第12章: 「私の方が、月詠に支えられてるの」
春の日差しが教室を柔らかく照らす午後。放課後の補習で、月詠は一人の後輩の数学を教えていた。
「あ、なるほどそうやって解くんですね! わかりました! 月詠先輩、ありがとうございます!」
後輩の嬉しそうな声に、月詠は穏やかな笑みを浮かべる。かつては人との関わりを避けていた自分が、今は誰かの力になれることを喜びに感じていた。
「よかった……。でも、ここの公式は……もう一度確認しておいたほうが……」
その時、教室の外から美しい歌声が聞こえてきた。
「あ、奏歌先輩の歌……!」
後輩の目が輝く。音楽室からは、奏歌の透明な歌声が春風に乗って流れてくる。
「うん。素敵な声でしょう?」
月詠の言葉には、深い愛情が滲んでいた。霊翼の力は失われても、奏歌は自分の声で人々の心を癒すすべを見つけていた。
「先輩、奏歌先輩のこと、本当に大好きなんですね」
後輩の無邪気な言葉に、月詠は頬を染める。
「え? そんな……その……」
慌てて視線を逸らす仕草が、いかにも可愛らしい。実は最近、クラスメイトの間で、二人の関係を「運命の絆で結ばれた」なんて噂されているのを知っていた。
「あら、まだ補習中?」
銀色の髪が風になびく姿が、教室の入り口に現れた。部活を終えた奏歌は、頬を上気させ、髪を軽く結い上げている。その姿があまりにも愛らしくて、月詠は思わずどきりとする。
「奏歌さん……」
奏歌は小走りで月詠の元へ来ると、自然な仕草で肩に手を置いた。その温もりに、月詠の心臓が小さく跳ねる。
「お疲れさま。今日の練習、どうだった?」
「ふふ、聞いてた?」
奏歌が嬉しそうに笑う。その表情が少女らしくて、月詠は思わず見とれてしまう。
「うん。とても、綺麗な声だった」
「えへへ、照れちゃうな」
奏歌が頬を染めながら、月詠にもたれかかってくる。柔らかな銀髪から、練習後の甘い汗の香りがする。
「あ、私そろそろ失礼します! ありがとうございました、月詠先輩!」
空気を読んだ後輩が、クスクスと笑いながら教室を後にする。
「あ、お疲れさま」
月詠が慌てて声をかけるが、後輩は既にスキップしながら廊下を走り去っていった。
「もう、バレバレよね。私たち」
奏歌が月詠の耳元で囁く。その吐息が、月詠の首筋をくすぐる。
「え、その……」
「いいじゃない。隠すつもりなんて、これっぽっちもないもの」
奏歌は月詠の手を取り、机の上に重ねる。細く白い指が、優しく絡み合う。
「ねぇ、明日のこと……」
奏歌の声が、少し真剣な響きを帯びる。
「うん。由紀ちゃんのお墓参り」
月詠も静かに頷く。明日は、約束の日。由紀の月命日だった。
「大丈夫?」
「うん……。奏歌さんが……一緒だから」
月詠の言葉に、奏歌は嬉しそうに微笑んだ。
「私ね、由紀さんにお礼を言いたいの」
「お礼?」
「ええ。こんなに素敵な人を、私に導いてくれたことに」
その言葉に、月詠の目に涙が滲む。奏歌は優しく月詠の頬を拭うと、そのまま額を合わせた。
「泣き虫さん」
「だって……」
「でも、その泣き顔も大好き」
翌日の朝、桜が満開の坂道を、二人は静かに歩いていた。奏歌の手には白い花束。月詠は由紀の好きだった色の白いリボンを持っている。
「ここから見える桜、由紀ちゃん好きだったんだ」
月詠の声には、もう苦しみだけではない、懐かしさと温かみが混ざっていた。
「そう。由紀さんの想い出を、聞かせて」
奏歌の言葉に、月詠は柔らかく微笑む。
「由紀ちゃんって……いつも明るくて……でも、人の気持ちを……すごく考える子で……」
思い出を語る月詠の横顔を、奏歌はじっと見つめていた。以前のような影はもう見えない。代わりに、そこにあるのは優しい光だった。
「あ……」
階段を上がろうとした月詠が、小さくつまずく。
「気をつけて」
奏歌が素早く月詠を支える。その仕草は自然で、まるで長年の習慣のようだった。
「ありがとう……ごめんなさい……いつも……こんなに……」
「ううん、そんなことないわ。むしろ……」
奏歌が月詠の手を取り、胸元に押し当てる。
「私の方が、月詠に支えられてるの」
その仕草があまりに愛おしくて、月詠は思わず奏歌を抱きしめていた。
「え……?」
「ごめんなさい。でも……このまま、少しだけ」
風に舞う桜の花びらの中で、二人はしばらくそのままでいた。
「月詠の、鼓動が聞こえる」
奏歌の囁きに、月詠の心臓がより強く高鳴る。
「私ね、この音が大好き」
風が二人の髪を優しく撫でていく。黒と銀の髪が、桜色の空の下で交じり合う。
「さ、行きましょう? 由紀さんが待ってる」
奏歌が優しく手を引く。月詠は頷いて、その手をしっかりと握り返した。
由紀の眠る丘に着くと、千鶴が既に来ていた。
「あら、来てくれたの」
千鶴の微笑みに、月詠と奏歌は静かに頭を下げる。墓石の前には、既に新しい花が活けてあった。
「由紀、みんなが来てくれたわよ」
千鶴の声が、春風に乗って広がる。月詠は持ってきた白いリボンを、そっと墓石の前に置いた。
「由紀ちゃん、来たよ」
月詠の声は、もう震えていなかった。
「今日はね、奏歌さんも一緒」
奏歌は白い花束を供えながら、静かに語りかける。
「由紀さん、初めまして。私、天音奏歌です」
風が桜の花びらを舞い上げる。まるで由紀が応えているかのように。
「月詠から貴女のこと、たくさん教えてもらいました。どんなに優しい人か、どんなに強い人か」
奏歌の言葉に、月詠は目を潤ませる。
「だから……ありがとう。こんなに素敵な人を、私の許に送ってくれて」
奏歌は月詠の手を取る。その仕草に、千鶴は穏やかな笑みを浮かべた。
「由紀、安心してね。月詠ちゃんには、こんなに素敵な人がいるのよ」
千鶴の言葉に、二人は頬を染める。
「私たちの物語は、ここからまた始まるの」
奏歌が空を見上げながら言う。
「翼はなくても、私たちには新しい力がある」
月詠も空を見上げる。桜の花びらの向こうに広がる春の空は、あの日と同じように深い青だった。でも、今は違う。もう、独りじゃない。
「由紀ちゃん、見ていてね」
月詠の声が、優しく響く。
「私、幸せになるから」
奏歌の手を握る力が、少し強くなる。
「私たち、きっと幸せになるから」
桜の花びらが、三人の周りを優しく舞い、由紀の眠る場所へと降り注いでいった。
それは、新しい季節の始まりを告げているようだった。
◆
帰り道、二人は春の夕暮れの中を歩いていた。西日に照らされた桜並木が、オレンジ色に染まっている。
「ねぇ、少し寄り道していい?」
奏歌が月詠の手を引いて、小さな公園に向かう。ブランコに腰掛けた二人の足元に、桜の花びらが静かに積もっていく。
「由紀ちゃん、きっと喜んでくれてたよね」
月詠の呟きに、奏歌は優しく頷く。
「ええ。だって、月詠の笑顔を見せられたもの」
その言葉に、月詠は思わず奏歌の方を向く。夕陽に照らされた銀色の髪が、まるで光の糸のように輝いていた。
「私、奏歌さんと出会えて、本当に……」
言葉が詰まる。伝えたい想いが大きすぎて、どんな言葉も足りないように感じた。
「月詠」
奏歌がそっと月詠の頬に触れる。その指先が、優しく震えていた。
「もう『さん』付けはいいよ」
囁くような声。距離が、少しずつ縮まっていく。
「奏歌……」
桜の花びらが、二人の周りをゆっくりと舞い落ちる。
「好き」
二つの想いが重なるように、唇が触れ合う。柔らかで、温かで、桜の香りがする優しいキス。
これからも月詠と奏歌の物語は、穏やかに、ずっと紡がれていくことだろう。
(了)




