感傷 【完走】
電車はまだ通勤ラッシュを抱えていた。
僕は切符を改札に通すと、混んでいる方向とは逆のホームへ下りる。
病院に向うのは通勤ラッシュとは逆方向だ。
いつもの倍以上にそのことが嬉しく思えた。
僕はこれから本当に病院へ行くのだろうか。
果たして何をしに行くのだろう。
ただ体温を失って行く弟を見届けろとでも言うのだろうか。
電車がホームへ滑り込み、その突風に思わず身がよろける。
いっそのこと、そのまま線路に倒れてしまいたくなった。
扉が開くと、慌てて起きたのだろうか、深く帽子をかぶった中年男性が急いで降りてきた。
彼は僕にぶつかると、会釈をして非礼の言葉を乱雑な口ぶりで吐いた。
あぁ、きっと暢志なら怒り出すんだろう。
しかし慌てていた割に非礼を詫びたのだから、おそらく根は真面目に違いない。
混沌としきった頭の中で、やけに思考だけが無駄なところへ働く自分が可笑しかった。
車内に入り、さっきまであの男が座っていたであろう場所に目をやる。
そこには大きな紙袋が置かれていた。
彼の忘れ物だろうと、扉の向こうを見やるが彼の姿は既に消え去っており、そのままにしておいた。
どうせ僕が偽善ぶって届けたところで何も返ってはこない。
その近くに座るのも何か心苦しさがあり、僕はそこから少し離れたシートに力なく腰を下ろした。
電車が動き始めると、つられて中吊り広告も一緒に傾く。
車内に人は少なく、二人分のシートを一人で使える程度の乗車数だった。
「お乗りの快速電車、次は・・・」
しまった、と思った。
乗るべきなのは快速ではない。
病院に行くには各駅停車でないとならなかった。
というのも、その病院があまり大きくないせいである。
誰にこの悔しさを訴えれば良いのか分からず、僕はただひたすらに唇を噛み締めた。
痛くなって唇を離した時、かすかに嫌な空気が肺へと流れ込んだ。
顔を上げて見渡すと、注意すれば気付く程度に空気が淀んでいる。
まるでライブハウスの煙草の煙と演出の煙が混ざったような感じだった。
前に座っていた男性が顔をしかめる。
その隣に座った大きなマスクをした女性も異変に気付いたのか、辺りを見回した。
僕はいち早く、きっと誰よりも早くその元を見つけ出していた。
原因は、ぶつかった男の忘れ物に違いない。
そこから煙は流れ出、化学的な匂いを発している。
「ちょっと、これ危ないんじゃないですか」
どこかの女性が言った。
それと同時に紙袋に対面するように座っていた女子高生が体を二つに折って前のめりに倒れこんだ。
辺りにどこからか女性の悲鳴が響く。
それは強烈なものとなり、車内を揺るがす。
それを皮切りに、車内は騒然とした雰囲気に包まれた。
僕はただ、その光景を眺めていた。
ここには人間が人間のままで生きている。
僕はどうなるのだろう、そんな疑問は最初の僅かな時間で塵となって消えた。
車内を走る人々、うずくまり、動かなくなっていく人。
何のためにこんな仕業をしたのか分からないが、彼はここにいる人よりはましだった。
礼儀を持っていた。
人間として与えられた任務をこなしていた。
「坊主、どけ!」
前にいたはずの男性が、いつの間にか僕の上にいた。
瞬間的に弾き飛ばされ、窓の淵に頭を打ったが、痛みなど最早感じなかった。
電車のシートに倒れこんだまま、僕は彼を見つめる。
面白いくらいに歪んだ表情がこの事態の深刻さを物語っていた。
窓を懸命に叩く姿は、いつか動物園で見たゴリラの野生的な姿に似ている。
「割れないよ。第一、もうどうにもなるはずないじゃないか」
彼の腕時計のせいでこめかみが薄く切れ、血液が頬を伝って口の中に入った。
男性が窓から離れ、立ち上がった。
それと同時に僕の居場所も元に戻り、頭を抑えながら座りなおす。
男はその僕の行動を睨むようにして見ていた。
右手の甲で血を拭うと、男と同じようにして睨み返す。
「静かにしてた方がいいよ、最後くらい」
冷たく睨んだ僕の目を覗き込んで、彼は目の色を変えた。
まるで、野生。
ざわついた車内を一振させるほど、一時静寂を招くほどの大きな雄叫びを上げると、
男は千鳥足で電車後方へと歩いていった。
つり革にぶつかりながら歩くそのさまは、確かに野生と化した人間の未来像に違いない。
この状況でも、案外僕は楽しんでいた。
自分に必要不可欠だった存在を失い、更に今自分までをも失おうとしている。
死という最終段階を目の前にすると、人間は本能をぶつけようとする。
そこにはきっと、理性では計り知れない何かが存在しているのだ。
嘘と偽りの正義で塗り固められた世界、その中にも真実はこうして存在している。
一人だけ、僕と同じようにただ座り込み、ひたすらにその時を待つ姿があった。
僕のななめ前に座っていた、大きなマスクの女性である。
彼女はマスクを外しながらゆっくりと僕に微笑むと、そのまま右に崩れるようにして倒れた。
最後の笑みは、僕の心に大きく開いた穴を埋めるようにして全身に広がっていった。