SIREN
初投稿失礼致します。
故に、至らぬ点が多くあると思います。
気づいた方は是非ご指摘くださいませ。
もちろん、内容に関する批評もお待ちしております。
私は真剣に物書きを目指しております。
このサイトに自作小説を掲載したのは自分の現在の実力をはかり、自己研鑽を積むためです。
どうかご一読お願いいたします。
「今日も早く帰ってきてね。」
「今日は定例会議があるから、帰りは遅くなると思う。すまないね。……」
「そう。………」
珪太は切なそうな愛花の横髪を耳にかけてあげた。すると、ハの字になった眉と赤みがかった眼がやけに目につく。それをみると、いつも彼は言いしれない無力感に打ちひしがれるのだ。彼女は侵されている、いかにも記号的で皮肉めいた忌むべき呪いに。つくづく珪太はそう思う。しかし珪太にはどうしてやることもできない。痛みを和らげてやることも共感して寄り添ってやることも。だから、いつも彼は申し訳なさとやるせなさを感じながらドアハンドルを握るのだ。
「行ってきます。……」
「行ってらっしゃい。…」
愛花は珪太が行った後もしばらく玄関で立ちすくんでいた。それから何分くらい経ったあとだろう、リビングでガラスの破裂音がした。どうやらあの子[#「あの子」に傍点]がコップを床に落としたようだ。なけなしの愛情と親は子を守らねばならないという普遍的な道徳観に引っ張られて愛花はよろよろとリビングに向かった。ドアノブがいやに重く感じられる。
「大丈夫? 怪我してない?」
そう形式的に声を発しながら彼女はガラスの破片を拾いあげた。ふと子供の方を見てみると、首を左右に振りながら、右手を何かを探るように頼りなげに動かしている。その動作を見るにこの子は泣いてるようだ。声くらい出せよと思いながら愛花はそれを抱きかかえてやる。質感に反してしっかり感じられる重みが心底不気味だし、無機的な見た目をしているくせに一丁前に体温が感じられる。気持ち悪い。嫌悪の目でこいつを睨んでいると、糸で縫い付けられたボタンの目が愛花を覗きこんできた。瞬きもしない、潤いもないそんな目だ。この乾いた目は彼女の母性を砕き、絶望を味あわせるには十分すぎる代物だった。
「なんで私にはあんたがぬいぐるみに見えるのよ…。」愛花はその場に座り込んだ。
時は半年前に遡る。愛花は大事を取って出産予定2週間前から入院していた。
「なぁ、やっぱり生まれてくる子供は華月がいいと思うんだ。君とお袋の名前にも入ってる“はな”という字を使うし、男でも女でも成立する名前だ。」珪太はまるで世紀の大発見でもしたかのように鼻高々に言った。
「うーん、名前を決めるのは出産の後でもいいんじゃないかな。この子の顔を見てから決めたいし。」愛花は生命の膨らみに手をやりながら答えた。その手は若干震えている。
「それもそうか、でも第一候補は華月な。」
正直ないなと愛花は思う。それではこの子は私の二の舞になりかねない。この子には健やかに育ってもらうんだ。そこに強制も押し付けがましさもあってはならない。愛花の決意は固い。
「んじゃ、俺もう行くわ。明日も仕事あるし。名前の件しっかり考えといてくれよな。」そういうと珪太は病室を後にした。愛花の思惑なぞつゆ知らず、彼の中ではもう生まれてくる子供の名前は華月に決まっているのだろう。珪太には先のことなど考えず、自分本意に事を進めていくきらいがある。愛花は珪太のそんな所が嫌いだ。
誰もいなくなった病室で彼女は声に出して言ってみた。
「あなたは絶対に不幸にさせない、いかなる困難や障壁があなたの前に立ち塞がろうとも。私はあなたに哲学者のように慎重に、それでいて音楽家のように情熱的に愛を注ぐわ。」
愛花は自分の思いがけないポエミックなセリフに笑ってしまった。いつか読んだ恋愛小説に似たような表現があったと思う。
ドクリ、そのときお腹に重たい衝撃を感じた。下腹の奥がグーっと熱くなる。ふふ、待ちきれないの?と愛花は微笑みかけながらその部分をさすった。
一週間後の夜、予定より早く陣痛がきた。うぐああぁあっ、あまりの痛みに愛花はうめき声を上げてしまう。生理痛などまるで比にならない痛みが愛花を襲う。いきんでしまったら、拍子に恥骨が砕けてしまいそうになるので思うようにいきめない。このような苦しい状態が十時間続くのだから、出産はたまったものではない。他の臓器などお構いなしに子宮が暴れ回るような感触に思わず、愛花は昆虫が羽化する時のように、この子は子宮壁を掻っ捌いて生まれてくるのではないかとハラハラした。
あれからたくさん汗をかいた。たくさん泣いた。おかげで喉はカラカラだ。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ。」と助産婦が生まれた赤ん坊を顔の横に近づけてきた。
この日のために何度シュミレーションしたことか、自分の元に生まれ落ちたこの一粒の生命に対する感謝と誓いの抱擁の……。しかし、愛花はその子を抱いてやることができなかった。生まれてきた子供が思い描いていた容貌とあまりにもかけ離れた見た目していたからだ。もちろん、体液に塗れ、醜く膨れた多少かわいくない[#「かわいくない」に傍点]形で生まれてくるということは承知していたが、目の前に差し出されたものはそれよりも気の毒で汚れていた。まるで今さっき雨に降られてきた野良猫のように見えたし、目を細めてみればボロ雑巾にも見えた。それを見ていると、愛花はだんだん気が遠くなり、失血過多も相まってか気絶してしまった。遠くなる意識の中で彼女は気味の悪い懐かしさを感じていた。
「何してるの‼︎」
突然の母の怒号に愛花は身を強張らせた。拍子にその幼い手には大きすぎる裁ちバサミを落としてしまう。ガッシャーン、床に少しキズをつけてしまうような勢いで。
そのとき、不意に満身創痍のこのぬいぐるみが笑った気がした。
「なんでこんな事をしたのか説明しなさい‼︎」と詰め寄る母に愛花は心底驚いた。
理由も何も私がこんなことをしたのはママのせいじゃない。私の髪なんかといてくれたことのないママがこいつのほつれた所を直してた。私の頭なんか撫でてくれたことないのにこいつの頭はよく撫でるんだ。なんで私がこんな綿袋なんかに負けてしまうのか理解できない。思う存分異議申し立てをしたいところだが、彼女の幼いボキャブラリーではどたい無理な話だったので、彼女は諦めて「ごめんなさい。」と謝った。それではまだ足りないようで、この母親は説教を続ける。
「クマちゃんがボロボロじゃない⁉︎アンタなんか異常者よ‼︎私の育て方が悪いの⁉︎何とか言いなさいよ‼︎」
その手は綿がハミ出た部分を覆うようにして奴に置かれていた。
次は浴槽に突っ込んでから、イガイガの針山にしてやる。こんなやつとびきり可哀想な見た目になってしまえばいいんだ。まくしたてる母親をよそに愛花はそんなことを思った。
うーん、頭が重いし、目の周りがとても熱い。愛花は頭を押さえながら身を起こした。どうやら夢を見ていたようだ。でも、どうして今あんな夢を…。
「愛花‼︎、やっと起きたか、お前産後出血が酷くて手術したんだぞ。怖かったー。あっ、ナースコール押さなきゃ。」珪太は安心して堰が切ったようにそう言った。
どうやら寝ていた間、彼は愛花のそばにずっと寄り添っていてくれたらしい。目の下にできた隈がそれを物語っている。
「私どれくらい寝てたの?」
「丸二日。赤ん坊抱かせようとしたら、急に倒れたから助産師さんビックリしてたぞ。まぁ、何はともあれ母子共に無事出産を終えれて良かった。改めて言わせてくれ、俺たちの子を産んでくれてありがとう。」
慶太は愛花を抱きしめた。しかし、愛花は手放しには喜べない。気がかりなことが一つあった。
「生まれてきた子って、その…未熟児とかじゃなかった……?」
「体重4280gで五体満足の健康児だよ。Big Babyなんて看護婦さん言ってたなー。なんでそんなこと聞くの?」
「いや、なんでもない。」
そんなはずはない、あれは確かに人間ではなかった。毛で身体中が覆われていたのだ。それがへたって自分の血液を滴らせているのだから気味が悪くてしょうがない。きちんと確認しておかなければならない、自分の子供の姿かたちを。
「そんなに心配なら見てみるか?ベビールームで眠っているのをガラス越しに撮ってきたんだ。ほら、真ん中の、小さく握り拳作っている奴、最高にキュートだよなー。」
珪太に言われ、写真を見てみると、クマのぬいぐるみにピントが合っていた。愛花の顔が引きつる。きっと、看護師が空きのベッドを見分けやすいように置いているのだろう。愛花はそう思うようにした。
「真ん中に写っているのって、クマのぬいぐるみじゃない。私の子[#「私の子」に傍点]はどれ…?」と震えた声で聞いてみる。
「どれってこいつだけど…。」
やはり、珪太はぬいぐるみを指さした。
「なに⁉︎ふざけてるの⁉︎早く私の子[#「私の子」に傍点]を見せなさいよ‼︎」愛花は珪太に怒鳴った。
面食らった珪太は少し顔を強ばらせて返した。「何もふざけてなんかないよ‼︎第一、この写真にクマのぬいぐるみなんて写ってないじゃないか‼︎」
愛花は認めたくなかった。しかし、奇妙な夢、毛むくじゃらの赤ん坊、珪太との話の食い違い、不本意だが認めざるを得ない。奴が過去からやってきたのだ。よりにもよって私の中から、お腹の子に成り代わって。体の中で子宮が自嘲気味に笑った。この絶望は初潮のとき味わったのと似ているな、愛花は酸欠気味の脳味噌でそう思った。
「ちょっと、落ち着いてください。病院の中ですよ‼︎」
二人の口論を聞いて看護婦が割って入ってきた。珪太が申し訳なさそうに応対しているのを愛花はスクリーンで見ているかのように呆けながら見ていた。
「えー、つまり奥さんには赤ちゃんを正確に認識することができないと…。」
退院後、すぐに赤ん坊を義母に預け、愛花は有給をとった珪太と一緒に病院に来ていた、産婦人科ではなく精神科に。
「そうなんです。それも私だけにあの子がクマのぬいぐるみに見えるんです。これはなんという病気なんですか?私の他に事例はあるんですか?」
その初老の医師は老眼鏡をズラして目頭をポリポリ掻き、ため息混じりにこう言った。
「よく聞いてください奥さん、世界の数多ある事例にあなたの症例を照らし合わせて、同じ分類に落とし込むことは容易です。理不尽に蝕むこの苦痛は自分だけのものじゃなく、痛みを共有できる相手がどこかにいる。そう意識することは病と闘っていく上でとても効果的なことです。あくまで普通の疾患であるならばね。しかし、今、あなたに必要なのは安心などではなく、進歩なのです。子供に対する能動的な母性愛なのです。決して独り善がりになってはいけません。」
愛花は戸惑った。思いがけず自分を責める言葉が飛んできたからだ。精神科医師というものはもっと患者に寄り添ってカウンセリングしくれるものじゃないのか。なのに、この医者ときたら励ましの言葉をかけるどころか自分の勝手な講説を披露して気持ちよくなっている。医者の風上にも置けない。愛花ははっきりそう思った。
「なんですか、その言い方は‼︎まるで愛花があの子をきちんと愛していないみたいじゃないですか‼︎愛花がこの症状にどれほど心を痛めているかあなたに想像がつきますか⁉︎なんて思いやりのない発言をするんだ‼︎」珪太が普段は優しいまなじりを鋭くさせてそう言った。
愛花は激しいときめきを感じた。自分のためにあの穏やかな珪太が他者に反論してくれたのが嬉しかった。この人の夫になれて良かった。このような目に見えて形のある愛にこそ真の価値がある、愛花は心からそう思った。
すると、医師は霜が降りたその頭を乾いた音を立てて掻き、しばらく沈黙したあと口を開いた。「とにかく、この現象は薬や手術などでは治りません。症状ではなく現象なのですから。これだけは肝に銘じておいてください。どれほど絶望を感じても、どれだけいやになってたとしてもその子と絶対に距離を取らないこと。これは物理的にも精神的にもです。子供の愛に真摯に向き合ってください。でなければ、あなた方家族は離れ離れになってしまう。これは医師としてではなく一人の人間としてのお願いです。」
愛花はうんざりした。今度は医者の範疇を越えてアドバイスをしてきたか、元も子もない。呆れて珪太の方を向いてみると彼は肩をすくめ、悪戯っぽく笑いかけてきた。ああ、幸せだな。二人でならどんなことだって乗り越えられる。私たちが離れ離れになんてなるわけがない。この上ない幸せを感じながら愛花はそんなことを思った。
愛花は半年前の浮かれた考えを撤回したくなる。この生活が始まってからと言うものの全てがメチャクチャだ。まず、このぬいぐるみは声を出さないのだ。せめて我が子の声を正常に聴けたのであれば愛花の中にも少しは情も生まれたのかもしれない。加えて、こいつはこんなメルヘンな見た目に反して排泄をする。玉のような尻尾の下からマリマリと生々しい大便をするのだ。処理をするのも不快だし、布一枚ひん剥けば自分たちと同じように内臓が配置されていて、それら一つ一つが赤黒く呼吸しているのが想像させられて一層気持ち悪くなる。そして何より耐えがたいのはそんな異物を珪太が宝物みたいに可愛がっているということだ。
我が家にこいつがやってきてから珪太からの愛が少なくなっている気がする。あのとき精神科で私を守ってくれた珪太はもう居ないのかもしれない。また、私なぞ蚊帳の外で「華月」と呼んで世話をし出すのだ。愛花の名前から取ったという名前を使って。
そもそも、愛花は「愛花」という名前が嫌いだった。愛らしい花、その子がどう育つか想像もしないで付けた母親の呪いにも近い願望のこもったゴテゴテな名前だと思う。不幸にも、この名前にそぐわないルックスに生まれてしまった彼女はことあるごとにからかわれたし、腫れぼったい目と太眉の日本顔を皮肉ってラブフラワーなんて呼ばれていた。無遠慮にからかう男の子達、周りでクスクス笑っている女の子達、腫れ物扱いする教師、全てが昨日の事のように思い出される。全てはこんな名前をつけた母のせいだ。
母はいつも一方的な人で、偏った愛のかたちを信仰する異教徒だった。相手の気持ちもちっとも考えずに自分の思うがままの愛をぶつける。例えば、娘に習い事を多くさせることのような、今など顧みず先走った愛が本気で正しいと信じ切っている人だった。もし、その大暴投をキャッチできず返球できぬものなら、すぐにヒスを起こす。そんな母を物心ついた頃から軽蔑していた。
だから愛花は最近ではこのぬいぐるみを「華月」と呼んでいる。独り善がりな愛を発信し続けた母と珪太の愛を独り占めする我が子。愛花には二つが妙に重なって見えたからだ。
それに、時々「華月」と呼んでこいつをあやしてやると、そこに侮蔑が含まれているのも知らずに珪太が涙ぐんで頭を撫でてくれる。こんなままごとで愛が享受できるのだから安いものだ。
珪太は定例会議が終わると、上司からの飲み会の誘いも断って急いで家路についた。最近付き合いが悪くなったことを上司たちは快く思っていないようだがそんなことは珪太には関係がなかった。何より家族だ。今朝の愛花の血色の悪い唇と髪のパサついた感触を思い出す。認識できない異常と目に見えて現れる愛花の疲弊がチグハグに珪太を苛むのだ。最近では名前で呼ぶようになり、華月に恐れを以て接することはもう無いようだが、辛いことには変わりないだろう。早く帰って支えてやらねばと、珪太は歩を早めた。
ビルの谷間を縫って吹き荒れる風が珪太の頬を鞭打つ。足元で跳ね回っている落ち葉はこの自然の及ばないオフィス街のどこからやってきたのだろうか。病的なまでに整っているビル壁に反射して、風が不規則に旋回しているのが珪太には象徴悪のように思えたし、また、これから自分たちに起こる災難の凶兆にも感じた。
ドアを開けると珪太は目の前の光景に戦慄した。視界が目玉の淵からどろりと滑り落ちるような気がした。
華月が床に這う体勢で器に入った離乳食を溺れるように食べているのだ。その黄色い容器がいやに挑戦的だ。熱くなった体に冷や汗が一筋も二筋も流れるのがはっきりわかる。なんの疑問も持たず食事を続ける姿に耐えられず、華月を抱き抱え、犯人であろう人物の名を叫ぶ。
すると、愛花は珪太の後ろから駆けてきて黄色い器を拾い上げてこう言う。
「あらー、私がトイレに行っている間に落っことしちゃったのね。怪我はなさそう。よかったわ〜。」
目を針金みたいにわざとらしく細めたその笑顔は珪太の心をどうしようもなくざわつかせた。怯まず、珪太はこう言う。
「そんな嘘が通る訳がないだろう。なんてことをするんだ。これじゃ、まるで…犬みたいじゃないか。」
そうすると、愛花は張っていた顔の筋肉を全て弛緩させ、煙吹くみたいにこう言った。
「犬ね、間違ってないわ。一日中、声も出さずおたおたと動き回るだけ、まるで人間に見えない。人間以外の全ての動物は尊ぶ必要のない畜生だわ。違う?」
珪太は出来るだけ強く最愛の妻の頬を打った。
「しっかりしろ。あの医者の言ったとおりじゃないか。お前はこの子を愛してなんかいなかったんだな。」
愛花の中で、珪太が愛を注いでくれる人から愛花を否定する敵に変わった。ああ、私の周りはいつもこうだな。思わせぶりに誘惑して、大事なところですぐ裏切るのだ。
こういうとき、愛花は割れてしまった陶器を連想する。バラバラになってもう元に戻ることはない。
そう思うと急に悲しくなって、いじらしい声でこう言った。
「何よ…。本当の私なんて知らないくせに…。」
「ああ、何も知らなかったようだよ。君には何も教える気がないのだから。君のその秘匿性は慎ましさの裏返しによるものだと思っていた。けど、俺が見誤っていた様だね。君は自分の中の怪物を隠すのに必死なだけだったんだ。」と珪太。
小説の登場人物のように淀みなく自分のことを看破する珪太の暴露によって愛花はべらぼうに恥を感じた。それは寝入りたくなるような生やさしいものではなく、思わず報復したくなるような激しい恥辱だ。
考えるより先に体が動いていた。黄の容器を持った手を大きく振り上げ、ぬいぐるみ目掛けて、筋肉の緊張を肩から指先にかけて徐々に解いていく。愛花にはこの一連の動作がコマ撮りを見るときのように刹那的に感じられた。
手から容器が離れる直前、愛花の脳に激しい熱が走った。怯んで容器の軌道がやや右に逸れる。脳に溶けた鉛が溜まっているみたいだ。堪らず、愛花はその場に蹲った。珪太が急いで駆け寄ったきたのだが、その手には華月が抱かれている。ふとそちらに目をやると奴は首を傾げながら見つめてきた、抜かりなく、悪辣に。どうしようもない不安に抱かれ、脳の鈍痛はさらに増す。とうとう、愛花は恐ろしくなって家を飛び出してしまった。
家を出て何時間くらい経ったであろうか、当て所なく歩いていると普段見かけない農道に出た。その空間はこの発展途中のニュータウンの中では随分イレギュラーな風に思われた。そんな雰囲気も相まってか、道端に誂え向きに植っている草木たちも闇に紛れて討論しているカエルたちもよってたかって愛花を非難しているように思えた。
決まりが悪く、沿道を歩いていると、地から垂直に翼が立っているのを視認した。白と黒の羽を撒きながら、半身がひしゃげたハトが地に臥せっている。大方、飛び立とうとする前に自動車にでも轢かれたのだろう。まだ風を掴もうと翼を動かしている姿が嘆かわしい。
愛花はそれから目を離せないでいた。この不均済なハトの形を見ていると自分が化粧台の前に座っている時かのような排他的な日常感を感じた。この瀕死の鳥は私のためにいるのだ、愛花はそう思わざるを得なかった。
そもそもハトという動物はなんだろうか考えてみた。平和の象徴、幸せを呼ぶ鳥、世間一般のイメージではそうだが愛花の中では違う。野性味も忘れ、人間に媚びへつらい、その間抜け面を勘違いされて、やれ幸福だ、やれ平和だと持ち上げられている畜生に過ぎない、少なくとも愛花はそう思う。だってそうだろう、わざわざ人の多いところでたむろしてエサが撒かれるのを待ち呆けている。そんな野生動物他にいるだろうか。愛玩動物でも無いくせに浅ましくも人からの寵愛を受けることに貪欲であるしと、自分は何も成さないのに乞うことには必死でいる様が汚らわしい。
だから愛花がハトから目を離せないのはカタルシス的要因によるものなのかもしれない。しかし、それは違うことを愛花はそろそろ気づいていた。この様を見ていて感じるのは爽快感ではなく、果ての無い焦燥だ。コイツを見ていると、帰りの会でその日悪さをした子が怒られているのを見ているような、合わせ鏡を見ている時のような、途方もなく自分を覗いているような心地になるのだ。つまりは、同族嫌悪だったのだ、ハトも、ぬいぐるみも。
しばらくすると、ハトの羽が地についた。どうやら事きれたようだ。
愛花は夜空を見上げ、大きく息を吸った。肺の中が澄んだ空気で満たされる。
「もう私は迷わない、私の中の怪物はもう死んだ、臍帯で絡まった[#「臍帯で絡まった」に傍点]私の[#「私の」に傍点]試練[#「試練」に傍点]はもう終わったのよ。」
言葉がそのまま星屑になって空に上っていくのがわかる。
辺りはもう静まり返っている。もう誰も愛花を責めるものはいない。そうとなれば、愛花は家へと歩を早めた。
「CIP(対児性認識障害)に関する見解」より一部抜粋
これより、対児性認識障害(以下CIPとする。)について論述する。
CIPとは、出産直後から数年にかけて見られる、その乳幼児の母親が罹患する病で、乳幼児の姿形を正常に視認できなくなる症状を指す。また、これは母親の過去の心的外傷や偏った精神状態に起因するものだと「精神疾患大全」に定義されている。
この症状がはじめて確認されたのは、1974年、フランス、パリに住む看護師の女性で、彼女には我が子が老人のように肌にハリがなく皺が刻まれた姿に見えたと言われている。当時、この件は仕事に追われ充分な育児が出来ないことへの母の過度な罪悪感によるものだと診断された。このように、母に写る子の像は、母親自身のコンプレックスに依存すると考えられている。したがって、CIPは育児に対して過敏になった母親が発症するイニシエーション的な病だと考える医者はいまだに多い。
(中略)
日本でもこの症例も少なくなく、私も三度この病気に苦しむ患者を受け持ったことがある。実際に、患者と触れ合って私は感じたことがある。それこそがこのレポートを書くに至った理由であり、先述のことに対する異論である。私はCIPは精神疾患ではないと思う。
根拠はある。CIPは脳や末梢神経系の病気の中でも物体を眼では見えているにも関わらず、認識できないという視覚失認に分類される。通常、視覚失認を患っている患者は視覚情報を処理する脳の部位である後頭葉の活動が貧弱なのだが、私の持ったCIP患者のCTスキャンの結果では後頭葉は正常に働いていると観測された。しかしある状況のときだけは違った。それは患者の近くに乳幼児を置いたときである。具体的に言うと、患者の半径150m以内に子供がいるとき、壁やガラスなどの遮蔽物を越えて母親に何らかの作用を及ぼすようだ。
また、CIP患者が産んだ子供にはある特徴がある。新生児時の体重が平均体重よりも40%ほど重いのだ。これほど重いと周りの乳児よりひとまわり大きく見えるはずなのだが、彼らはそうではない。その代わり、彼らの臀部は異常に発達している。その膨らみは筋肉で構成されているのでなく、肉でできた節が洞をつくっているのだという。これを乳児特有の一時的な骨格不良や筋肉の異形配列と片付ける医者は多いが私はそうは思わない。道徳の観点上解剖もできないので、こればかりは予測の範疇を出ないのだが、彼らはまだ人類が知り得ない器官を持っているのだ。つまり、私が言いたいのは、CIPとは母親の半狂乱による精神疾患ではなく、今示した太腿の未知の器官による生理現象なのではないかと言うことだ。
では、なぜこのような器官が発達したのだろう。これはあくまで空想科学の域を出ないのだが、ネクレクト、共働きによる子供の孤食の常態化、核家族の増加などの近年よく見られる家庭問題にわだかまりを感じながら大人になった親世代のある種の被害者意識がそうさせているのではないかと思う。どう言うことかというと、親世代の彼らが子供だったとき感じた親に対する不信感や観念がそのまま遺伝子に反映されたという予測である。突拍子もない話であるのは承知している。では、なぜ先述のフランスの看護師は赤ん坊を老人だと認識したのか。罪悪感を感じていたのであれば、もっと後ろめたいような像が現れるのではないか。老人であることはきっと彼からのメッセージだったのではないかと思う。老人に成り代わることで、彼女の仕事場でやっているように手厚く世話をしてもらおうとしているのだ。彼が無意識でこれをやっているのか母親の潜在意識に作用を及ぼしていたのかそれはまだ不明だが、きっとCIPとは母親に因るものでなく、子供の子供による子供のための警告なのだ。
この作品は「シレン」とも「サイレン」とも、どちらで読んで頂いて構いません。