第3章: 「今度は違う。私が、ここにいるから」
風を切る音が響く。
奏歌の純白の翼が、春の空に美しい軌跡を描く。その姿は、まるで一羽の白鳥のようだった。輝く翼は確かに奏歌の背中から生えていたが、不思議なことに制服を透過している。
「月詠、あなたも、力を解放して」
風に乗って届く声に、月詠は首を横に振る。
春風が吹き抜ける屋上で、月詠は自分の背中に手を当てる。そこには今も、あの日の痛みが残っているような錯覚がある。
「私には……できない……」
声が震える。喉が締め付けられるような感覚。記憶が押し寄せてくる。
(由紀ちゃん──)
閉じた瞼の裏に、あの日の光景が鮮明に浮かび上がる。
純白の制服が真紅に染まっていく様子。
雪の上に散った青い羽根の欠片。
制御を失った光が由紀を貫く瞬間。
そして、最後まで月詠を見つめていた、由紀の優しい瞳。
「っ……!」
記憶があまりにも生々しく、月詠は思わず体を丸める。背中が痛むような、焼けつくような感覚。まるで翼が今にも暴走しそうな予感が、全身を震わせる。
耳元で風が鳴る。
純白の光が月詠の前に降り立つ。
「怖いの?」
奏歌の声は、不思議なほど優しい。その姿は逆光に照らされ、まるで天使のように見える。風に揺れる銀色の髪が、月詠の頬を優しく撫でる。
月詠は顔を上げる。そこには、奏歌の深い紫色の瞳があった。その瞳には、非難でも同情でもない、深い理解の色が宿っている。まるで月詠の心の奥底まで見透かすような、そして全てを受け入れようとするような眼差し。
「私の翼は……人を傷つける……」
震える声で、月詠は言った。その言葉には、長年封印してきた恐怖と痛みが込められていた。両手が小刻みに震え、爪が掌に食い込むほど強く握り締めている。
奏歌は静かに月詠の前にかがみ込む。その動作には、不思議な優雅さがあった。まるで、おびえた小動物を安心させるかのように、ゆっくりと、そっと。
「月詠の手、冷たいわ」
奏 歌は月詠の震える手を、そっと両手で包む。その温もりが、凍りついた月詠の心に、少しずつ暖かさを伝えていく。
「でも、この手は本当は──」
銀色の髪が春風に揺れ、その一筋が月詠の涙を優しく拭う。
「守るための手のはず」
その言葉に、月詠の瞳が揺れる。守るため──。あの日、由紀を守ろうとした想いが、なぜ破壊の力へと変わってしまったのか。
「私にはわかるの」
奏歌の声が、風のように月詠の心に染み込んでいく。
「月詠の翼が、どれほど優しい光を持っているか」
その言葉には、どこか懐かしさを感じさせる響きがあった。まるで、ずっと前から月詠のことを知っていたかのように。
春の陽射しが二人を包み、奏歌の純白の翼が、月詠の影を優しく覆っていた。その瞬間、月詠は気づく。奏歌の手の中で、自分の震えが少しずつ、確かに和らいでいることに。
「でも……私は……また誰かを……」
「大丈夫」
奏歌の返答はすぐだった。
迷いのない、強い意志に満ちた声。
「今度は違う。私が、ここにいるから」
その言葉に、月詠の目から涙が零れ落ちる。それは恐怖の涙ではなく、どこか安堵の色を帯びていた。
春風が二人の間を通り抜け、奏歌の純白の羽が、月詠の頬の涙を優しく拭っていく。その温もりは、凍えた記憶の中に、かすかな希望の光を灯すようだった。
刹那、黒い影が二人の間を通り抜けた。禍つ影が、無数の触手を伸ばしながら襲いかかる。
「危ない!」
奏歌が月詠を抱きしめ、くるりと回転する。白い翼が二人を包み込み、衝撃から守る。
近すぎる距離に、月詠の心臓が激しく鼓動を打つ。奏歌の体温が、香りが、全身を包み込む。
「大丈夫よ」
耳元で囁かれる声が、不思議なほど心を落ち着かせる。
「私が守ってあげる」
奏歌の翼が広がり、禍つ影を弾き飛ばす。しかし次々と現れる黒い触手に、次第に追い詰められていく。
「このままじゃ……」
額に汗を浮かべながら、奏歌が呟く。その背中から、赤い染みが広がっていた。
(また……誰かが、私のせいで……)
目の前で、大切な人が傷つこうとしている。
記憶が、現実が、重なり合う。
(もう、誰も……)
「守りたい……」
小さな願いが、心の奥底で大きく共鳴する。
夜の空気が震える。
月詠の背中から、最初はかすかな青い輝きが漏れ始めた。それは遠い星の瞬きのように、小さく、儚い光だった。
(この感覚……)
以前なら、この瞬間に恐怖が全身を支配していただろう。
暴走する力への恐れ。
制御を失う瞬間の絶望。
由紀との記憶が呼び起こす痛み。
しかし、今は違った。
光は徐々に強さを増していく。けれど、その輝きには以前のような荒々しさがない。まるで月明かりのように、優しく空間を照らしていく。
「これって……」
月詠は自分の体の変化に戸惑いを覚える。背中から広がる光は、かつての鋭利な刃のような冷たさではなく、温かな春の陽だまりのような柔らかさを持っていた。
青い光が、ゆっくりと形を成していく。
それは翼の形。
しかし、以前の切り裂くような鋭い羽先ではない。
まるで朝露に濡れた羽のように、光が滴るような翼。
夜明けの空を思わせる、澄んだ青色の輝き。
その光は、月詠の心そのものを映し出しているかのようだった。
「この光は……温かい……」
思わず呟いた声には、驚きと共に、小さな喜びが混じっていた。
背中から広がる翼は、もはや破壊の象徴ではない。その光は、守りたいものを本当に守れる力へと変容していた。雨上がりの空のような、清らかな青色が、穏やかに周囲を包み込んでいく。
(由紀ちゃん……見てて……)
心の中で、親友への想いが広がる。今なら分かる。あの日、由紀が最期まで見せてくれた笑顔の意味を。
光は月詠の感情に呼応するように、より深い輝きを放つ。それは悲しみや後悔を否定するものではなく、全てを受け入れた上で生まれた新しい力。
風が吹き抜ける度に、青い光が波打つように揺らめく。その様子は、まるで生きているかのよう。月詠の呼吸に合わせて、光が柔らかく脈打っている。
「これが、私の本当の力……」
その言葉には、もう迷いがなかった。
光の中に、かつての暴走の痕跡はない。代わりにそこにあるのは、誰かを守りたいという純粋な想いから生まれた輝き。青い翼は、月詠の心の変容を映し出す鏡となっていた。
羽先から漂う光の粒子は、まるで蛍のように夜空に舞い上がる。その一つ一つが、小さな命の輝きのよう。破壊ではなく、生命を育む光。
「不思議……」
月詠は自分の手のひらに降り注ぐ光を見つめる。
「怖くない。むしろ……懐かしい……」
それは、本来あるべき姿を取り戻した力。月詠の本質である「守護」の意志が形となって現れた姿だった。
青い光は、月詠の周りに優しい光の膜を作り出す。それは守りの盾であると同時に、彼女の心の温もりそのものの具現化。
もはやそこには、自分の力を恐れる少女の姿はない。
代わりにそこにいたのは、自分の意志で誰かを守ることを選んだ、強さを取り戻した月詠の姿。
青い翼が、夜空に向かってゆっくりと広がる。
その光は、新しい夜明けを予感させるように、
静かに、しかし確かな輝きを放っていた。
「月詠……」
奏歌の目が、驚きに見開かれる。
月詠の背から広がった翼は、淡い青色に輝いていた。まるで夜明けの空のような、希望に満ちた色。
「奏歌さん、今度は私が……」
月詠は奏歌の手を取る。その瞬間、二人の翼が呼応するように輝きを増した。
「ええ、一緒に」
微笑み合う二人の間で、不思議な共鳴が起こる。
白と青の光が交じり合い、虹色の輝きとなって広がっていく。その光は禍つ影を包み込み、優しく、しかし確実に消し去っていった。
光が消えると同時に、月詠の力が急速に衰えていく。膝から力が抜け、倒れかけた体を、奏歌がそっと受け止める。
「大丈夫?」
心配そうに覗き込む顔が、とても近い。
「はい……ちょっと、疲れただけ……です……」
月詠は小さく頷く。奏歌の腕の中で、不思議なほど安心感を覚えていた。
「よかった……」
奏歌が月詠の髪を優しく撫でる。その仕草に、月詠は思わず目を閉じた。
「月詠の翼、とても綺麗だったわ」
「え?」
「優しい光……まるで、月詠そのものみたい」
奏歌の言葉に、月詠は顔を赤らめる。
「私の翼は……人を傷つけるだけだと思ってた……」
「違うわ。あなたの翼は、守るための翼」
奏歌の声には、確信が込められていた。
「だって、ほら。ちゃんと私を守ってくれたもの」
その言葉に、月詠の目に涙が滲む。由紀を守れなかった罪悪感が、少しだけ和らいでいくのを感じた。
「でも、どうして禍つ影が……」
「それはまた今度ね」
奏歌は立ち上がると、月詠に手を差し伸べる。
「今は保健室で休みましょう。私が付き添ってあげる」
差し出された手を取る。温かい手のぬくもりが、心地よかった。
二人で階段を降りながら、月詠は密かに考える。
この手のぬくもり、この優しさ。
本当は自分には相応しくないのかもしれない。
でも……。
「ねぇ」
奏歌が突然立ち止まる。
「明日から、一緒に学校行かない?」
思いがけない提案に、月詠は驚いて顔を上げた。
「だって、またあんなの出てきたら大変でしょう?」
真剣な表情で言う奏歌だが、その瞳の奥で小さな期待が揺らめいているような気がした。
「私でも……いいの……?」
「ええ、むしろ私の方こそ。お願いできるかしら?」
奏歌の屈託のない笑顔に、月詠は思わず頷いていた。
保健室のベッドに横たわりながら、月詠は考える。
今日の出来事が、夢ではないことを。
そして、少しずつだけど、自分の世界が広がっていくことを。
隣で静かに本を読む奏歌の姿に、月詠は深い安心感を覚えていた。