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第5章: 「嘘……全部、嘘……だったの……?」

 朝もやの立ち込める窓辺で、月詠は何度目かの深い息をつく。


 鏡に映る自分が、どこか他人のように見える。いつもの制服姿ではない。代わりに着ているのは、昨夜何度も悩んで選んだ服装。膝丈の淡いブルーのワンピースに、オフホワイトの薄手のカーディガン。


「これで……いいのかな」


 小さな独り言が、部屋の空気に溶けていく。


 鏡の前で、おずおずと身体を回してみる。ワンピースの裾が、その動きに合わせてふわりと揺れた。見慣れない自分の姿に、頬が熱くなる。


(奏歌さん、何て言うかな……)


 その名前を心の中で呟いただけで、胸が高鳴る。約束の時間まで、まだ一時間以上ある。それなのにもう、心臓が早鐘を打っている。


 化粧台の前に座り、ゆっくりとブラシを持ち上げる。普段はさっと通すだけの髪に、今日は特別な愛情を込めて。一筋一筋、丁寧にブラシを通していく。


「丁寧に……」


 まるで大切な人を撫でるように、優しい手つきで。黒い髪が徐々に艶を増していく。その仕草の一つ一つに、会いたい人への想いが込められていた。


「こんなに時間かけるの、初めてかも」


 鏡に映る自分に、照れたような笑みがこぼれる。


 ブラシを通した後の髪は、いつもより柔らかな光沢を帯びていた。普段は少し硬い印象のある黒髪が、今日は不思議と柔らかく見える。まるで、心の昂ぶりが髪にまで影響しているかのように。


「あとは……」


 化粧ポーチを開く手が、少し震えている。普段はほとんどしない化粧。でも今日は特別な日。奏歌と過ごす、初めてのデート。


「あ……」


 リップを手に取ろうとして、失敗する。震える指先が、ポーチの中身を散らしてしまう。


「落ち着いて……私……」


 深呼吸をして、再び鏡を見つめる。そこには、どこか幼い表情を浮かべた自分がいた。いつもの真面目な優等生の仮面が外れて、ただの恋する少女の顔。


 リップは薄いピンク。自然な血色程度の色味を、慎重に唇に載せていく。唇が艶めく様子に、また頬が熱くなる。


「本当に……こんな私で、いいのかな……」


 鏡の中の自分は、どこか不安げな表情。でも、その目には確かな期待の色が浮かんでいた。


 立ち上がって、最後にもう一度全身を確認する。

 ワンピースのシワを丁寧に伸ばし、

 カーディガンの襟を整え、

 靴下を引き上げ直す。


 一つ一つの動作に、どこか儀式めいた慎重さがある。それは、特別な一日への準備。大切な人と過ごす時間のための、心を込めた支度。


 時計を見る。まだ時間はたっぷりある。

 でも、もう胸の高鳴りは収まりそうにない。


「少し、早めに行こうかな……」


 鞄を手に取り、玄関に向かう。背筋がピンと伸びる。

 その姿勢には、緊張と期待が同居していた。


 最後に、もう一度だけ鏡を覗き込む。

 そこには知らない自分。

 いや、本当の自分が映っていた。


 制服の中に隠していた少女の心が、今日は素直に表に現れている。それは奏歌との出会いが、月詠にもたらした小さな、でも確かな変化の証。


「行ってきます」


 誰もいない部屋に向かって、小さく呟く。

 その声には、これから始まる特別な一日への、

 そっと秘めた期待が込められていた。



(これで……大丈夫かな)


 待ち合わせの時間まで、まだ30分ある。でも、もう心臓のどきどきはピークに達していた。


 駅前に着くと、驚くことに奏歌がすでに待っていた。


 月詠の心臓が、さらに強く高鳴った。


 そこに立っていたのは、いつもとは違う奏歌の姿。淡いブルーのシフォンブラウスは、春の空そのものを纏ったよう。膝下まで優雅に揺れる白のプリーツスカートは、まるで花びらのように風に戯れている。


(綺麗……)


 言葉を失うほどの光景だった。


 普段は三つ編みにしている銀色の髪を、今日は柔らかく流している。春風が吹くたびに、その髪が光を含んで煌めく。まるでオーロラが揺らめくように、七色の輝きを放っている。


「月詠!」


 呼ばれた声に、心臓が跳ねる。

 奏歌が手を振りながら、小走りで近づいてくる。


 その一歩一歩が、まるでバレエのような優美さ。スカートが風に舞い、かすかに見える素足の白さに、月詠は思わず目が釘付けになる。ヒールの低いパンプスが、奏歌の動きをより一層優雅に見せていた。


「おはよ……う……」


 声が震える。近づいてくる奏歌から、ほのかな香水の香りが漂ってきた。甘すぎない上品な香り。桜の香りにも似た、清楚で儚い芳香。


「待ってたわ!」


 至近距離で見上げる奏歌の瞳に、月詠はどきりとする。薄く化粧を施した顔。特に唇の艶やかさに、視線が釘付けになる。


「うん、あの……遅れて……ないけど、ごめんな……さい……」


 言葉が詰まる。今日の奏歌は、あまりにも眩しすぎた。


 風が二人の間を通り抜ける。

 銀色の髪が、月詠の頬を優しく撫でる。

 その感触に、息を呑む。


「月詠? どうかした?」


 首を傾げる仕草が、恐ろしいほど愛らしい。耳に掛けた銀の髪が、その動きに合わせてゆらめく。首筋の白さが、一瞬だけ覗く。


「あ、えと……」


「もしかして」


 奏歌が意地悪そうに微笑む。


「私の服、なんか変?」


「ち、違う……!」


 慌てて否定する声が、予想以上に大きくなってしまう。頬が熱い。


「だって、その……思ったより……すごく、綺麗で」


 囁くような声で、心からの言葉を絞り出す。


「見とれちゃって……」


 告白のような言葉に、今度は奏歌の頬が桜色に染まる。


「えへへ、そんな事言われちゃうと照れちゃうな」


 はにかむ表情が、いつもの凛とした奏歌からは想像もつかないほど可愛らしい。下まつ毛の影が頬に落ちる様子も、儚げで美しい。


 春風が再び二人の間を通り過ぎる。

奏歌の髪が、まるで光の糸のように舞い上がる。

スカートが、花びらのように揺れる。


 その一瞬の光景に、月詠は完全に魅せられてしまう。まるで、この世のものとは思えないほどの美しさ。本当に妖精が目の前に現れたのではないかと、錯覚してしまうほど。


「あの、月詠?」


「は、はい!」


 我に返る声が、また少し大きくなってしまう。


「ずっと見つめられてると、さすがに恥ずかしいんだけど?」


 奏歌の声には、からかいと嬉しさが混ざっていた。


「ご、ごめんなさい……」


「でも、嬉しい」


 奏歌が月詠の腕に、自然と手を絡める。

 近すぎる距離に、心臓が早鐘を打つ。


「月詠にそう言ってもらえるなら、準備に時間かけた甲斐があるってもんだわ」


 その言葉に、月詠の胸が熱くなる。

 奏歌も自分と同じように、この日のために特別な準備をしてくれたのだ。


 桜並木の下で、銀色の髪が春の光を受けて輝いている。

 その横顔は、まるで絵画のように美しく。


 月詠は密かに誓う。

 この景色を、この瞬間を、永遠に心に刻むことを。


 春風に舞う妖精のような少女と過ごす、

 特別な一日が、今始まろうとしていた。


「さ、行きましょ? 今日は楽しみにしてたの」


 奏歌が自然と月詠の腕に手を回す。その仕草に、月詠の心臓が少し早く動き始める。距離が近すぎて、奏歌の柔らかな髪が頬をくすぐる。


 都心の商業施設は、休日の朝から賑わっていた。奏歌は嬉しそうに月詠の手を引いて店内を巡り始める。


「あ、月詠! これ見て!」


 アクセサリーショップで、奏歌が手に取ったのは、小さな星型のヘアピン。二つで一組になっている。


「お揃いにしない?」


 その言葉に、月詠の胸が温かくなる。学生時代、由紀とお揃いのものを身につけることは、決して許されなかった思い出が蘇る。でも今は……。


「うん……嬉しい」


 素直な返事に、奏歌の瞳が輝く。レジで支払いを済ませると、その場で奏歌は月詠の髪に星型のピンを留めてくれた。


「似合うわ! 月詠の黒髪に、星が輝いているみたい」


 奏歌の指先が、そっと月詠の髪に触れる。その仕草が優しすぎて、月詠は思わず目を伏せてしまう。


「私も付けて……どう?」


 銀色の髪に星型のピンを留めた奏歌が、くるりと回る。朝の光を受けて、まるで妖精のように見えた。


「とても……綺麗」


 心からの言葉に、奏歌が嬉しそうに頬を染める。


「お腹すいたわね。あ、あそこにフードコートがある!」


 二人はフードコートでパフェを注文した。イチゴとチョコレートのパフェを前に、奏歌が悪戯っぽく微笑む。


「ねぇ、交換しながら食べない?」


 月詠は初め、その意味が分からなかった。でも、奏歌がスプーンでイチゴを掬い、自分の口元に差し出してきた時、頬が熱くなるのを感じた。


「あ、あの……」


「はい、あーん♪」


 周りの視線が気になって躊躇う月詠に、奏歌は構わず優しく促す。意を決して口を開くと、甘酸っぱいイチゴの味と共に、奏歌のスプーンが触れた場所が妙に気になって、心臓が早鐘を打つ。


「次は月詠の番!」


 言われるがまま、月詠も自分のチョコレートパフェを奏歌に差し出す。奏歌が嬉しそうに口を開ける姿に、どきりとする。


「美味しい! 月詠のも食べさせて?」


 照れながらもスプーンを差し出す月詠。その手が少し震えているのに気づいた奏歌は、そっと月詠の手を支えるように添える。


「あ、月詠の頬に生クリームが……」


 奏歌が自然な仕草で、親指で月詠の頬を拭う。


「え、あ、ありがと……う……ございます……」


 突然の接触に、言葉が詰まる。奏歌の指先が離れた後も、その温もりが頬に残っているような気がした。温かい感触と共に、なぜか切なさも込み上げてくる。


 午後、二人は噴水のある広場のベンチで休んでいた。春の陽気に、噴水の水しぶきが虹を描いている。


「楽しい?」


「はい……とても……」


 素直な返事に、奏歌が嬉しそうに微笑む。風に吹かれて、奏歌の銀色の髪が月詠の頬をくすぐる。その香りに、月詠は少しめまいを感じた。


「こんな風に、誰かと過ごせるなんて……」


 呟くように言葉を零す月詠の横顔を、奏歌がじっと見つめていた。


「月詠って、本当は寂しかったのね」


 その言葉に、月詠は小さく息を飲む。寂しさを感じる余裕すら、自分に許してこなかった。罰を受けるように、一人でいることが当然だと思っていた。


「私……だって、由紀を……」


「ねぇ、アイスを買ってくるわ。ちょっと待っていて?」


 奏歌は月詠の囁くような言葉を遮るように立ち上がる。その背中に、月詠は一瞬、悲しみの色が浮かんだように感じた。


 噴水の水音を聞きながら、月詠は星型のヘアピンに触れる。お揃いの品を持つことの幸せと、それを持つ資格があるのかという不安が、胸の中で交錯していた。


 突然、背中に鋭い痛みが走る。


「っ……!」


 息が詰まるような痛みに、月詠は体を丸める。視界が歪み始め、噴水の水音が遠ざかっていく。


「月詠!」


 駆けよってくる奏歌の声が聞こえる。落としたアイスが地面に広がっていく。


「大丈夫? 顔色が悪いわ」


 奏歌の表情には、心配そうな色と共に、何か別の感情が混じっているように見えた。まるで、これが起こることを知っていたかのような……。


 また背中が疼く。今度は、さっきよりも、強く。


「月詠……?」


「大丈夫、です……」


 笑顔を作ろうとするが、視界が揺れる。


「もう、無理しないで」


 奏歌が月詠の手を取り、近くのカフェへと連れていく。


 ガラス窓から差し込む午後の陽射しが、テーブルの上のティーカップを淡く照らしている。


 月詠は、目の前の奏歌の様子がいつもと違うことに気づいていた。

 銀色の髪を指先で無意識に弄り、時折窓の外を見つめては深いため息をつく。普段の凛とした佇まいは影を潜め、どこか落ち着かない雰囲気を纏っていた。


(私、何か悪いことした……?)


 不安が胸の奥で渦を巻く。今日はずっと楽しかったはずなのに、カフェに入ってからの奏歌は、明らかにいつもと違う。


「あの……」


 おずおずと声をかけると、奏歌は小さく肩を震わせた。


「月詠、体、大丈夫?」


 微笑もうとする表情が、どこかぎこちない。

 その仕草に、月詠の不安は更に大きくなる。


「私、何か……」


「え?」


「嫌われるようなこと……した……?」


 震える声で問いかける。奏歌の瞳が大きく揺れる。


「ち、違うわ! そんなこと……」


 言葉を詰まらせる奏歌。その様子が、逆に月詠の不安を深めてしまう。


 紅茶が入ったカップから、かすかな湯気が立ち昇る。二人の間に広がる沈黙を、ただ時計の針の音だけが刻んでいく。


「月詠は、私のこと……どう思ってるの?」


 突然の問いかけに、月詠は戸惑う。


「え……その……大切な人……です…点」


 素直な気持ちを伝えると、奏歌の表情が苦しそうに歪んだ。


「そう……、私……」


 また言葉が途切れる。

 奏歌の指先が、テーブルクロスを強く掴む。


「でも月詠には私なんかより、もっと相応しい人が……」


「いないです!」


 思わず声が大きくなる。カフェの他の客が振り返るのも気にせず、月詠は続ける。


「奏歌さんは……私にとって……」


 特別な存在。たった一人の理解者。でも、その言葉を口にする前に、奏歌が首を振る。


「月詠、私にあなたに言わなければならないことがあるの……」


 その時、背中に鈍い痛みが走る。

 月詠は思わず体を丸める。


「月詠!?」


 奏歌が慌てて立ち上がり、月詠の隣に駆け寄る。その仕草は、これまで通りの優しさに満ちていた。でも、その瞳の奥には、深い苦悩の色が浮かんでいる。


「大丈夫……です……」


「嘘よ。まだ顔色が悪いわ」


 差し出された手が、月詠の頬に触れる。温かい。でも、その指先が微かに震えているのが分かる。


(奏歌さんは……何かに苦しんでる……)


 その確信が、月詠の胸を締め付ける。


「ごめんなさい、今日は帰りましょう」


「でも……」


「月詠にこれ以上無理させられいわ」


 優しい言葉。でも、その声には言い知れない重みが感じられた。


 立ち上がる時、月詠はまたふらつく。

 すかさず奏歌が支えてくれる。


「送るわ」


 その腕の中で、月詠は切なさを覚える。

 これほど近い距離なのに、どこか遠く感じる。


 外に出ると、空が少し曇っていた。

 二人で歩き始める。

 いつもなら自然に絡んでくる奏歌の手が、今日は躊躇いがちだ。


(このまま、離れていっちゃうの?)


 不安な想いが募る。でも、それを口にする勇気が出ない。


 奏歌の中で、何かが大きく揺れ動いているのは分かる。

 それが月詠に関係することも、うっすらと感じ取れる。


 けれど今は、この沈黙を破る言葉が見つからない。

 ただ、春の風が二人の間を通り過ぎていく。


 銀色の髪が風に揺れる様子を、月詠はそっと見つめる。

 この景色が、いつまで見られるのだろう。

 その不安が、心を重くしていた。


「月詠」


 奏歌の声が、急に真剣な響きを帯びる。


「ごめんなさい。本当は、分かってたの」


「え?」


「あなたの翼が、暴走しかけてることを」


 その言葉に、月詠の体が凍る。


「どうして……」


 奏歌は一瞬躊躇うような表情を見せたが、やがて意を決して言葉を継ぐ。


「私ね、霊翼管理特務機関から来たの」


 奏歌の声が震える。


「最初から、あなたを監視する任務があった」


 突然の告白に、月詠の頭の中が、真っ白になる。


「でも、私の月詠への想いは偽りじゃない。だから本当のことを言おうって決めたの。だから……」


 奏歌の目に、涙が光る。


 その瞬間、月詠の背中から激痛が走る。


「っ!」


 思わず立ち上がり、よろめく。


「月詠!」


 奏歌が抱きとめようとする腕を、月詠は激しく振り払った。


「嘘……全部、嘘……だったの……?」


 涙で滲む視界の中、月詠は走り出していた。


「月詠、待って!」


 後ろから追いかける声。でも、もう聞こえない。


 ただ、ひたすらに走る。


 心の中で、青い翼が悲鳴を上げていた。


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