マッスル・インシデント
だいたいテンプレ異世界転移風のギャグです。
学校の放課後は、いつもと同じように平穏無事に終わる予定だった。
試験勉強用のノートと参考書が詰まった鞄を肩にかけ、イヤフォンから流れるお気に入りの曲を聴きながら、私はいつもの帰り道を歩いていた。放課後の風景は穏やかで、街はゆるやかに暮れはじめ、空は淡いオレンジ色から薄紫へと変化しようとしている。
季節は秋だった。風は涼しく、少し肌寒さを感じさせるが、それがまた心地よかった。国道沿いの歩道を歩く私の足元には銀杏の葉が舞い降りてくる。まさに平凡な日常、穏やかな秋の夕暮れそのもの。
でも、その平穏は一瞬にして壊れ去った。
「キィィィィィィ――ッ!」
けたたましいブレーキ音が耳をつんざいた。反射的に顔を上げると、一台の大型トラックが目の前で制御を失い、こちらに向かって蛇行してきた。トラックは歩道の縁石を軽々と乗り越え、私が立っている場所へと猛スピードで突っ込んでくる。
「え、ちょっと待って!」
頭では逃げなければと考えるのに、足がまったく動かない。トラックの運転手は顔を真っ青にし、絶望的な表情でハンドルにしがみついている。私はただ、呆然と迫り来る巨体を見つめるしかなかった。
「危ない!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。だがその直後、もっと大きな唸り声が響き渡った。
「むんっ!」
それは人間の声というよりも、猛獣の咆哮に近かった。私の目の前に現れたのは、まるで壁のような巨大な背中。黒いタンクトップに収まりきらない広大な筋肉が隆起し、その背丈は二メートルほどもあった。デニムのジーンズから伸びる足は、樹木の幹のように太くたくましい。
その筋肉の塊のような人物は、猛然と突っ込んでくるトラックを真正面から受け止めた。
「ぶぉぉぉおおおおおッ!」
咆哮が空気を震わせ、路面が微かに亀裂を生んだ。信じられないことに、彼は数トンあるはずのトラックを完全に静止させていた。両腕は巨大な車両をしっかりと掴み、全身の筋肉がタンクトップを破りそうなほど膨れ上がる。
「え、嘘……だよね?」
呆然とした声が自分の口から漏れた。物理法則を完全に無視したこの光景は、現実のものとは到底思えない。まるで漫画かアニメの一場面のようだった。
トラックの運転手は驚愕と恐怖で目を丸くしている。周囲の通行人たちも立ち止まり、全員がその場に釘付けになっていた。スマホを構え動画を撮影し始める人もいる。
彼はトラックをゆっくりと地面に降ろした。その瞬間、サスペンションがギシリと音を立て、タイヤが再び路面を捉える。まるで重さなど感じないかのように彼は軽く首を回し、ストレッチでもするように肩をほぐした。
私は彼の背中を凝視していた。これほどの筋肉を持った人間を見たのは初めてだったし、何より、彼は私に一瞥もせず、周囲の騒ぎにも全く興味を示していなかった。
「……なんなの、この筋肉……」
私の呟きは、もはや感嘆以外の何ものでもなかった。周囲の喧騒が徐々に耳に戻ってくる。
だが、その時だった。
トラックを中心に、地面が淡く光り始めたのだ。
「え?」
私は周囲を見回した。アスファルトもガードレールも、歩道のレンガすらも白い光を帯び始め、次第にその輝きは強くなっていく。
これは絶対に異常事態だ。
逃げようとしたが、足がまったく動かない。光は広がり、やがて私と彼――後に知る名前だが、通称『マッスルさん』――の周囲を取り囲んだ。
「ちょっと、ちょっと待ってよ!」
焦りと混乱が叫び声に変わったが、世界はすでに純白の輝きに包まれつつあった。通行人や警官の姿も、トラックの影も全てが溶けて消え去っていく。
私が最後に目にしたのは、淡い光の中で堂々と立つ、あまりにも強烈な筋肉の背中だった。
筋肉と常識、どちらが強いのか――そんなこと、考えるまでもなかった。
こうして、私はそのまばゆい光の中へと完全に飲み込まれていった。