第1章:「独りよりも二人の方が、きっと楽しいわ」
風が桜の花びらを舞い上げる。淡いピンク色の雨が、青い制服の肩に優しく降り注ぐ。
桜庭月詠は立ち止まり、空を見上げた。枝垂れ桜の向こうに広がる春の空は、まるで永遠に続くような深い青だった。
「もう、こんな時間……」
腕時計を確認して、月詠は小さく息をつく。放課後の校舎には、まだ部活動の声が響いているはずだった。でも、彼女の耳に届くのは風の音だけ。
あの日から、月詠は誰とも話さなくなった。
教室の自分の席に向かって歩く。誰もいない空間に、革靴の音だけが響く。机の上には、一枚の白い封筒が置かれていた。開けると中から一枚の写真が滑り出る。
そこには去年の文化祭、笑顔で肩を組む二人の少女が写っていた。一人は月詠。もう一人は……。
「由紀……」
胸が締め付けられるような痛みとともに、記憶が蘇る。
冬の夕暮れ、街灯がちらつき始める時間帯。
舞い落ちる小雪が、二人の足跡を優しく覆っていく。
「月詠ちゃん、今日の数学のテスト、難しかったよね」
由紀の声が、静かな通学路に響く。いつものように明るい声だが、どこか切なさを帯びているように聞こえた。
「うん……特に最後の問題」
月詠が答える。由紀の横顔を見ると、珍しく真剣な表情をしていた。唇を噛んでいる──由紀が何か悩みを抱えている時の癖だ。
「どうかした?」
「ね、月詠ちゃん……私、本当に月詠ちゃんの友達でいていい?」
突然の問いかけに、月詠は足を止める。由紀の瞳に、涙が光っているように見えた。
「由紀ちゃん?」
「私、月詠ちゃんのこと……」
言葉の続きが聞こえなかった。大きなエンジン音が、由紀の声を掻き消したのだ。
次の瞬間、全てがスローモーション映像のように見えた。
交差点に飛び出してきたトラック。
制御を失ったように蛇行する車体。
そして、轢かれそうになった月詠を突き飛ばす由紀の姿。
「ごめんね、月詠ちゃん」
「由紀ちゃん!?」
由紀の最後の言葉。かすかな笑みを浮かべた表情。困惑する月詠。
その時、月詠の背中から青い光が噴き出した。制御のできない力が全身を貫く。まるで全身の血管が氷結するような痛みと共に、巨大な翼が展開する。
「由紀ちゃん!」
光が由紀を包み込もうとした瞬間、全てが狂い始めた。
青い光が不規則に歪み、鋭利な羽となって四方八方に飛び散る。
「っ!」
由紀の小さな悲鳴。
月詠の視界が真っ赤に染まる。
純白の制服に広がる赤い染み。
雪の上に落ちる深紅の滴。
そして、冷えていく由紀の体。
「どうして……由紀ちゃん、どうして!」
守ろうとした力が、最愛の友を傷つけた現実。
白い雪の上で、青い翼が赤く染まっていく。
由紀の最期の表情は、なぜか穏やかな笑みだった。
まるで、全てを理解していたかのように。
まるで、これが彼女が自身で選んだ結末であったかのように。
その光景は、月詠の心に消えない傷痕として刻まれた。
夜ごと蘇る悪夢の中で、白い翼は常に赤く染まり続ける。
由紀の最期の笑顔と共に。
雪は静かに降り続け、二人の残した足跡を消していった。
通学路の街灯が、ぼんやりと赤い雪を照らしている。
その夜以来、月詠の心は冬の闇に閉ざされたまま──。
それは月詠にとって、永遠に消えることのない記憶となった。力の制御を失い、最愛の友を守れなかった瞬間。青い光に込められた守護の願いが、皮肉にも破壊の力へと変わってしまった瞬間。
ただ、自分の力が親友の命を奪ってしまったという現実だけが、彼女の心を縛り続けている。
机に向かい、ノートを開く。誰もいない教室で、いつものように一人で勉強を始める。これが月詠にできるささやかな贖罪だった。
突然、教室のドアが開く音がした。
「あら、まだ誰かいるの?」
聞き慣れない声に、月詠は顔を上げた。
そこには見たことのない少女が立っていた。長い銀色の髪が夕陽に輝き、薄紫色の瞳が月詠をじっと見つめている。制服の襟元には、転校生を示す校章が光っていた。
「天音奏歌よ。明日から此処に通うことになったの。だから前乗りで学校見学♪」
少女――天音奏歌は、まっすぐに月詠を見つめながら楽しそうに言った。その視線には、どこか懐かしいような温かみがあった。
「桜庭……月詠」
自己紹介をする声が、か細く震える。どれほど長い間、他人と言葉を交わしていなかっただろう。
奏歌は月詠の隣の席へと歩み寄り、さりげなく腰掛けた。その仕草には、どこか計算されたような、でいて自然な優雅さがあった。
「ねぇ、桜庭さん。明日、この学校のことを詳しく案内してもらえないかしら?」
銀色の髪が揺れ、かすかな花の香りが漂う。
「私……人と話すのは、得意じゃ……」
「大丈夫よ。ゆっくりでいいの」
奏歌は優しく微笑んだ。その表情に、月詠は思わず見入ってしまう。まるで月明かりのように、柔らかで清らかな微笑み。
「実は、私も転校は初めてじゃないの。色々あって、学校を転々としてきたわ」
奏歌は窓の外を見つめながら続けた。
「だから、一人でいる人の気持ち……少しは分かるつもり」
その言葉に、月詠の胸が小さく震えた。
「でも、独りよりも二人の方が、きっと楽しいわ」
奏歌は立ち上がると、月詠の机の前まで歩み寄った。夕陽に照らされた銀髪が、まるでオーロラのように揺らめく。
「明日から、よろしくね? 月詠」
突然の下の名前での呼びかけに、月詠は驚いて顔を上げた。そこには、優しく手を差し伸べる奏歌の姿があった。
その瞬間、月詠の背中でかすかに痛みが走る。封印していたはずの力が、微かに共鳴するように震えた。
(もしかして……この子も……?)
疑問が浮かぶ前に、奏歌は軽やかに踵を返していた。
「じゃあ、また明日」
銀髪が夕陽に煌めき、奏歌は教室を後にする。その背中には、月詠にしか見えない淡い光の輪郭が浮かんでいた。
確かに見えた。奏歌の背中から広がる、真っ白な翼の形。
月詠は静かに立ち上がり、窓際まで歩む。下校する奏歌の姿を見送りながら、久しぶりに胸の奥で温かいものが揺らめくのを感じていた。