第7話 幼怪
夜を駆ける。向かうは悲鳴の発生地点。
音の動きに敏感なアッシュなら、一度その場を離れても音の発生地点を把握する事ができ、最短距離で悲鳴の発生地点まで走ることができた。
家屋の屋根を、アパートやマンションの屋上を……兎のように跳ねながら真っ直ぐ突き進む。そうするだけの身体能力があるのだから、緊急時にわざわざ歩道を走ってやるわけがない。
そうしてたどり着いたのはとある公園。滑り台に鉄棒にブランコに砂場。どこにでもあるような普遍的な公園……のはずだったのだが、どうにも様子がおかしい。
風がないわけじゃないのに、公園の付近にだけ異臭が立ち込めていた。
公園へと足を踏み入れれば、より一層臭いは強まる。
この異臭に覚えがないわけではない。寧ろ一時期よく嗅いでいたから今では懐かしくすら思えるが、でも決して尊い思い出の類いにしてはいけないものだ。
これはヒト種に害意を持つ存在──妖怪が発する匂い。それも低級妖怪と呼ばれる、塵のように多く存在しているものだけが発する匂いだ。
中級や上級となってくると、この異臭を抑える術を身に付けるため、異臭を発する妖怪は経験を積めるほど長く生きていないとされ、低級と呼ばれている。
異世界──ヴァナヘイムを発祥とする魔物と、地球──アースガルズに元々存在する妖怪。
この二つの違いを簡単に説明するとすれば先にも言った通り、発祥地、出自だ。他には、魔物が魔力を使うのに対して、妖怪は妖力や霊力と呼ばれる、魔力とは別の力を使うことだろう。
ちなみに、一般的には魔物や妖怪などの存在は纏めて『モンスター』と呼ばれている。たとえそれが、幻獣や精霊の類いであってもモンスターと呼ばれる。
アッシュは強まっていく異臭と、歩みを進める度にだんだんと近くに見えてくる異形に顔を顰める。
その異形は砂場に座り込んでおり、可哀想になってしまうほどに痩せ干そっていて、涙を流しながら小学生ぐらいの少女と思われる子供を貪っていた。
アッシュの脳裏に過るのは恐怖や義憤などの感情ではなく、後悔だった。
あの時、夜道に怯えるクレアを強引に引っ張ってでもこの場所に駆け付けていれば、あの少女は助かったのではないかと。流石に無傷とはいかなかっただろうが、多少の怪我ならクレアが治療できたはずだし、やはり無惨に貪られてしまうことはなかったのではないかと。
飛ぶ鮮血を目にしながら意識の奥でそう思考していた。
……色々と考え込んでしまったが、とにかく人間に害を及ぼした妖怪を目にしてしまった以上、野放しにしておくことはできない。
アッシュは白い渦──アイテムボックスから一振りの剣を取り出して鞘から抜き放った。月の明かりを受けて銀色に輝く刀身を低級妖怪に向けて構える。
殺意を感じ取ったのだろう。低級妖怪は少女の体を頬張ったまま振り返った。辛うじて人の形をしたものが正真正銘の人間を一生懸命頬張っている様子はかなり不快だった。
貧相な体と目の端から溢れる涙に憐憫の感情を抱いてしまうが、元々そう言う体型だったのだと、頬張りすぎて涙を流しているだけなのだと考えればもう躊躇いはなくなった。
怯えたような表情をしている妖怪に静かに歩み寄り、アッシュは剣を振るう。妖怪の胴体と頭部は切断され、妖怪の口から溢れ落ちた少女の体の一部が、妖怪の体と同じくして砂場に落ちる。
遣る瀬ない気持ちだけがアッシュに残された。あの時こうしていればと悔やみ、少女の悲鳴が耳の奥で響いていて、妖怪への哀れみが湧いてきて、自分が何を思って何をしたのか分からなくなってしまう。
そうして下を向きながら立ち尽くしていると、視界の端に蠢くものが見えた。
顔を上げれば再生していた。
妖怪が、少女の肉体が。
「え……?」
妖怪だけならまだ理解できたが、なぜ少女の肉体まで再生しているんだとアッシュは声を溢す。妖怪より少女の再生速度の方がはやいのも、アッシュの混乱を加速させる原因の一つだった。
無から生まれるようにして構築される肉体はやがてそれをやめた。
衣服こそボロボロになっているものの、肝心な肉体は元通り。妖怪に咥えられている時は分からなかったし予想することもできなかったが、元の姿に戻った少女はとても可愛らしかった。
夜に沈みそうなくすんだ白髪、蜂蜜色で月のように丸い瞳。公園に数本存在する街灯に照らされた顔色は死人のように真っ白だ。
一瞬この少女は妖怪ではないのか、これは共食いの現場だったのではないかとアッシュはたじろぐが、全体的に真っ白いながらも血の気の良い頬を見れば、この少女が妖怪の類いではないのだと知る事ができて胸を撫で下ろした。……だが、妖怪や幽霊ではないにしろ、恐らく純血の人間ではないだろう。異能力の類いかも知れないが、どう考えてもあの再生速度は亜人や魔人のそれだった。
「……ようやってくれたのぅ、われェ?」
「え……?」
アッシュを視界に入れるなり開口一番に少女はそう言った。
どことなく……いや、明らかに怒気を帯びたその声色に、やはりアッシュは困惑するしかなかった。
「せっかく儂がこの、幼く尊い身を捧げてこの妖怪を救ってやろうとしておったのに、お主はそれをよくもまぁ、あっさりと邪魔してくれたのぅ? どう落とし前つけるつもりかえ?」
「……あっと、えっと、空腹で死にそうだった妖怪に自ら食われにいった……ってことですか?」
「おう。儂は優しく健気な少女。弱ってる小動物を見つけたら救いの手を差し伸べずにはおられんのでな。……まぁ、そんな儂の崇高な自己犠牲もお主のせいで無意味と化したわけだ」
ボロボロの衣服から白い肌を晒し、それを隠す様子もない少女。そんな少女の言葉に驚き呆れてアッシュは絶句する。そんなアッシュに「おい、どうするつもりなのかえ?」と少女は立ち上がって詰め寄る。
近付いてきた少女にハッとするアッシュだったが、視線を下に下げれば無垢の象徴が見えてしまいそうなのでアッシュは視線を下げる事ができず、視線を彷徨わせる。
そうすれば、再生途中ながらも立ち上がって逃げようとする妖怪の姿が視界に映った。
たとえ少女が自分の身を捧げていたのだとしても、妖怪は妖怪にすぎず、しかもこのタイミング……子供が行方不明になる事件が多発している今だ。人気のない公園で少女を食らっていたこの妖怪がこの事件に無関係とは思えなかった。
「おっと、どこにいくつもりだ? まさか逃げるつもりじゃあるまいな? ……ふむん、安心せい、あの妖怪はお主が気にしておる事件とは無関係よ。痩せ細ったあの体を見れば分かるだろうが。幼子を攫って食らっておるのならもっと肥えておるはず……違うか?」
「……それも……そうですね」
心を読んだかのように疑念に答える少女に言われて、確かにとアッシュは納得する。なぜ分かったのかとアッシュは疑うことをしない。
少女は一旦アッシュから距離を取って再び言う。
「ふん。それで、どうするのだ? 儂の命を削った自己犠牲を無駄にしたんだ。儂の頼みの一つや二つ聞くぐらいしてもらわんと釣り合わぬよなぁ」
「頼みを聞くのは別に構いませんが、その前にあなたは何者ですか? 普通の人間ではないみたいですが……」
相手が何者かが分からなければ迂闊に行動することができないから、アッシュは少女に何者なのだと問う。
「儂か? 儂は人間どころかそもそもヒト種ですらないな。名は明かせぬが、儂は妖怪。それも凄く強い妖怪よ」
凄いだろうと少女は胸を張って言うが、そんなに凄い存在にはどうしても見えない。小学校低学年ぐらいの身長だからか、自分で凄い妖怪だと言い張っているからか、微妙に威厳を感じられないからかは分からないが、へぇそうなんですか、と簡単に信じることはできない。
だが、再生能力や人間離れした容姿などを見れば、ひょっとしたら、と思ってしまうが、やはり人間味の強さを感じてしまうので信じられない。
「あなたがもし妖怪なのなら倒さないといけなくなってしまいますが、良いんですか?」
「ほう、人間の分際で儂を斃すとな。くくっ、身の程を弁えず分不相応な幻想を抱く若者は微笑ましいものだ。まぁどうしても儂を斃すと言うのなら相手をしてやるが、今の儂は不安定な肉体故に力加減ができぬでな、死は覚悟しておくといい」
不思議と少女が凄めば、敵意も害意も殺意も向けられていないのに、体がぶるりと震えて萎縮してしまう。
そうして小学生にしか見えない少女に怯えている自分に気付き、自分が弱いのか少女が強いのかを真面目に考え込んでしまうが、相手を低く見て良いことなどないために、アッシュは取り敢えず少女を格上と仮定して対応することにした。
「まぁ、儂は温厚で友好的な妖怪だから多少傲慢な発言は許してやるが、だが気を付けろよ若造。間違っても他の妖怪の前でそのように粋がるでないぞ。他の奴らは血気盛んで人間など餌としか見ておらぬからな」
「分かりました、気を付けます」
「おう。もう儂への質問はないか?」
「一先ずは」
「なら、早速儂の頼みを聞いて貰おうか。……儂の頼みは二つだ。まず、温かい飯を腹一杯食べたいからお主の家に住ませろ。次に、儂はお主に興味が湧いた、付きまとわせろ。……これだけだ。簡単だろう?」
二つ目の頼みだけならまだなんとかなっただろうが、一つ目の頼みとなると、家族の意見もあるために自分の勝手で決めることはできない。アッシュはどうしたものかと考え込み、何度も『あなたは本当に妖怪なんですか?』と確認してから、取り敢えず連れて帰って家族と相談することにした。
「お主、人間……いや、妖怪不信もいいところじゃな。なぜそこまで儂を人間だと思い込みたがる?」
屋敷の門の前に着いたところでアッシュの疑いっぷりに呆れ果てた少女がそう声をかける。
「言葉遣いと雰囲気こそ変わってますけど、あなたが人間と変わらない姿をしているからですね。顔色を見る限り血色も良いですし」
「なるほどのぅ、お主は儂の妖力を認識できておらんのか。どれ、儂から五メートルほど離れてみよ」
アッシュは少女の言う通り距離を取る。変化は劇的だった。
なぜ今まで分からなかったのか疑問に思うほどに寒気がした。アリティージ山で嫌と言うほど味わった妖力の波が濁流のように押し寄せて、刺すような威圧感は砂漠の日照りのようにアッシュの喉を干からびさせる。
口内に僅かに残った唾液を飲み込んでアッシュは言葉を発した。
「あ、これ不味いんじゃ……」
「畏れ戦け若造よ。これが偉大なる儂の実力よ。ちなみに、本調子の儂はこんなものではないぞ?」
心配するのは自分や家族の安否などではない。怯えるアッシュを見て胸を張っている目の前の幼い妖怪──幼怪の安否だ。
結界をすり抜けて強力な妖力を溢れさせているならば、それを感じ取った家族の誰かがやってくるはずで、話し合う場すら設けられずこの妖怪の少女が討伐されてしまうのではないかと心配していた。
そんなアッシュの想像通り、玄関の扉が開かれた。
玄関の扉から姿を現したのは、人間のものと思われる腕を手にした父の姿だった。父が手にしているものを見てアッシュはまたもや絶句するが、頭のどこかではそれが何か分かっていたし、父ならば問答無用で殺したりはしないだろうとも理解していた。
「な……っ!?」
「子供の妖怪? ここに何かようかい?」
「父さん……」
「……な、なんだお主は……に、人間よな? なのになぜお主から魔力やら妖力やらの気配がする!?」
くだらないダジャレに呆れるアッシュと、取り乱す少女。
「で、なんだ、拾ってきたのか?」
「えっと……なんて言うんだろう……」
「まぁ、結界の効果を受けてないってことは敵意を持ってないってことだ。取り敢えず中で話そう」
屋敷に上がるなり少女はアッシュにしがみついて離れない。客間の椅子に座る際にもアッシュから手を離す事はせず、アッシュが事情を説明している間も握力が弱まることはなかった。
「なるほどな。そいつに敵意がないのなら俺は構わない。妖怪一人増えたところで金に困ることもない。それに、こう言う居候云々に関して俺はあまり強く言えないから、他の奴らがどう言うかだが……まぁ、そっちも大丈夫だろ。フレイア達なら娘が一人増えたような感じで喜ぶだろうし、環奈達にしても妹が一人増えたような感じで可愛がるんじゃないか?」
「父さんはそうだろうけど、母さんや姉さん達もそんな簡単にいくかな?」
「多分大丈夫だろ」
適当なことばかり言う父に苦笑いを浮かべるアッシュ。これがこの家の大黒柱だと言うのだから不安でしかない。
そんなアッシュに少女が耳打ちする。
「あれがお主の父親なのか? お主は養子だったりせんのか?」
「僕が養子ってことはないと思いますけど、何でそう思うんですか?」
「だっておかしいではないか。お主は普通の人間だと言うのに、あの者からは魔物の魔力や妖怪の妖力、他にも得体の知れぬ力を感じる……どうしてもお主とあの化け物が親子とは考えられん……」
チラチラと秋を見ながら少女はアッシュに耳打ちする。けれど、秋を前にすれば耳打ちなど無意味でしかなかった。
「俺とアッシュは間違いなく親子だ。俺から魔力やら妖力やらが感じられるのは、俺の固有能力が理由だろうな」
「ひぃっ、聞かれておった……!」
「父さんは色々とおかしいので、耳打ちしたりとか変に隠し事をしない方がいいですよ。家族などの親しい相手には使わないですけど、父さんは人の心とかも読めてしまいますから。読まれたくなかったら自分で話す事を選んで話すべきですよ」
「……おう。そうしよう。……その……失礼なのは分かっておるが、固有能力について教えて貰うことは……可能かえ?」
秋自身が固有能力が理由だとは言うが、それが本当かどうかによって今後の身の振り方が変わってくる。秋とアッシュが本当に肉親だと言うならばアッシュへの接し方も考え直さなくてはならないし、魔力も妖力も使える化け物に媚を売る必要も出てくる。それに、危険な存在の情報を一つでも多く握っておくのはいざと言う時にためになるのだから。
「俺の固有能力は【強奪】だ。喰った生物のスキルや魔法、魂までをも奪って俺のものにできる。魔物の体内にある魔力を、妖怪の体内にある妖力をそれぞれ奪い、独自に解析して認識して使ってるんだよ。……まぁ、魔物の力を使うには魔力が必要で、妖怪の力を使うには妖力が必要だから、それらを奪った俺には魔力も妖力もあるってわけだ。……あと、お前如きがどれだけ俺の情報を得ようとも俺をどうこうすることはできないから諦めろ」
「……っ! うぐぐ……分かった……儂はお主らに対して絶対に敵対しないと誓う。家畜のように扱ってもよいから、命だけは見逃して欲しい。儂ら妖怪は謂わば剥き出しの魂。お主らヒト種と違ってこの世で死んでしまえばあの世で輪廻の環に乗ることもできず消滅してしまうでな。儂はまだ死にとうないのよ」
「……なんか既視感のある光景だな。暴力で屈服させて服従を誓わせたわけじゃないからあの時とは違うと思いたい」
「威圧は暴力と変わらないよ父さん……」
「別に威圧してたつもりはないんだが、怯えてる相手に釘を刺すようなことを言うのは不味かったか」
翌朝、食卓にて。
「あ、ほら見て見て、のぶ君。ミクちゃんがもぐもぐしてるよ!」
「妖怪って言ってもあの見た目なんだし、噛まないと飲み込めないでしょ」
「妖怪とか関係なく、もぐもぐしてるミクちゃん可愛くない?」
クレアがミクと呼んで猫可愛がりしているのは、昨夜アッシュが屋敷に連れて帰ってきた幼怪だ。断固として名を明かさない妖怪が取り敢えずの呼び名として自らを『みずくめ』と名乗ったことにより『ミク』と可愛らしく簡略化されて呼称されていた。
「それにしてもアッシュお兄様、忘れ物ってミクちゃんの事だったんですね?」
「んぁ……」
「……はぁ……」
黙って危険を冒していた兄に一言ガツンと言ってやろうと思ったクレアだったが、寝惚けているアッシュを見れば言ったところで意味はないだろうと諦めて、再びミクを愛で始めた。




