。一括で七百万円。すぐにセイコの口座に振り込む。それを確認したら、離婚届に判を押して欲しい。」
よしっ。言い方は気に入らないが、仕方がない納得しましょう。
でも、金額で判を押すわけじゃない。そう見せるためにも、もう少し演技をしておこう。
「もうやり直せないんだよね?」
「あぁ、本当にすまない。」
「仕方がないよね…。」
溜息交じりに呟く、あたし。自分の演技に惚れ惚れするわ。
七百万円の入金を確認して、あたし達の離婚は成立した。
そして、あたしはバツイチコナシ二十九歳になったのだ。