第4章: 「私が選んだのよ。月詠と一緒にいることを」
早朝の駅前。まだ肌寒い空気の中、月詠は待ち合わせ場所で落ち着かない様子で立っていた。
(少し、早く来すぎたかな……)
約束の時間まで、まだ15分ある。でも、遅刻するのが怖くて。初めての登校待ち合わせに、心臓が早鐘を打っていた。
「月詠!」
振り返ると、小走りでやってくる奏歌の姿があった。銀色の髪が朝日に輝き、制服のスカートが風になびいている。その姿に、月詠は思わずどきりとする。
「おはよう。待った?」
「ううん、私も今来たところ」
小さな嘘をつく。でも、奏歌の嬉しそうな表情を見ていると、胸が温かくなった。
「じゃあ、行きましょう?」
自然と、二人の足取りが揃う。
桜並木の下を歩きながら、月詠は時折、横目で奏歌の様子を窺っていた。すらりとした背筋。長い髪が風に揺れる様子。時折こぼれる柔らかな微笑み。全てが絵になっている。
「どうかした?」
不意に視線に気づかれ、月詠は慌てて前を向く。
「な、なんでもない……」
「ふふ、月詠って、可愛いわ」
突然の言葉に、月詠の頬が熱くなる。
「今のリアクションとか、特に」
からかうような奏歌の声に、月詠は更に赤面する。
「奏歌さんこそ……その……綺麗……」
小さな声で絞り出すように言うと、今度は奏歌が驚いたような表情を見せた。
「あら……そう?」
珍しく言葉を詰まらせる奏歌。その仕草が愛らしくて、月詠は思わず微笑んでしまう。
「えへへ、照れちゃうな」
奏歌が月詠の腕に自然と腕を絡める。突然の接触に、月詠は驚きながらも、その温もりを心地よく感じていた。
教室に着くと、二人の姿に周囲の視線が集まる。昨日までとは違う、優しい視線。きっと、奏歌の存在が、月詠への見方を変えているのだろう。
放課後、二人は図書館に向かった。禍つ影との戦いについて、調べものをするためだ。
「私たちの力について、何か手がかりがあるかもしれないわ」
奏歌が古い文献を開きながら言う。机に並んで座る二人の肩が、時折触れ合う。
「あ、これ……」
月詠が見つけた一冊の本。そこには、「霊翼」について書かれていた。
『霊翼は魂の具現化である。持ち主の心の状態によって、その性質は変化する』
「だから、私の翼は……」
月詠の声が震える。由紀との事故の時、自分の心の闇が翼を狂わせたのかもしれない。
そっと、手が重ねられる。
「大丈夫よ」
奏歌の声が、優しく響く。
「今の月詠の翼は、とても綺麗だった。私が証人」
その言葉に、月詠は小さく頷く。
◆
夕暮れ時、二人で下校する道すがら、空が急に暗くなった。
「この気配……」
二人は顔を見合わせる。しかし、今回は様子が違った。
「複数いるわね」
奏歌の声が、緊張を帯びる。
黒い影が、三つ、四つ……次々と現れる禍つ影。
「月詠、私たちの力……合わせましょう?」
差し出された手を、今度は迷わず掴む。
白と青の翼が、夕暮れの空に広がった。
戦いの中で、月詠は不思議な感覚に包まれていた。
禍つ影との戦闘は続いているはずなのに、恐怖は薄れている。代わりに全身を包む温かさと、心地よい高揚感。それは、隣で舞う奏歌の存在が紡ぎ出す感覚だった。
「月詠、右よ!」
奏歌の声が届く前に、月詠の体は既に動いていた。白い翼が作り出す風を感じて、自然と体が反応する。まるで、奏歌の動きが自分の体の一部であるかのように。
銀色の髪が月詠の頬を撫でる。すれ違う瞬間の体温。それは偶然のように見えて、どこか必然めいていた。戦いの中の、小さな愛おしい接触。
「奏歌さん……」
名前を呼ぶ声に、奏歌が微笑む。その笑顔が、月詠の心を揺らす。
二人は背中合わせになる。肩甲骨が触れ合う場所から互いの翼を通して、暖かな共鳴が広がっていく。奏歌の呼吸が、自分の呼吸と重なっていく。吐く息、吸う息が、完全に同調していく。
「感じる?」
奏歌の囁きに、月詠は頷く。言葉は必要なかった。
純白の翼と青い翼が、まるでダンスをするように交差する。光の軌跡が、夜空に美しい模様を描いていく。
戦いの合間に、奏歌の手が月詠の腰に回る。それは戦術的な動きのはずなのに、どこか愛撫めいた優しさがあった。月詠は思わず頬が熱くなるのを感じる。
「ふふ、顔が赤いわよ」
奏歌の声が耳元で囁く。吐息が首筋をくすぐり、月詠の心臓が跳ねる。
「や、やめてください……奏歌さん……!」
照れ隠しの言葉とは裏腹に、月詠の体は奏歌の腕の中でより深くもたれかかっていた。
回避行動の中で、指先が絡み合う。本来なら一瞬の接触で離れるはずが、その手は自然と握り合ったまま。
「私たち、シンクロしてるわね」
奏歌の言葉に、月詠は微笑む。確かに、二人の動きは完全に一体化していた。
禍つ影を避けるため、奏歌が不意に月詠を抱き寄せる。そのまま回転する体勢で、月詠は奏歌の胸に顔を埋めることになった。香水の甘い香りと、奏歌特有の清潔な香りが混ざり合う。
「ごめんね、急で」
謝る奏歌の声は、しかしどこか甘く、悪戯めいていた。
「い、いえ……」
動悸が激しくなる。それは戦いの高揚感だけではない、もっと甘美な感情。
白と青の光が交差する度、二人の体が寄り添う。それはもう必要以上の近さだった。けれど、誰もそれを指摘しない。それが自然なことのように思えた。
「月詠の心臓、まるで早鐘みたいね」
奏歌の声が、また耳元で囁く。今度は意図的な、からかうような響き。
「奏歌さんだって……」
抱き合った体越しに、確かに奏歌の高鳴る鼓動を感じる。
戦いの中で、二人の距離は限りなく近づいていく。それは物理的な距離だけでなく、心の距離。呼吸も、体温も、思考さえも、少しずつ溶け合っていくような感覚。
「このまま、ずっと……」
月詠の小さな呟きに、奏歌は静かに頷く。銀色の髪が月詠の顔を優しく包み込む。
「ええ、ずっと一緒に」
戦いは続いているはずなのに、二人の間には不思議な静寂が広がっていた。それは戦場の中の、二人だけの聖域。
白と青の光が織りなすオーロラの中で、月詠と奏歌の心は、より深く、より確かに、重なり合っていく。それは戦いの中で育まれた、儚くも強い絆の証だった。知らぬ間に『禍つ影』はすべて消滅していた。
戦いの後、疲れた体を寄せ合いながら帰路につく。
「ね、月詠」
奏歌が突然立ち止まる。
「日曜日、一緒に出掛けない?」
「え?」
「買い物に行きたい場所があるの。それに……」
奏歌が少し言葉を濁す。
「ずっと、月詠とゆっくり話してみたかった」
その言葉に、月詠の心臓が跳ねる。
「私なんかと……いいの……?」
「また、そんな言い方」
奏歌が月詠の両手を取る。
「私が選んだのよ。月詠と一緒にいることを」
真摯な眼差しに、月詠は言葉を失う。
「それとも……私と一緒は、嫌?」
「ち、違う!」
不安そうな表情を浮かべる奏歌に、月詠は慌てて首を振る。
「私も……嬉しい……」
素直な気持ちを伝えると、奏歌の顔が輝くように明るくなった。
「よかった! じゃあ、日曜日の朝10時、駅前でね」
帰り道、月詠は胸の高鳴りを感じていた。
これは、デートと呼べるのだろうか。
そう考えただけで、頬が熱くなる。
家に着いて、制服を脱ごうとした時。
背中に、小さな痛みを感じた。
翼の付け根あたりが、かすかに熱を帯びている。
(これは……)
不安な予感が、心をよぎった。
でも今は、それすら些細なことのように思えた。
日曜日の約束を思い出し、月詠は小さく微笑む。
明日も、その次も。
奏歌と一緒なら、きっと大丈夫。
そう信じられる自分が、少し不思議だった。