絵描きのトールさん
泣きじゃくるわたしを、彼は家の中に入れてくれた。わんわん泣くわたしの手からバスケットを取って、その手を引いて居間のソファに座らせてくれた。
毛糸のブランケットをかけてくれて、側にはバスケットを、そしてジョンにわたしを任せて自分は台所へと行ってしまった。
「ジョン〜〜!」
ジョンの首にかじりつくようにして、その毛並みを撫でたり、逆に舐められたりしていると、決壊していた心も落ち着いてくる。ショックの連続で、見知らぬ男の人の前で泣いちゃったことが恥ずかしくなってきちゃった。
どうしようかなと思いながらジョンをもふもふしていると、救急箱を持って彼が戻ってきた。
「怪我、してる」
「え? あ、本当……」
さっき盛大に転んだときの傷だ。ソファに座るとちょうどスカートから膝小僧がチラリと覗くから、彼にも擦りむけた傷口が見えたんだ。自覚するとジンジンと痛みが増していく。
「そこだけ? 他には?」
「……肘も」
「見せて」
わたしは一瞬、ためらった。けれど、彼の側で尻尾を振るジョンを見て信じてみようと思った。彼が誰なのか、どんな人なのかはまだわからないけれど、ジョンが懐いているんだもの、悪い人なわけない。
それに、彼の茶色の目は心配そうに細められていて、それが演技だとはどうしても思えなかった。わたしはブラウスの袖口のボタンを外して、肘までまくり上げた。
「……痛そう」
「痛いです。駅で転んじゃって」
「少し、染みるよ」
彼はそう言って跪くと、濡らして絞った布を当てて傷口を綺麗にしてくれた。瓶の中の薬を塗って、ガーゼを当てて、包帯で巻いてくれる。
その真剣な表情と、袖をまくっていた彼の意外と男らしい腕に、わたしはらしくもなくドキドキしてしまった。ううん、むしろ正常な反応なのかもしれない。だって、村にはわたしより小さな男の子か、お父さん以上のおじさんしかいなかったんだもの。
彼みたいな若いおじさんとこんなに近くで話すのは初めてだった。それに、彼のチョコレート色の肌……外国の人に出会ったのも生まれて初めて。さっきはわたしがパニックになっていて気づかなかったけれど、彼の言葉には確かに、不思議な響きがあるもの。
「これで、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
「ゆっくりして。お茶、持って来ます」
「あ、お、お構いなく!」
「ここ、いて。温かいの、心、落ち着くから」
そう言って彼はふにゃっと笑った。こんなこと、本人に伝えたら怒られるかもしれないけれど、目尻が垂れて可愛い。もしかしてこの人は思ったよりもずっと若いのかもしれない。男の人の年齢はまったくわからないけど、こんな笑顔をする人は、きっと三十は越えてない、はずだ。
「お待たせ、しました。どうぞ」
湯気の立つカップを持って、彼はすぐに戻って来た。白い陶器に映える濃い水色と林檎のような香り。すーっと鼻から吸い込むと気持ちがとても温かくなる。でも、ちょっと濃すぎる気もするけど。そう思いながらひとくち含んだお茶は、とっても渋くて思わずウッと詰まってしまった。
「大丈夫? ごめん、なさい、失敗した。僕、この茶葉使う、慣れるない」
「だ、大丈夫です。これ、カモミールティーですよね。もしかして、普段はあまり飲まれないんですか?」
「伯母の持ち物、よく知らない。ここ来たの、昨日」
「それじゃ仕方ないですよ。ずいぶん、急だったんですね」
「お茶、下げます。ごめんなさい」
困ったように笑って後ろ頭を掻くと、彼はお茶のカップに手を伸ばした。わたしはそれを慌てて止める。捨てるなんてもったいない! 濃いお茶だって、甘くすれば飲みやすいはずよ。
「大丈夫ですよ。良かったら、お砂糖とミルクをもらえますか?」
「……わからない、です」
「なら、わたしも一緒に台所に入ってもいいですか?」
半分押しかける形でわたしはボドレーさんの台所に入った。やかんのお湯の沸いた、暖かいお台所。キッチンテーブルの上にはぽってりと丸いティーポット、中身はたっぷり。
まごまごする彼をよそに、わたしは戸棚を開けて無事にお茶用の角砂糖を見つけ出した。ミルクもちゃんと冷蔵庫の中に入っていた。
「よかった、これで美味しく飲めますよ」
「助かります。ありがとう」
「カモミールティーが渋くなるのは、緑茶と同じでタンニンが含まれているからなんです。だから、お湯の温度を少し冷ましてから淹れると、渋みをある程度抑えられて、美味しく飲めますよ」
「おー、すごいです」
素直に感心したような声色と、ふにゃっとした笑顔。それを見て、わたしが一番最初に思ったことはなぜか、「この人の笑顔が戻ってよかったな」だった。初対面なのに、不思議ね。わたしは思い切って、ある提案をした。
「あの、一緒にお茶にしませんか?」
「えっ」
「見も知らないわたしを家に入れてくれて、お茶まで出してもらったのに、わたしまだ、あなたのお名前も知らないんです。だから、向こうでゆっくりお茶しながら、自己紹介からやり直させてください」
頭を下げてお願いをする。
アンおばさんがどうしてしまったのかも詳しく知りたいし、これからどうしたらいいのかも相談させてもらいたかった。
「あの……」
ためらいがちにかけられた声に顔を上げると、優しい茶色の目をわたしに向けて彼が微笑んでいた。
「よろしく、お願いします。僕、トール・スタンカ・アッバス、いいます。絵を描く人です」
「よろしくお願いします。ラヴェンダー・ハートフォートです。魔女見習いをしています」
「魔女? すごい! 本当に!」
「えへへ、まだ見習いなんですけどね」
「ぜひお話聞きたい。お茶しましょう。運びます」
「はい。ありがとうございます」
わたしがニコッとすると、トールさんがふにゃっと笑う。
頭を少し上に向けると目が合うくらいの距離感が、とても居心地が良かった。