32.何をするつもりなの?
驚くべきことに、水晶宮から出たいと願う者は、誰もいなかった。
『王の言葉は無条件に従うべきもの』と教えられて育った、カナン王国のドナテラ。
他人からの指示に従い慣れている彼女にとって、自分で選び、宮を出ていくという選択肢はないようだ。
一方、アサドラ王国のレティーナは継承順位も低く、戻る場所もないとのことで、そのまま留まることになった。
残るヘイリー侯爵家のアナベルも、引き続き水晶宮で過ごしたいとのこと。
クラウス陛下なら、何とかしてくれるのではないかという希望的観測もあり、事態を重く見ていない可能性もあるが、その辺りを細かく説明する時間はない。
ミランダは早々に水晶宮の権限を委譲すべく、ドナテラの前に立った。
「ドナテラ様、私は陛下の命令で自国に帰らねばなりません。シェリル様は既に自領へお戻りのため、貴女に水晶宮をお預けします」
驚き、目を瞠るドナテラに、正面から視線を合わせ、ゆっくりと含み聞かせるように言葉を紡ぐ。
「わ、わたくしが……? そんな、できません! どうか他の方に」
ドナテラは嫌々をするように頭を横に振り、ミランダに縋る。
「いいえ、これは貴女の役目です」
これはお願いではなく、命令です。
「私が発てば、ここは貴女の宮殿。 ……グランガルドのため、貴女が守り、導き、決断するのです」
ミランダの言葉に、ドナテラの瞳が不安気に揺れ動き、じわじわと涙で潤んでいく。
「で、できな……、むり、無理です。だってそんな事したこともな」
「出来ます」
出来ないとベソをかき始めたドナテラを一括し、ミランダは力強く抱きしめた。
「立場が人を作るのです。貴女なら、きっとできます。……私だって、初めは何も出来ませんでした」
「……ッ、殿下、でも」
「大丈夫。絶対に、できます」
赤子を寝かしつけるように、抱きしめながらポンポンと優しく背中を叩く。
大丈夫、大丈夫と抱きしめられ、ドナテラは人目も憚らず、泣き出してしまった。
「宰相閣下が定期的に連絡役を寄越してくださるので、分からないことはその方に相談するか、グランガルドにお詳しいアナベル様にお聞きください」
皆様もどうかドナテラ様をお支え下さい、と他の二人に目を向ける。
「侍女はもう必要ないため、一旦どなたかにお預けしたいのですが、いかがでしょうか」
「これ以上の侍女は、私には不要です。必要な方にお預けください」
レティーナが断ったため、それでは誰にしようかとミランダは悩む素振りをする。
なお、今回は少人数での移動となるため、護衛はロン一人である。
「それでは、侍女長のルルエラをドナテラ様に。シャロンとモニカを、アナベル様にお預けします。……万が一、不測の事態で身の危険を感じた時は、逃げることを躊躇わないでください。命あってこそです」
想定どおりレティーナが断ったため、支えが必要になりそうなドナテラに、ルルエラを。
アナベルの侍女達はすべて下位貴族のご令嬢のため、少し心配ではあるが平民のモニカ。そしてシャロンを。
当初予定していた通り、すべてを伝え終えると、最後にミランダはアナベルの元へと歩み寄った。
「アナベル様。グランガルドは今、大きく揺れ動いています。どのような結末を迎えるのか、この国をよく知る貴女が、私の代わりに見届けてください」
絶え間なく降り注ぐ雨の中、離反した第四騎士団の後を追うようにして、第三騎士団は先程出征した。
手薄になった王宮内では、ザハドの助力を得ながら、アシム公爵が采配を振るう。
――――ここもまた、戦場なのだ。
***
「短い間でしたが、よく仕えてくれました。 ……ありがとう」
礼を告げると、侍女長のルルエラが涙ぐむ。
「貴女達も同様に、いざとなったら逃げて構いません。ですがそれまでは、新しい主人によく仕え、支えてあげてください」
順に手を握り、暫くは食うに困らない額の入った小さな巾着袋を握らせると、シャロンとモニカがぐすりと鼻を啜った。
もう少しゆっくりと別れの言葉を告げたかったが、早くとロンに急かされ、高官用の地下通路へと向かう。
目的地は、王都のメインストリートから少し離れた、十番街の宿屋『エトロワ』。
高位貴族のお忍びでも利用されるこの宿屋に、馬を繋いであるとのことだったが、内部が入り組んでいるため、ザハドから案内役が一人遣わされる。
「高官用地下通路への入口は複数あり、その内の一つが『討議室』内にあります」
案内役が告げ、壇上裏の重い踏み台をずらすと、人が一人入れるくらいの入口が、床下から現れた。
僅かな荷物を持ち、地下通路へ降りると、目を凝らさなければ見えない程に薄暗い。
足元に気を付けながら進むと、やがて三つの分岐点に差し掛かった。
さすがは案内役、勝手知ったるのだろうか、迷うことなく真ん中の通路を選び、進んでいく。
「随分と歩きましたが、あとどれくらいでしょうか?」
どれくらい歩いただろうか。
少し息の切れたミランダが案内役に問うと、あと二十分程だという。
「見ればこの先の通路は、天井も高く幅も広い……先に行って、馬をここまで連れてくることは可能ですか」
もう歩きたくない! と我儘をいうミランダ。
案内役は少し呆れ顔をした後、「それならば、この場で少々お待ちください」と、一足先に『エトロワ』へ向かい、ミランダのために馬を引いてくることになった。
視界の悪い地下通路の中、ロンと二人きりになると、ミランダは徐に口を開いた。
「……今向かっているのは、十番街でなく、メインストリート端の二番街ではなくって?」
クラウスの執務室で、ありとあらゆる資料を読み込んだ。
王都の地図は頭に入っている。
まさかミランダが気付いているとは思わなかったのだろう。
ロンはビクリと身体を揺らし、警戒するようにミランダへと差し向かう。
「お前達は、何をするつもりなの?」
ミランダがロンの元へと一歩踏み出すと、ロンは震える手で、スラリと剣を抜いた。







