36.水晶宮にて①惨めで孤独な侯爵令嬢
(SIDE:アナベル)
――その日。
侍女達の悲鳴で目覚めたアナベルは、彼女達が指し示すままに、王宮の方角へと目を向けた。
立ち上る煙と、遠く聞こえる金属音。
喧騒から切り離され、ただ王の寵愛を得るためだけに存在していた水晶宮にまで、不穏な気配が忍び寄る。
何が起きているのか分からないまま、水晶宮で働くすべての者が、本館の大広間に集められた。
居並ぶ使用人達と扱いを同じくしてアナベルは立たされ、ふと見ると端のほうにドナテラもまた立っている。
ミランダ不在の今、水晶宮の主はドナテラのはずでは……?
それでは一体、誰の声掛けで集められたのだろうと前方を見遣ると、振り分け階段が交差する踊り場中央、少し高く位置するところの手摺に凭れ、アサドラ王国の王女レティーナが彼女らに視線を落としていた。
「?」
個人的にも交流があり、度々お茶会にも呼んでくれるレティーナは、一番仲の良い側妃である。
他の三人……たまに威圧的なオーラを発するミランダや、自信無さげな所が鬱陶しいドナテラ、歯牙にもかけず無視をするシェリル……とは異なり、慣れない環境でアナベルに優しく接してくれる数少ない一人であった。
ふと見回すと、振り分け階段の一段目、アナベル達とは相対する形で立ち並ぶ騎士達の中に、見覚えのある顔を複数見付ける。
一人は、入宮の際に付されたアナベルの護衛騎士。
ドナテラの護衛騎士は不在のようだが、レティーナの護衛騎士もいる。
他にも、ヘイリー侯爵邸にいた騎士達……幼い頃からの馴染みの者までいた。
「揃いも揃って、間抜けな顔だこと」
十数名にも及ぶ騎士達をまるで女王のように従え、居並ぶアナベル達を見下し、蔑むように言を発する。
「ガルージャの大軍が、陛下率いるグランガルド軍を滅ぼし、じきに王宮へと雪崩れ込むわ」
――え?
何を言われているのか理解が出来ず、アナベルは騎士達とレティーナへ、交互に視線を向けた。
「北方から攻め入った帝国軍は、ファゴル大公国に阻まれ、身動きが取れないようだけれど」
口元は微笑んでいるのに、温度のない眼差しは、何も映していないかのように虚ろに揺れる。
「折角だから、いつも偉そうに威張り散らしていたミランダを、民兵に下げ渡すのも一興かと思っていたのに」
ああ、残念だわ。
でも、あのミランダが、尻尾を巻いておめおめと自国へ逃げ帰る様は見物だったわ、とレティーナは呟く。
「折角水晶宮が私のものになったかと思ったら、残っているのはこんなゴミばかり」
レティーナは溜息をつき、「まだシェリル様がいれば楽しめたのに、こんなゴミ相手では遊ぶ価値もないわね」と、吐き捨てた。
――こんな顔をした女性だっただろうか?
アナベルは信じられない思いで、叫んだ。
「う、うらぎりものっ! ……信じてたのにっ! 貴女が裏切ったのね!?」
怒り狂い、問い詰めようとしたアナベルへ、幼い頃から侯爵家で顔馴染みだったはずの騎士二人が、抜き身の剣を構える。
「ああ、殺さなくていいわ。剣の錆にする価値すらもない愚か者だもの」
そこまで言うとレティーナは、クスリと笑って振り分け階段を降り、アナベルが腕を伸ばせば届くほどの距離まで歩み寄った。
「先程、宰相閣下とアシム公爵を捕え、投獄したの。元々手薄になっていた王宮内は、指揮官二人を失って、もはや烏合の集。局面が変わる可能性は無いわ」
その言葉に、端に立ち、両手で口元を覆いながら小さく震えていたドナテラが、大きく大きく目を見張るのが見える。
「……そうだわ、良い事を思い付いた」
ふと興味を失ったようにアナベルから視線を外すと、突然レティーナは目を輝かせ、その場にいた者全員に呼び掛けた。
「ここにいる使用人達は、水晶宮の物をなんでも持ち出して良いし、好きに逃げて構わないわ! ……勿論、側妃達の私物も含め全てよ!」
あははははと、甲高い声で気が触れたように笑いだす。
「空っぽの水晶宮で、誰にも傅かれず一人ぼっちの王女様!」
なんて哀れで滑稽なの! とレティーナはクルクルと周りながら叫ぶ。
「そして、誰にも愛されず、惨めで孤独な侯爵令嬢!」
私を信じて愚痴る姿に、いつも笑ってしまいそうだったのよ! と告げる声に、ぶわりと涙が溢れ、もはやアナベルは顔を上げる事が出来なかった。
「折角共に過ごした仲だもの。憐れな貴女達に、最後に情けをかけてあげるわ」
涙を拭う事も出来ず、俯きボロボロと大粒の涙を落とすアナベルを、下から覗き込むようにして、ギョロリと目を動かし薄ら笑いを浮かべる。
「この水晶宮には、特別に反乱軍の立入りを禁じてあげる! その代わり、貴女達二人は、絶対にここから出ちゃだめよ……言いつけを破ったら殺すわ」
すべての侍女や使用人までもが、価値のあるものを略奪し立ち去り、文字通り空っぽになる水晶宮。
食料が尽きても、火を放たれても……王宮を追われたグランガルドの兵士達が逃げ込み、どんな略奪や暴行を働いたとしても、絶対に出ることは許さないわ。
ああ、まるで生き地獄ね!
私はガルージャに亡命するから、貴方達の苦しむ姿を直接見ることが出来ないのだけれど。
その一点だけが、心残りだわ。
目だけをギョロギョロと動かし、落ち着きなく気が触れたように声を立て、ひとしきり笑った後、レティーナはアナベルに鼻先が触れそうなほど顔を近付けた。
「真の裏切り者はね、お前の父、ホレス・ヘイリーよ。娘があんまり使えないから、王都に入る手前で本人が直接謁見を申し出てきたの」
たかだか侯爵如きが、一国の王女相手に不遜なこと。
「……大好きなお父様から伝言よ。もう貴女はいらないって。邪魔だから、殺すよう侯爵家の騎士に命じてたみたいだけど、あんまり哀れだから、特別に私が助けてあげたのよ?」
涙が出すぎて、キンと耳鳴りがする。
アナベルは現実味のない今に、ふわふわと視界が揺れはじめた。
「反乱軍の立入りは禁じたけれど……グランガルドの兵士達には、さぞかし恨まれているでしょうね。もしかしたら水晶宮に復讐しに来るかもしれないわ……頑張って、逃げてくださいね?」
レティーナが何かを話しているようだが、キンキンと大音量で耳鳴りが反響し、何も聞き取ることができない。
下卑た笑い声が響く中、アナベルの視界は暗くなり、力を失った身体はその場に崩れ落ちた。







