第6章: 「うん……私たちの翼は、私たちのもの……」
月光が薄い雲に遮られ、揺らめく影を落としている。月詠は自室のベッドで、膝を抱えたまま窓の外を見つめていた。
「奏歌さん……」
その名を呟くだけで、胸が締め付けられる。昨日までの楽しかった時間が、まるで遠い夢のように感じられた。
机の上には、デートで買った星型のヘアピンが置かれている。手に取ろうとして、月詠は指を止めた。
(触れたら、また……)
思い出が溢れ出してきそうで怖かった。銀色の髪に星を留める奏歌の仕草。くるりと回って「似合う?」と笑顔で尋ねる姿。全てが愛おしく、そして痛々しい。
時計の針が、深夜零時を指す。
「奏歌さん……本当は……私のこと……どう想ってるんだろう……? ただの監視対象……? それとも……」
問いかけに、答えは返ってこない。ただ、背中の痛みだけが増していく。
突然、スマホが震える。画面に表示された名前に、月詠は息を飲んだ。
「奏歌、さん……」
受話器を手に取る指が、震えている。迷った末に、月詠は通話ボタンを押した。
「月詠? 今日はごめんね」
受話器越しの声は、か細く震えていた。いつもの凛とした様子は微塵もない。
「私……今、学校にいるの」
「え?」
「どうしても月詠に会いたくて……屋上で待ってる」
切実な声音に、月詠の心が揺れる。
「でも……」
「お願い。たった一度だけでもいい。ちゃんと月詠の瞳を見て話がしたいの」
言葉の向こうで、風の音が聞こえた。
「あの……屋上……寒くない……ですか……?」
思わずそう尋ねる自分に、月詠は苦笑する。相手を気遣う自分の心が、まだ奏歌に向いていることを感じて。
「ううん、平気。月詠の声が聞けて、少し温かくなったわ」
その言葉に、月詠の頬が熱くなる。
「……行きます……」
答える声は小さかったが、確かな意志が込められていた。
夜の校舎は、不気味なほど静まり返っている。月詠の足音だけが、空っぽの廊下に響く。
屋上のドアを開けると、そこには月明かりに照らされた奏歌の姿があった。制服姿の背中が、何故か寂しげに見えた。
「来てくれたのね」
振り向く奏歌の瞳が、潤んでいる。
「月詠……私……」
一歩近づこうとした瞬間、月詠の背中が激しく疼いた。
「っ!」
よろめく月詠を、奏歌が支えようと駆け寄る。でも月詠は、その手を払いのけた。
「近づいちゃダメ!」
叫び声が、夜空に響く。
「このままだと……私の力が……また、奏歌さんを傷つけてしまう……」
震える声で、月詠は言った。奏歌の瞳が、深い悲しみの色を帯びる。
「月詠……、聞いて」
奏歌が、ゆっくりと話し始めた。
「私が特務員になったのは、自分の意思じゃないの」
月明かりの下、銀色の髪が風に揺れる。
「施設に保護された時から、ずっと……私は誰かを監視する道具だった……」
その告白に、月詠は息を飲む。
「でも、月詠と出会って、初めて……私は私の意思で、誰かを大切に想えた」
奏歌の声が、感情を帯びていく。
「だから……だから私……!」
突然、あたりに禍々しい夜気が漂ってきた。二人の周りの空気が、一瞬で凍り付く。
「また……来たわ」
奏歌の声が、凛として響く。
空が黒く染まっていく。無数の禍つ影が、渦を巻いている。
「これは……もしかして……奏歌さんの、施設の……」
「ええ、私への最後通告よ」
奏歌が、月詠の前に立ちはだかる。
「暴走する月詠を守るなら、裏切り者として処分する……そう言われていたの……」
その瞬間、白い光が奏歌の背から広がった。純白の翼が、月明かりに輝く。
「でも、もういいの」
決意に満ちた声。
「私は月詠を守りたいから。私は、私の翼は、もう二度と誰かの道具になんてならない!」
叫びとともに、奏歌の翼が大きく広がる。その姿は、まるで月光に輝く天使のようだった。
(この人は……本当に……)
月詠の胸の奥で、何かが震える。
黒い影が、奏歌の周りを取り囲んでいく。それは通常の禍つ影とは異なり、より濃密で、意思を持ったような動きを見せていた。
「くっ……。術者の数が、いつもより多いわね」
奏歌が呟く声には、緊張が滲んでいた。
「術者?」
「ええ。施設が送り込んだ特務員たち。私と同じ、道具にされた可哀想な子たち……」
その言葉に、月詠の心が痛む。奏歌は今、かつての仲間たちと戦おうとしているのだ。
「大丈夫。私一人でも、なんとかできるから……!」
奏歌の翼が光を放つ。しかし、黒い影はその光をも飲み込むように、じわじわと近づいてくる。
「奏歌さん!」
月詠が叫んだ瞬間、背中から青い光が漏れ出す。激しい痛みと共に、制御を失いかけた力が溢れ出してくる。
「月詠、無理しないで!」
奏歌の声が届く。でも、もう止められない。
「由紀の時みたいに……また……!」
パニックに陥る月詠。視界が歪み始める。
その時、温かな手が、月詠の頬に触れた。
「大丈夫」
目の前に、奏歌の優しい瞳があった。
「今度は違うって言ったでしょ。だって私が、ここにいるもの」
その言葉が、月詠の心を静かに包み込む。
「私ね、月詠の翼を見た時、とても綺麗だって思ったの」
奏歌の声が、心に染み込んでくる。
「青く輝く翼。まるで、夜明けの空みたい。希望の色」
ゆっくりと、奏歌が月詠を抱きしめる。
「だから……信じて。あなたの力を。あなたの心を」
その瞬間、月詠の背中から溢れ出る光が変化した。狂おしいほどの痛みは消え、代わりに穏やかな温かさが広がっていく。
「これは……」
月詠の背から、青い翼が現れる。それは、静かに、優しく輝いていた。
「綺麗……」
奏歌の目が、感動に潤む。
「月詠の本当の翼」
白と青の光が交差する。二人の翼が呼応するように、輝きを増していく。
「私たち、逃げないわ」
奏歌が月詠の手を取る。
「もう、誰の道具にもならない。誰かを傷つける道具になんて、絶対に」
強く握り返す月詠。
「うん……私たちの翼は、私たちのもの……」
その瞬間、黒い影が一斉に襲いかかってきた。しかし、二人の翼から放たれる光は、その闇をも照らし始める。
月明かりの下、白と青の光が、夜空に新しい夜明けを描き始めていた。
だが、それは始まりに過ぎなかった。二人の前には、まだ長い戦いが待っている。施設との、そして自分たち自身との。
でも、もう迷わない。
この手の温もりと、この翼の輝きが、道標になるから。
「行きましょう、月詠」
「うん……どこまでも、一緒に」
二つの光が、闇を切り裂き始めた。