96. 封鎖され、情報が遮断された場所
――グランガルドにいた頃。
王宮から脱出した際、地下通路の先にある宿屋『エトロワ』には、王家直属の騎士達が待機していた。
有事の際の連絡役としてだけでなく、高貴な者の護衛も担う彼らは揃いも揃って忠誠心に厚く、王命とあらば何を犠牲にしてでも守る覚悟を持った者ばかりだった。
では、ここインヴェルノ帝国はどうかというと——。
ニルス大河川、渓谷、鉱山跡……といった具合に、ほとんど手つかずの土地が脱出口の先に広がっており、城の外までは誰にも知られることなく抜け出すことができる。
その代わり脱出後の人的支援は一切なく、洞窟の岩陰には最低限の衣服や、簡素な火打ち石などが巧妙に隠されていた。
「なぜ、男性と偽ることに?」
皇太子は衣服を受け取るなり問いかけたミランダに、小さく息を吐いた。
「母が身籠ってまもなく、皇帝の寵愛は他の女へと移った。このままでは、いずれ見捨てられると考えた母は、自身の地位を守るために……どうしても男児を産む必要があったのだ」
ミランダが袖を通すと、長らく風に晒されていたのだろうか。
粗末な布地は乾ききり、まるで木の皮のように固く軋んだ。
「以前も言ったが、我が国では女性の地位が極めて低い。女児など産んでも、家臣に下げ渡されるだけで、たいした価値はない」
当時、皇帝の寵を受けた女性は、皇后の他に二人いた。
もし自分の子が女児で、どちらかが男児を産んでしまったら?
すでに寵を失いかけていた皇后にとって、それは恐怖でしかなく、また生き残る最後の手段だった。
皇后としての地位を守るためには是が非でも、子どもは男児であらねばならない。
だからこそ、命懸けで子の性別を偽り、育てたのだ。
「私が女であると知る者は、ほんの一握り。偽物を推挙した第二皇子ギリムも、そのひとりだな」
「第二皇子殿下が?」
「信頼できる男だ。問題はない」
ギリムは公爵家の娘を母に持ち、生まれてまもなく母親を失ったという。
その後、元侍女は皇后の座に上りつめ、すべてを掌握した。
「皇后陛下がわたしに手を出せなかったのは、皇太子という立場があったからだ。だが、女であると知られれば、たとえ無罪を証明できたとしても、即刻死罪だな」
病に臥す皇帝の代わりに戦場を指揮し、帝国軍を率いてきた。
だがそんな戦功など、何の意味も無いのだ。
「ジャノバの領主アルゼンが、アルディリア国王と水面下で連絡を取り合っているのを知ってからは、アルゼンを仲間に引き入れた。これ以上、益のない戦争で国民をいたずらに疲弊させるのは、わたしとしても本意ではない」
そしてついに『皇太子妃選定式』が間近に迫る。
「するとアルディリア国王は『皇太子妃選定式』に際し、ある提案をしてきたのだ」
先の大戦でガルージャ軍を水底に沈めた面白い大公女がいる。
直接の支援は立場上できかねるが、近々帝国に現れるはずだから、協力を仰げばいいだろう、と。
「無理強いはせず、偽物を立ててでも私を引きずり出せと?」
「まぁ、そうだな」
言われるがままミランダについて調べれば、悪評ばかりが耳に入り、何が本当かも分からない。
だが妃を娶る必要がある以上、この先ずっと女であることを隠し続けるのは至難の業だった。
『皇太子妃選定式』を乗り切らなければ、未来はない。
ならば第三皇子への不敬罪に問われ、罪人の焼きゴテを与えられた娘を偽物に仕立て上げるのはどうだろう。
本物が協力をしなかった場合でも、少なくとも『皇太子妃選定式』の間は裏切らない妃候補を傍に置くことができる。
どちらにしろ死刑囚。
都合が悪くなったら、始末してしまえばいいだけだ。
事の顛末を詳らかに知ったミランダは、着替える手を一瞬止め、ふむ、と思いついたように岩陰の衣服を引っ張り出した。
「ところで、女性としてのお名前はお持ちなのですか?」
「聞いたことがない。母は『セト』、とだけ呼んでいた」
そんなもの必要ない、と言い切る皇太子の濡れそぼったシャツから、話している間もぽたりぽたりと雫が堕ちる。
「着替え終わったら、船を使わずジャノバへ向かう。少し休んでおけ」
「ジャノバですか? すでに私達の捕縛命令が出ているはずですが……」
他に身を隠せる場所もなさそうだが、いくらなんでもリスクが高すぎる。
「封鎖され、情報が遮断されたラゴンのほうがよろしいかと」
「ラゴンは最近、神経障害や死亡の報告が相次いでいる。疫病の可能性があるため商業ルートを閉鎖したばかりだ。感染していない一般人は、行き来できない」
周辺の街で同様の症状がでた場合、ラゴンに隔離する旨も通達済みである。
ラゴンは無理だと皇太子に拒まれるが、かといって他を目指したところで、捕まれば言い逃れもできない。
船が使えなければ、馬もない。
移動手段が徒歩しかないこの状況で、帝国兵による検閲の目を免れ身を隠せる、安全な場所。
「……行き先は、ラゴン一択です」
言い切るミランダを、訝しげに見遣る皇太子の前に、ひらりと服を差し出した。
「さぁ、急いで着替えてください!」
「……は?」
目の前に差し出されたのは、襟口深め、町娘風のワンピース。
生まれてこの方、女性用の服など袖を通したこともない皇太子は、その風通しの良さそうなひらめく裾に、絶句する。
船も馬も使えない今、徒歩で移動できるここから一番近い都市。
そして、外からの目が届かない最も安全な場所――それが、ラゴンなのだ。







