第9章:「だから私が……今度は奏歌さんを……守る番です……」
夜明け前の街を、二つの光が駆け抜けていく。
白と青の翼が、朝もやの中で輝きを放っている。
「月詠、大丈夫?」
奏歌の声に、月詠は小さく頷く。
「うん。もう、迷わない」
由紀の真実を知り、月詠の中で何かが変わっていた。長年背負ってきた罪の重さは消えないが、それは違う形の強さへと変わりつつあった。
「施設では……どんな生活……だったんですか……?」
飛びながら、月詠は奏歌に問いかける。
「……孤独だったわ」
奏歌の声が、少し震える。
「私たち特務員は、感情を持つことを禁じられていた。誰かを想う気持ちは、力の制御を乱すって」
風に乗って、銀色の髪が月詠の頬を撫でる。
「でも、月詠と出会って分かったの。誰かを想う気持ちこそが、この翼の本当の力なんだって」
その言葉に、月詠の胸が熱くなる。
「私も……奏歌さんに出会えて……初めて分かった……」
青い翼が、より強く輝きを増す。
「この力は……ただ破壊するだけのものじゃない……って」
空が徐々に白み始める。遠くに、研究施設の建物が見えてきた。
「着いたわ」
二人は、建物の裏手に降り立つ。
「ここから先は、奏歌さんの記憶を頼りに……」
言葉が途切れる。月詠は奏歌の表情の変化に気づいた。
「どうしたの?」
「ごめんなさい。ここに来ると、いろんな記憶が……」
震える声。月詠は思わず奏歌の手を握る。
「一人じゃないよ」
その言葉に、奏歌の目に涙が光る。
「うん……ありがとう」
奏歌は月詠の手をぎゅっと握り返す。その仕草に、どこか幼い子供のような愛らしさがあって、月詠は思わず微笑んでしまう。
「あのね、実は……」
奏歌が、少し俯いて続ける。
「私、この施設で生まれたらしいわ」
その告白に、月詠は息を飲む。
「だから物心ついた時から、ここで実験台として……」
月詠は奏歌の手をより強く握る。
「でも今は、こうして月詠の手を握ってる。それだけで、凄く幸せ」
抑えきれない感情が込み上げてきて, 月詠は奏歌を抱きしめていた。
「え……?」
「もう、一人にしない」
囁くような声。奏歌の体が、その言葉に震える。
「月詠……」
銀色の髪が、月詠の頬を優しく撫でる。二人の間に流れる空気が、ゆっくりと温かくなっていく。
「あの、その……」
月詠が顔を赤らめながら、奏歌から離れる。
「ご、ごめんなさい。急に……」
「ううん……嬉しい……」
奏歌の笑顔が、夜明け前の闇を照らすように輝く。
「さあ、行きましょう」
二人は建物の裏手にある通気口から潜入を始める。奏歌の記憶を頼りに、研究施設の深部へと進んでいく。
「この先に、禍つ影の研究室が……」
奏歌の声が途切れる。廊下の突き当たりに、見覚えのある人影が立っていた。
「まさか、あなたたち本当にここまで来るとは」
術者の少女。以前、奏歌とやりあった相手だ。
そしてその後ろでは茫然と佇む千鶴がいた。
「どうして……私は確かに、見失ったって……」
「千鶴さんには感謝してる。でも、これ以上は見逃せない」
灰色の翼が、少女の背から広がる。しかしその輝きは、以前より純度を増していた。
「妹さんの所に戻ったの?」
奏歌の問いかけに、少女は小さく頷く。
「だから、分かったの。大切な人を守りたいって気持ちが、どれだけ強いかって」
少女の翼から、温かな光が溢れ出す。
「でも、それは施設を止める理由にはならない」
術者の少女が、戦いの構えを取る。
「研究所は、人類の為に……」
「違う!」
月詠の声が、廊下に響き渡る。
「人を傷つけることが、誰の為にもなるはずない」
月詠の言葉が、静かな決意を帯びている。
「由紀は……私の親友は、そのために……命を落とした……」
青い翼が、月詠の背から広がる。その光は、以前のような不安定さはなく、強い意志を持って輝いていた。
「だから私が……今度は奏歌さんを……守る番です……」
その言葉に、奏歌の瞳が潤む。
「月詠……」
術者の少女は、二人を見つめたまま動かない。その表情に、迷いの色が浮かぶ。
「妹と再会して、私も分かったの」
少女の声が、感情を帯びていく。
「この力は、本当は誰かを守るためのもの。なのに施設は……」
灰色の翼が、より純粋な白色へと変化していく。
「行って」
「え?」
予想外の言葉に、月詠と奏歌は目を見開く。
「私は何も見なかったし、聞かなかった。通常の警備任務をこのまま続ける」
少女は踵を返して歩き始めた。
「禍つ影の正体を、この目で確かめてきて」
少女は、静かにこう囁いた。
「この先の研究室。そこに、全ての真実があるわ」
奏歌が一歩前に出る。
「本当に、いいの?」
「ええ。私も……自分の翼で、大切な人を守りたいから」
少女の決意に、二人は静かに頷く。
扉の前まで来て、月詠は一瞬立ち止まる。
「怖い?」
奏歌の問いかけに、月詠は首を振る。
「ううん。奏歌さんと一緒なら……」
差し出された手を、強く握る。
重い扉が開かれ、そこには……。
「これが……禍つ影の正体」
研究室の重い扉が開かれた瞬間、生温かい空気が二人を包み込む。
消毒液の匂いと、何か異様な獣めいた臭気が混ざり合った空間。青白い蛍光灯の光が、巨大な円柱状の培養槽を不気味に照らしていた。
「これが……」
月詠の声が震える。
研究室の中央に整然と並ぶ培養槽。その中で、黒い影がゆらめいている。どろりとした闇の塊が、まるで意思を持つように蠢く様は、見る者の理性を揺さぶるような異様さを放っていた。
「まさか……」
奏歌の声が、悲痛な響きを帯びる。
培養槽に近づくと、強化ガラスの向こうにうっすらと人型が見えた。黒い影に浸食された姿は、もはや人としての形を留めていない。それでも、かろうじて残る輪郭から、それが少女だったことが分かる。
「これは……私たちの、仲間?」
月詠が震える声で問いかける。奏歌は静かに頷く。
「失敗作として処分されたはずの……」
言葉が喉に詰まる。銀色の髪が顔を覆い、奏歌の表情は見えない。でも、その肩が小刻みに震えているのが分かった。
培養液の中で、黒い影がゆっくりと蠢く。まるで今にも這い出してきそうな動きに、月詠は思わず奏歌の手を握る。温かな感触が、わずかな安心を与えてくれる。
「見て……」
奏歌が指さす先に、データタブレットが置かれていた。画面には実験記録が表示されている。
『被験体NO.127 霊翼顕現実験
結果:失敗
症状:精神崩壊、霊翼の暴走
処置:禍つ影への転化、研究材料として保管』
淡々とした記録の文字に、吐き気を覚える。
「これが、施設の本当の姿」
奏歌の声が、怒りに震えている。
培養槽に近づき、月詠はそっとガラスに手を当てる。すると、中の影が反応するように蠢いた。まるで助けを求めるような、それでいて警告するような動き。
「痛いのね……」
月詠の目から、涙が零れる。この少女たちも、かつては自分たちと同じように、夢や希望を持っていたはずだ。
「ここに来る途中で会った術者の子も、このままだと……」
奏歌の言葉に、月詠の胸が締め付けられる。
培養槽の列は、奥へと果てしなく続いているように見える。どれほどの少女たちが、ここで実験台となったのか。
「見て、この日付」
月詠が別のタブレットを手に取る。
『被験体NO.142 実験日:20XX年12月24日』
「クリスマスイブの日に……」
言葉につまる。少女たちの人生を、何もかも奪ってしまった非情さに、言葉を失う。
「もう、誰も実験台になんてさせない」
月詠の声が、強い決意を帯びる。
「ええ」
奏歌も、震える声で応える。
「私たちが、ここで全てを終わらせる」
その時、培養槽の中の影が一斉に動き出した。まるで二人の決意に呼応するように、黒い渦が蠢く。
「月詠、この子たちを……」
「解放してあげましょう」
二人の手が、より強く互いを握り合う。
青と白の光が、研究室内を照らし始める。それは破壊のためではなく、解放のための光。長い苦しみから、この少女たちを解き放つための祈りのような輝き。
培養槽の中で、黒い影がゆっくりと形を変えていく。
それは恐怖ではなく、安らぎの色を帯び始めていた。
「安心して」
月詠が、そっとガラスに額を寄せる。
「もう、誰も傷つかなくていいの」
青い光が、優しく培養槽を包み込んでいく。
それは贖罪であり、救済の光。
長い間閉ざされていた真実が、今、二人の前に明かされた。
そして、それは新たな戦いの始まりを告げていた。
二人の翼が呼応するように輝きを増す。
青と白の光が交わり、新しい夜明けの色になっていく。
それは、誰かの実験材料でもなく、誰かの道具でもない。
ただ、二人の想いが重なり合う、本当の輝き。
「行きましょう、月詠」
「うん。どこまでも、一緒に」
夜明けの光が、研究室の窓から差し込んでくる。
それは、新たな戦いの始まりを告げるように、二人を包み込んでいった。