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失踪 【疾走】 4

ひんやりとした空気が、僕の体の外を覆っていた。

一歩歩くたびに床がコツンと無機質な音を奏でる。

前を行く男の人は、ひとつの引き出しのようなものの前に止まり、僕を振り返った。

「大丈夫ですか?」

「・・・はい、お願いします」

親族以外にはあまり見せないそうだ。

それでも僕は見なければならない。

彼が死んだというのなら、彼にはそれなりの義務を背負ってもらう。

キィとロッカーのような引き出しのドアが開き、長い物が飛び出した。


心拍数が上がる。

暢志がそこにいたらどうしよう。

今更ながら、彼の死を直視する勇気が失われていく。

心の中では瞬時に激しい葛藤が繰り広げられていた。

さっきまで平常心を保っていたはずが、真実の扉が開いた瞬間、僕の心は逆撫でされたように毛羽立った。

少しずつ現実となる真実に僕は立ち向かおうともせず、

彼と対面する頃にはただそれが仕方の無いことだと思うようになっていた。



「・・・暢志、君」

そこには、彼の姿があった。

表情がまるで苦しいでもなく幸せでもなく、無表情であった。

こんな人間の表情を今までに見たことがあっただろうか。

仏を見て不気味だと言ってしまう理由が、今の僕になら分かる。

しかしそれを暢志に言うのは気が引けた。

白い布をかぶせられ、彼の頭部と肩だけが見えていた。

顔には多少の傷があり、頬に一つ、一文字の赤い線が入っていた。



「何、してんだよ」

僕は思わずひざまづき、彼の顔と同じ高さに視線をおいた。

震える手が勝手に彼を求める。

茶色の髪も、なにやら固まって汚れていた。

触れた髪の先が、まるで人形の髪のようにプラスチックで出来ているのかと思うほどだった。

「言ったじゃないか・・・」

僕の手はやがて彼の頬を、傷のついていない頬を撫でていた。

硬く冷たいその肌は、心の底まで人間だった過去を忘れてしまっているようだ。

明らかにあの時の暢志ではなった。

様々な彼の変化に驚きながらも、頭の中では冷静にそれを判断しようとしない。

まるで生きている人間を相手にしているかのように、僕の口は語りかけ続けていた。

「死ぬ前に、教えてくれるって・・・言ったじゃないか」

もう動かない彼の顔、温まらない皮膚、傷が物語る事故の様子。


僕の目から涙が落ちた。

それが彼の閉じたまぶたに当たって散乱する。

彼に対する初めての涙だった。

静かな彼を目の前にして、頭の中ではまだ動き回る暢志が生きていた。

初めて会った日の記憶から、昨日の煙草を支える指まで、細かい映像が走馬灯のように上映される。

頭に描かれた映像を吐き出すかのように、僕の目からは涙が溢れた。


頭では、彼がもう帰らないことを理解していた。

何よりも、誰よりもよく分かっていた。

それでも僕は彼を見るまで信じられなかった。

そして今こうして目の前にしてもなお、信じられない。

不気味な表情も、固まった髪の毛ですら演技に見えてしまう。

そういえば、暢志は授業をサボる時の演技がうまかった。

僕の不器用な部分をいつもカバーし・・・。

「すみません、そろそろいいですか・・・?」

部屋の奥に居た男の人が僕に声をかける。

ふと我に返ると、いつの間にか僕が眼鏡を外して暢志の白い布を濡らしていた。

時間がどれほど経ったのかも分からず、僕は制服の裾で涙を拭って立ち上がった。




――お前はすぐ自分を見失うんだな。


   君に言われたくないよ。


――俺はいいんだよ。そういう人間だ。


   そういえば、昨日のコレ落としたでしょう。大事にしてよ。


――あぁ悪い悪い。ちゃんと持っていくよ。


   ねぇ僕に似合うかなぁ。




「すみません、行きましょうか」

僕は男の人にそう言って、彼の眠る引き出しを閉めてもらった。

鍵が閉まり、彼の永遠は現実と隔離される。

冷たさという形で吸収した彼の温もりを、僕は現実を見つめるために握り締める。

現実は遠かった。

彼との永遠の別れを強いられた現実は、僕に厳しいものだった。


茶色の腕輪を握り締め、黒い腕輪に別れを告げる。

僕に似合うと言った黒は、これからは彼の腕に巻かれる。

変わりに彼の茶色は、いつまでも僕のそばにあるだろう。

僕の最初で最後の我が侭で、彼に対する最初で最後の存在証明だ。



きっと、暢志は僕の友達だった。

友達であり、それ以上の大きな存在でもあった。



病院を出てから家までの道、僕の頭の中には彼しか浮かんでこなかった。

日常を過ごすのにあたって、暢志の存在はあまり大部分を占めていないと思う。

それは紛れもない嘘であり、過去の満たされていた自分の幸せボケなのだ。

明日からの生活に、暢志はもういない。

彼の煙草の煙の面倒を見なくて済むのかと思うと清々した。

そう、僕は彼にうんざりしていたのだ。






「・・・ちょっと、お兄ちゃん大丈夫?」


近くのスーパーの買い物袋がチラチラと揺れている。

その持ち主の声が遠く、遥か遠くで鳴っているのが分かる。

視界は白く濁って、徐々に見えなくなっていった。



顔をくしゃくしゃに歪ませて、声を押し殺して、とめどなく溢れる涙が口に入っていく。

腕で必死に顔を覆い、僕は道端でうずくまっていつまでも泣いていた。


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