翻弄 【奔走】 3
「・・・もしもし」
僕は寝起きのせいか、低い声で対応していた。
受話器の向こう側ではザワザワとした雰囲気が窺える。
荒く息の上がった声がした。
「やっと出たわ」
母親の声だった。
途端、僕はその場から、いや、全世界のどこからも逃げ出したくなった。
頭を響く頭痛が更に輪をかけて酷くなる。
何も聞きたくはなかった。
「早く病院まで来てちょうだい」
僕の口から、いくつかの声が出る。
それは言葉になることもなく、空中に消えていった。
聞いているの、という問いかけが受話器を当てた耳から逆の耳へと通過する。
本当に音って言うものは、スラスラと脳内を通過するもんなんだな・・・。
「病院で何があったんだ?」
僕は落ち着き払ったような口ぶりで言う。
分かっている、何もかも。
こうなることを僕は知っていた。
虫の知らせのように、僕の一番人間的な部分だけがこの展開を、結末を知っていたのだ。
それに気付かない振りをしていたのは、この僕自身だ。
だからこそ、母親の返答さえも予測できていた。
真実を認めるのが、ただ怖かった。
「連が急の発作で・・・今はまだどうなるか分からないの・・・」
「あぁ良かった」
僕は無意識に胸を撫で下ろし、呟いていた。
母親が怪訝そうに聞き返すが一蹴して今すぐ行くとだけ答えて電話を切った。
良かった、まだ連は生きている。
悪い展開のはずなのに、なぜかまだ連に命があるということを大きな喜びのように感じられた。
それだけが、今の僕にとっての大きな救いだった。
階段を駆け上がり、最後にいつ着たか分からないような洋服を引っ張り出して着替える。
腹が空いていたことなど、とうの昔に忘れてしまっていた。
なかなかうまく入らない片腕に苛立ちを覚える。
焦りすぎると逆に遅くなると知っているはずなのに、なぜか僕は上の空でただ感情に身を委ねていた。
体が勝手に着替えをしている、体が勝手に財布を掴む。
その間僕の頭の中では、考えないようにしていたことがグルグルと巡っていた。
―――僕の暢志への最後の言葉は、何だったのだろうか。
家を飛び出すや否や、僕は随分使っていない自分の自転車をまたいだ。
考え事をしている片隅で、病院の到着時間を計算する。
自転車で駅まで十分。駅から病院まで三駅、合わせて三十分もあれば着くだろう。
―――アイツに抱いたような、後悔をしないように。
自転車をこぎ始めると、気持ちの良いはずの風が向かい風のように感られた。
今は、これを乗り越えて誰よりも先を走らなければいけない。
じわじわと滲む汗を向かい風で乾かし、僕の自転車はこれまでにない走りを見せた。
悪いと思いながらも、自転車を違法駐車として道端に止める。
しかし、なかなか自転車の足が下りずに僕の苛立ちは頂点に届きそうだった。
駐輪場にとめれば罪悪感も、自転車が撤去されてしまうという不安もないのだが、そんな時間は与えられていない。
何が何でも急がなければいけないのだ。
この気持ちが自分自身を焦らせているということは分かっている。
ポケットに入った携帯が長いバイブ音と共に振動する。
自転車をやっとのことで止め、早足で歩きながら電話に出た。
先ほどと同じ、背景にざわめきを含む場所からの電話。
「もしもし、巽・・・」
母親の悲しそうな声が耳に届く。
今の僕にはその声さえも邪魔者であった。
これから地下鉄に乗るというのに、通話したままでは入れない。
もう駅はすぐそこに迫っている。
用件だけ聞き出して、早く構内に入らなければ・・・。
「巽、連が・・・」
足は地下に降りようとしていた。
通話が途切れ途切れになると、通信の切れた音が耳元で鳴り響く。
人工的で感情のこもらない、電話をするに当たって最も好都合な音だろう。
相手は人間だとしても介するものは人間ではない。
―――僕はもう、人間でいたくない。
途切れる前の最後の一言、連が息を引き取ったという、母親の報告。