翻弄 【奔走】 1
僕には、三歳年下の弟がいる。
「兄ちゃん、最近家にいてばっかだな」
彼は生まれつき心臓が弱く、幸いなことに幼少の頃には回復していた。
しかし最近になったまた悪化し、病院にいく以外は外に出られない生活が続いている。
「そういう連も家にいるじゃないか。早く治せよ」
「そんなこと言われても・・・自分で治せるんだったらとっくに治してるよ」
母親が作りおいた昼食を二人で食べながら、久しぶりの会話を交わした。
暢志がいなくなってから、一週間が経過していた。
僕は、あの病院から帰って来てから一度も外に出ていない。
世界の全ての物は、みんななくなるのだと分かった。
今こうして自分がここにいることですら曖昧で、過度の不安がつきまとった。
連が家にいるようになったのは一ヶ月ほど前だろうか。
だとしたら、僕の一週間なんて痛くも痒くもないのかもしれない。
この一週間にも連と話をしなかったのは、僕が自室で一人うずくまっていたせいである。
「兄ちゃん、何かあった?」
暢志が消えたことは、母親にも、もちろん連にも言っていない。
言葉にして認めるだけで、暢志自身だけじゃなく彼の記憶も消えてしまいそうだった。
「いや、別に何も・・・」
僕はピラフの乗ったスプーンを皿に戻し、連を見ないように眼鏡をかけ直した。
口の中で小さなエビを更に細かく砕く。
「・・・何かあったんだろ。すぐ分かるよ」
連は口の中いっぱいにピラフを詰め込んで言った。
驚いて直視したその顔は妙に嬉しそうに歪み、まるで僕を嘲る様だった。
「兄ちゃんが嘘つく時って、人の目を見ないからすぐ分かるんだよ」
「よく見てるなぁ・・・」
僕は照れくさそうに笑いながら、ひたすらコップに入ったジュースを飲み干した。
今度は連を直視することが出来ない。
見透かされていた僕の嘘のつき方を中心に、全てを知られているような気がしてならなかったのだ。
僕は、連が嘘をつく瞬間を見逃さずに見抜くことが出来るだろうか。
否、僕には出来ない。
「で、どうしたの?母さんも心配してたよ」
「母さんには・・・言わないって約束するなら」
母親ももちろん、連も多かれ少なかれ暢志のことを知っているだろう。
僕が何度か食卓で彼の話題を出したことがあるからだ。
僕にとって、彼は新しい種類の人間であり、珍しくもあった。
彼と一緒にいる毎日がとても新鮮で・・・。
途端、思い出が乱雑に揺さぶられる。
まるで放送時間を終えたテレビのように白黒の砂嵐が頭の中を埋め尽くした。
思い出してはいけない。
思い出す、そんな行動で彼を葬ってはいけないのだ。
「・・・言わないよ。何?そんなにヤバイことなの?」
「ヤバイっていう訳じゃないけど・・・何かと面倒だからさ」
母親に知れたら、きっと彼女は暢志の家に行くだろう。
そして暢志の母に嬉しくもない余計な世話を焼くに決まっている。
もしそれが社会の中のルールだとしても、今は彼女に余計な気遣いをして欲しくなかった。
暢志の亡くなったあの家は、きっと冷たい空気に満ちているだろう。
連の顔は好奇心に溢れていた。何か楽しいことを求めている。
しかし、今の僕には楽しいことなんか一つもない。
つまらないこの家と病院とを行き来している連には面白く、刺激のある話が必要なのだろう。
作り話でも構わない。彼の探究心をくすぐるものなら何でも構わない。
気付けば、僕は嘘をついていた。
それはいつの間にか、自然と口から出たもので悪気はない。
結果として彼も喜んでいるのだから僕に非はないはずだ。
ちゃんと、彼の目を見て話せただろうか。
嘘とはバレていないだろうか。
笑った口元に余計な不安は残していないだろうか。
僕の嘘を見破れる連にも、僕の学校生活のことまでは分からないようだった。
一週間も家に閉じこもる理由を、僕は学校で乱闘騒ぎを起こしたからだと偽った。
もちろん、そんな騒ぎが実際にあったわけではない。
あったとしたら、既に家に連絡され僕はこんなところでのうのうとピラフをほうばっているはずがない。
連にそういった知識がないことも、僕にとっては好都合であった。
「それで?その人大丈夫だった?」
連は僕が殴ったという人物を心配するような素振りを見せるが、どうしてもその裏にある好奇心だけは隠し切れないようだった。
チラチラと見え隠れするその心に、弟がまだ純粋なことを知る。
弟といってももう中学二年生だ。
今繰り広げた空想の中の僕のように、いわゆる不良になっていてもおかしくはない。
病気のこともあるのだろうが、僕のように生真面目に見られる人間にはなって欲しくなかった。
勉強だけ出来て、友達をえり好みするような連中の仲間に、なって欲しくない。
それを変えてくれた暢志のような親友に巡り会えばいい。
「兄ちゃん?どうした?」
「あぁ、ごめん、考え事しちゃってた」
連はゆっくりとその大きな口を三日月の形にして、穏やかな表情を見せた。
僕はピラフの最後の一口を飲み込むとその顔を見つめた。
「兄ちゃんと話したの、久しぶりだ」
その口は言葉を放つとまた三日月に戻る。
まるで起き上がり小法師のようで、連の小さい頃の記憶がふと映像となって頭に浮かんだ。
ところどころ曖昧で、ピントがずれたかのようにぼやけている映像。
それでも懐かしさは胸の奥の小さな取っ掛かりに引っかかった。
「そうだな、久しぶりだな」
僕の胸の中に様々な感情が蘇る。
幼かった頃を回顧するのは、その時の幸せをもう一度味わうようなものだ。
しかし現実に帰って来た時、過去と現在のギャップに悩まされる。
幸せでありたいと願い過去を振り返ろうとしている自分と、
現在にとどまって今を変えなければいけないとする自分が狭い頭の中で戦っていた。
「兄ちゃん」
「・・・何?」
連が今までの三日月を更に半月ほどに開いて、悲しそうな嬉しそうな声で呟く。
本当のことを話せよ、 と。
完全に僕の負けだった。
今の連を、僕は過去の自分だと思っていたのかもしれない。
だからこそ、井の中の蛙、知った振りになっていた。
「顔が真剣だよ」
連が言う。
その通りだった。
さっきから複雑な気持ちになっていて、余裕を見せた記憶がない。
作り話を連に聞かせる時も、昔話を思い出していた時も、僕の意識は一つもそこになかった。
だからといって、連を放っておいたわけじゃない。
「話せばすっきりするかもしれないじゃないか」
まさか連に諭されるとは思ってもいなかった。
しかし、僕は怖かった。
今まで生きてきた中で、これほど深い感情があっただろうか。
人に話すのも、そしてそれを現実の中に吐き出して事実にしてしまうことも怖かったのだ。
恐る恐る開いた口が、真実を吐き出していく。
かすかに手元が震えていた。
僕の中にしかなかった気持ちが現実となる。
何より、誰よりも死の近くにいたであろう連に話をするのが、
一番怖かった。