おばあちゃんとの約束
トールさんは、話は終わりだと言って、お茶の片付けを始めてしまった。わたしが手伝おうとすると、それよりも荷解きをしなさいと言われてしまった。そうしたくても、トランクはなくなってしまったのに。
重い心のまま、屋根裏部屋に上がる。ドアを閉めたらほうっと深いため息が出ちゃった。勾配のある天井と大きな窓、少し小さいベッドとお父さんが作ってくれたわたしの机、本棚、おばあちゃんの火鉢、お母さんのオイルランプ……。自分の家じゃないのに、ここだけ実家のにおいがする。わたしはベッドに倒れ込んだ。
「ゆーうつ……」
汽車に乗った後にわたしの身に起こったことを知れば、お母さんはきっとカンカンに怒るに違いない。まずは突き飛ばしてきた人に怒るでしょう? それから、トランクを盗まれたことにはもう、とんでもなく怒る。それにそれに、トールさんのこと。
わたしはもう一度ため息をついた。
下宿先を探すのは大変だったのだ。ここマルマの町は古くからあるけれど、十年前くらいから急速に大きく発展したところ。帝都まで行かなくても、ここまでくれば欲しい物は何でも揃うと言われている。マルマに住むことが決まって、わたしがどんなに喜んだか! もう、狂喜乱舞したくらいよ。
お父さんが知り合いからボドレーさんのお宅を紹介されたとき、住むのが屋根裏部屋だと聞いてお母さんの目が厳しくなったの。マルマは都会だから、狭いタウンハウスの、屋根裏収納のことだと思ったんですって。でも、実際に来てみると、ボドレーさんの家は再開発地区の都会風のアパートが立ち並ぶ中、古くからの姿を忘れていなかった。
お母さんはひと目見てこの家に惚れ込んでしまった。昔からあることもそうだけど、屋根裏部屋とは別にコウモリ穴が作ってあったのもポイントだったんだって。わたしもそう、見せてもらったときからもう、ここにお世話になりたいと思っていた。
この屋根裏部屋は元は家主のアンおばさんの、おばあちゃんの作業部屋だったそう。ここで薬草を干したり、石鹸を作ったり、蝋燭を作ったり。まるでわたしのおばあちゃんみたいに。アンおばさんはその思い出を大切にしたくて、そっくりそのまま残しておいたの。今まで誰にも貸さなかったし、物置にもしなかったんだって。でも、わたしが魔女見習いだと聞いて、部屋を開けてくれたの。
作業台と戸棚はそのままに、わたしのための家具を運び込んで拠点は完成した。
「離れたくないなぁ」
こんなに素敵な、条件の良い部屋なのに、アンおばさんは足の骨を折って入院しているんだもの。そして代わりにいるのは、初対面のおじさん。トールさんはいい人よ。おじさんと言ってもまだ若いし、素敵な人。でも、お母さんとは会ったことがないのよね。それが問題なの。
短い間と言っても、一緒の家に暮らすわけでしょう? 本当なら、今すぐ汽車に乗って村に帰るべきなのよ。それともか、一泊お世話になってから村に戻るの。お母さんなら、そうしろって言うでしょう。でも、そうしたらトランクのことを知られちゃう。もう家から出してもらえないでしょう。トールさんに汽車の代金を送って手紙を出してさようならだわ!
不安はまだある。アンおばさんの足がどのくらい悪いのかわからないのよ。帰ってきたらわたしが支えてあげるんだけど、もしかしたら静養所に入るかもしれないし、トールさんがここに住んでアンおばさんの面倒を見るかもしれない。そうなったらそれこそ終わりだわ!
「あ~~~、もう、終わりよ! どうしたらいいの?」
できることなら黙っていたい。お母さんにはトランクのこともトールさんのことも内緒にして、『アンおばさんと楽しく暮らしています』って手紙を送りたい。でも、その手段はトールさんによって塞がれてしまった。ぜんぶ打ち明けた上で、どうやってあのお母さんを説得すればいいの?
トールさんは悪くないのに、恨んでしまう。トールさんさえ、黙って「うん」と言ってくれればいいのにって。お母さんも、あんなにうるさく言わなくたっていいのに。そう、思ってしまうけど。
でも、そうじゃないの。それは、よくわかってる。
「あ~あ! お母さんに「うん」って言わせる魔法があればいいのになぁ。おばあちゃんが教えてくれた、『お母さんが笑って許してくれるおまじない』はもう、あんまり効果ないんだもん。昔はあれでぜ~んぶ解決したのに」
『お母さんが笑って許してくれるおまじない』のやり方は簡単。まずはお花を摘んできて、花束にする。それから、おまじないをかける相手に気づかれないように近づいて、大きな声を出して飛び出すの。このおまじないのコツは驚かせること。後は、花束を持ってくるくる回って、とびっきりの笑顔で言うの。
『ねぇ、わたしの大好きな、可愛くて素敵なお母さん。お願い。許して!』って。
このおまじないをすると、お母さんは笑って許してくれた。これ、なぜかお父さんにも効果バツグンだったけど。ただ、これは何度も使えるものじゃないの。おばあちゃんも、そう言っていた。
わたしが旅立つ前におばあちゃんが言っていたことを思い出す。
「ラヴェンダー、今まで教えてきたおまじないはね、誰かのためになるものばかりだよ。でも、本物の魔女になろうと思うとき、きっとお前は悪い魔法にも出会うだろう。だから大切なことを教えておくよ」
「なぁに、おばあちゃん」
「人の心を盗んじゃいけない。心はとても大事なものなんだ。約束できるかい」
「わかったわ、おばあちゃん。わたし、約束する。人の心を盗んだりしないわ」