第8章: 「あなたたちの翼は……あなたたちのものだわ」
廃工場の錆びた鉄扉が、風に軋む音を立てていた。
月詠は古い浄水施設の中で、力尽きたように床に膝をつく。
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣い。背中から漏れ出す青い光が、壁に不気味な影を投げかける。
(もう……限界……かな)
額から流れる汗が、冷たい。視界が揺れ、めまいがする。それでも、月詠の心は穏やかだった。
(これでいい。奏歌さんさえ無事なら……)
目を閉じようとした時、静かな足音が響いてきた。
「やっと、見つけたわ」
聞き覚えのある声に、月詠は顔を上げる。
そこには、一人の女性が立っていた。長い黒髪に優美な立ち姿。由紀によく似た面立ち。
「千鶴……さん……」
由紀の姉。事故の後、月詠を責めることなく、ただ静かに去っていった人。
「随分と、大きくなったわね」
千鶴の声は、優しかった。けれど、その瞳の奥に、月詠は何か別の感情を見た気がした。
「どうして、ここに……」
「施設から、あなたを保護するように依頼されたの」
その言葉に、月詠の背筋が凍る。
「施設……まさか……千鶴さんも……?」
「ええ。でも、私からあなたに伝えておきたいことがあるわ」
千鶴がゆっくりと近づいてくる。その姿が、由紀と重なって見える。
「由紀の事故のこと」
月詠の心臓が、大きく跳ねる。
「あれは……仕組まれた実験だったのよ」
静かな告白が、月詠の世界を一瞬で凍りつかせる。
「え……?」
「施設は知っていたの。あなたの中に眠っていた力を」
千鶴の声が、冷たく響く。
「そして、その力を目覚めさせるために、由紀を利用した」
「嘘……」
月詠の声が、か細く震える。
「由紀は……由紀は私の親友だった! 私が翼の制御を失って……!」
「違うわ」
千鶴の声が、月詠の叫びを遮る。
「あの日、由紀は命令を受けていた。あなたの感情を極限まで高ぶらせるように」
千鶴の瞳が、遠い日の記憶を映し出すように曇る。
「妹は……由紀は、最後まで施設の命令に従えなかった。だからあの事故は……」
言葉が詰まる。月詠は、あの日の光景を鮮明に思い出していた。
下校途中、由紀が急に立ち止まったこと。
振り返った瞳に、涙が光っていたこと。
そして、小さく呟いた言葉。
「ごめんね、月詠ちゃん」
その直後、飛び出してきたトラック。由紀を庇おうとした瞬間、背中から溢れ出した青い光。
「由紀は、最後の最後で命令に背いたのよ」
千鶴の声が、静かに続く。
「あなたへの友情を選んで。それで施設の計画を狂ってしまった……」
月詠の視界が、涙で滲んでいく。
「でも、結果として施設は目的を達成した。あなたの力は覚醒し、」
千鶴の声が、痛みを帯びる。
「そして私の大切な妹は……二度と戻らない」
月詠の膝から力が抜ける。床に崩れ落ちそうになる体を、千鶴が優しく支える。
「由紀は、最期までずっと……月詠ちゃんのことを想ってたのよ」
支えられた腕の中で、月詠は震えていた。長年背負ってきた罪の重さが、一気に形を変える。
「施設は……由紀ちゃんの命を奪ってまで……私を……」
怒りか、悲しみか、それとも絶望か。
様々な感情が渦を巻き、月詠の背中の光が不安定に明滅する。
「ごめんなさい。今まで黙っていて……」
千鶴の腕が、月詠をより強く抱きしめる。
「由紀は、あなたのことを本当の友達だと、親友だと思っていた。それだけは、絶対に本当のこと」
その言葉が、月詠の心を更に深く抉る。
「私たちは……私たちは、ただの実験台……」
つぶやく声が、虚ろだった。
その時、施設の壁が大きな音を立てて崩れ落ちる。
埃が舞う中、一筋の白い光が差し込んでくる。
「違うわ!」
月詠の心に、懐かしい声が響く。
「私たちは誰かの実験台じゃない。私たちの翼は、私たちのものよ!」
埃が晴れた先に、純白の翼を広げた奏歌の姿があった。
長い銀髪が風に揺れ、その瞳には強い意志が宿っている。
月詠は、目を見開いた。
「奏歌……さん」
月詠の声が、小さく震える。思わず手を伸ばしかけて、でもすぐに引っ込める。その仕草が、奏歌の胸を締め付けた。
「見つけたわ、やっと」
奏歌は月詠に近づこうとする。しかし千鶴が、その前に立ちはだかった。
「天音奏歌。あなたも私たちを裏切ったのね」
「ええ。でも、本当の意味では裏切ってないわ」
奏歌の声に、迷いはなかった。
「私の心が選んだ道だもの。だからこれが本当の私」
純白の翼が、より強く輝きを放つ。その光に、月詠は目を奪われる。
(綺麗……)
「天音奏歌。あなたはもう施設には戻れないわ」
千鶴の声が、冷たく響く。
「知ってるわ。でも、それでいい」
奏歌が一歩前に出る。
「私ね、施設にいた時、ずっと心を殺してた。誰かを想う気持ちなんて、邪魔だって」
その言葉に、月詠の胸が痛む。
「でも月詠は違った。自分が傷付いても、誰かを想い続けることを、諦めなかった」
奏歌の声が、感情を帯びていく。
「そんな月詠を見て、私も……本当の自分を取り戻せた」
一筋の涙が、奏歌の頬を伝う。
「だから……もう逃げないで」
差し出された手に、月詠は戸惑いを見せる。
「でも、私の力は……暴走を」
「大丈夫。二人なら、きっと」
その時、千鶴が静かに口を開いた。
「由紀もきっと、そう願っているわ」
月詠と奏歌は、驚いて千鶴を見る。
「妹は最後の最後で、本当の選択をした。あなたへの友情を選んで」
千鶴の瞳が、柔らかな色を帯びる。
「だから私も……本当の選択をする時が来たのかもしれない」
千鶴はゆっくりと後ろに下がり、二人の前から身を退いた。
「施設には、あなたたちを見失ったと報告しておくわ」
その言葉に、月詠の目に涙が溢れる。
「千鶴さん……」
「由紀の分まで、生きてちょうだい」
千鶴の背が、徐々に暗がりに消えていく。
最後に残した言葉が、二人の胸に深く刻まれる。
「あなたたちの翼は……あなたたちのものだわ」
静寂が訪れる。
月詠と奏歌は、ただ見つめ合っていた。
「月詠……一緒に帰ろう」
奏歌が、もう一度手を差し伸べる。今度は迷いなく、月詠はその手を取った。
「うん……帰」
二人の翼が、寄り添うように光を放つ。
青と白の光が混ざり合い、新しい夜明けの色になっていく。
それは、誰のための実験でもない。
ただ、二人の想いが紡ぎ出す、本当の輝き。