第33話 泥沼に咲く花、蓮
──逢いたかった。
禁忌に染まりし妖怪──カルマはアッシュを視界に入れると愛するように、哀するように、そう呟いた。
「やって来るだろうとは思っていたが、まさか本当にやって来るとは……これは天啓という奴かも知れない。感謝する、名も知らぬ神よ」
信仰心など持ち合わせてはいない。
感謝した神がどんな存在か、そもそも存在するのかすら知らない。
行き場のない感謝の念を向けるのにちょうど良かったからそうしただけだ。
カルマは言葉を紡ぐ。
「──不足に生まれ堕落に生き、重ねた罪は数知れず。滅びぬ罪に落ちぬ穢れ、滅びる志に堕ちる魂。ならば我が罪を糧とする。捧げし罪を食むは汝。──喚起に応じよ、浄罪の四獣」
──ドロリ。ゴボゴボ。
カルマの体を駆け巡る刺青のような窪みから、瘴気のような靄と共にドロドロとした黒い液体が、煮え滾るマグマのような音を立てて溢れ出す。
それに触れてはならないと直感し、相対するマーガレット達は息を呑んで後退する。周囲のモンスター達も本能でそれを悟って後退りした。
黒い液体がカルマを囲むように地面に水溜まりを作った。
──コポポ。
気泡が浮かび上がっては破裂を繰り返し、黒煙を上げる。
まるで地面を消化しているかのような光景だったが、実際に起こっている出来事はその逆だ。
地面に溜まる黒い液体が蠢いた。些細な蠢きは瞬く間に大きなものへと変わった。透明な型に黒い液体が満たされていくかのように、液体は形を整えていく。
消化するどころか、生成していた。
カルマの右前方に現れたのは、熊のように大きな体をした犬のような四足の獣。瞳は濁り、耳は杭で穿たれている。濃紫の体毛はボサボサ、皮は薄紫で皺々。そして自分の尾を噛んでいる。
左前方に現れたのは、羊のように白い体毛を持つ人面の四足の獣。額から生えた角は曲がり、獅子や鮫のように鋭い歯を持っている。
右後方に現れたのは、翼の生えた虎のような姿をした四足の獣。口元は血塗れ、背には針山のような棘、その目は血走っている。この獣は姿を現すと「ワオオオォォォンッ!」と遠吠えを上げた。
左後方に現れたのは、虎のような体に人面の四足の獣。その人面からは知性が感じられず、口元から覗く鋭利な牙は猪を思わせる。
「……っ!」
「こいつらはあれか、キメラって奴か。いいじゃねぇか、面白い」
異形の四獣を前にしたマーガレットは、見た目の異常さ、犇々と伝わってくる悍ましい気配に冷や汗を流す。
反対にジャンクは戦意を漲らせる。
「姉さん、あれには流石に一人で突っ込んだらダメだよ。真ん中の奴もだけど、周りの奴らも相当危険そうだから」
「……そうね。真ん中のも周りのも、どれもあたしより大きいから『自動反射』が効かない。でも、負ける気はしないわ。キメラだかなんだか知らないけど、お父さんに比べたらまだまだ弱いものよっ!」
「ねぇ、気になったんだけど、環奈ってファザコ……じゃなくて、環奈のお父さんってそんなに強いの?」
「そりゃもう、滅茶苦茶強いわよ! あんな奴らなんか目じゃないわ!」
有栖川セーラの問いに、誇らしげに胸を張って環奈は答える。
「真由様、確かあの獣は……」
「……四凶。熊犬が渾敦。人面羊が饕餮。翼虎が窮奇。人面虎が檮杌。渾敦は善人を嫌い、饕餮は何もかも喰らい、窮奇は人間を喰らい、檮杌は勝手気ままに暴れ回る。……とても魅力的だけど、ワタシの前に敵として現れた以上、斃す」
「畏まりました」
芦田遥日に答える有馬真由。それに芦田遥日は返事をした。
「これほど早々に見破られるとは思わなかった。だが、こいつらの正体を見破ったところで何も変わりはしない。渾敦、饕餮、窮奇、檮杌、人間共を蹂躙しろ」
カルマがそう命令すると、渾敦はマーガレット、饕餮はジャンク、窮奇は環奈、饕餮は有馬真由と芦田遥日へと駆け出した。
四凶との戦闘が始まると、その余波を受けて周囲のモンスターは瞬く間に数を減らしていく。最初から何にもなっていないモンスター達がどれだけ絶えようとも、カルマにとって何の痛痒にもならない。……はずだったが、モンスターの数が減ればそれを好機と見た人間が攻め込んでくる可能性があるため、散会して他の人間の足止めをするように命じた。
響く戦闘音。
アッシュとカルマは互いの視線を交差させる。
「僕はあなたを見逃すべきじゃなかった。ミクさんがどれだけ文句を言おうとも、殺しておくべきだった」
「ミク……あぁ、あのガキか。……あぁそうだ。お前は自分を殺しておくべきだった。可哀想なほどに痩せ干そって弱々しい眼差しを向ける自分に、憐憫の目を向けず情けもかけずに殺しておくべきだった」
俯き、表情に影を差して後悔を吐露するアッシュを責めるようにカルマは言う。
「そうしておけばこの都市は滅びなかった。お前が善意を押し殺して自分を殺していれば、この都市の人々は尊厳を踏み躙られて泣き叫びながら死んでいくことはなかった」
「…………」
「お前のせいだ。お前が殺したんだ。お前の善意が自分という咎人と、大量殺戮という結果を生んだ。お前が見逃し助けた個が、多を虐殺した。……自分は正義の執行者ではないからお前の気持ちが分からない……教えてくれ、今どんな気持ちだ? どんな気持ちで自分も前に立っている? 怒っているか? 恨んでいるか? 嘆いているか? 何にしろ、お前の善意では救えない」
黙って耳を傾けるアッシュにカルマがそう言った。
「分かってる。全部僕が招いた結果。今まで助けてきた人の数以上に人を死なせた。つまり僕の善意はその程度ということ。だけど、勘違いしないで欲しい。僕は正義の味方でも正義そのものでも──偽善者ですらない」
「……なん──?」
疑問を呈そうとしたカルマの体が歪に歪んで吹き飛んだ。地面を滑って転がって、漸く止まったかと思えば、また吹き飛び滑り転がった。
何が起きているのか理解できないが、このままでは不味いと考えたカルマは出鱈目に体を捩ってその場から離れる。ある程度体勢を立て直すと高く跳躍し、地上を見下ろす。
先ほど自分がいた場所で灰色の髪の少年がこちらを見上げていた。高く跳躍したため、地上からはそれなりの距離がある。そのはずだ。なのに、少年の瞳が不気味なほど鮮明に見えた。
機械的なまでに無機質な瞳は、混濁しているようだった。複数の配線が絡まりあっているかのように、灰色の瞳には無数の感情が渦を巻いていた。
このまま落下すれば、あれに接近することになる。
背筋を冷たいものが伝った。
「クッ……!」
怯える屈辱に声を漏らし奥歯をギリギリと鳴らしたカルマは地上のアッシュに手を翳し、その手から人間の頭部ほどの大きさの黒い炎を射出した。
アッシュはそれに手を翳し、炎にも水にも変質していない純粋な魔力の波を放つ。使用する能力は【反響】。
この固有能力は魔力も妖力も剣戟の音も心音までをも反響させることができる能力なのだが、それが響けば響くほどにその効果を増すのだ。
たとえば、魔力の波を密室を破壊しない程度の強さで放つ。当然それで密室が壊れることはない。だが、アッシュの【反響】を用いれば、壁に衝突して霧散するだけだった魔力の波が跳ね返り、そうして跳ね返るごとに魔力の波が威力を増していき、やがて壊れないはずの密室を破壊するのである。
だからアッシュはいくつもの魔力の波を同時に飛ばし、互いにぶつけ合わせ跳ね返らせて、威力を増幅させる。
【反響】により、威力が増幅されている魔力の波は容易く黒い炎を霧散させ、落下中のカルマに直撃する。すると、体が歪に歪んでそのまま地面に叩き付けられた。
「……ゥグッ……な、なぜだ……? 昨日はいとも容易く捩じ伏せることができたというのに……まさか、激情に流されたフリをして手加減を──」
「僕がここに来るまでどれだけのモンスターを倒してきたと?」
「……っ! やはり群れるべきではなかったか……敵の餌になるだけの足手まといなど……いや、待て、たかだか数十、数百のゴミを倒しただけでここまで強くなれるわけがない……!」
「一時的に身体能力を上昇させる魔法は、自分で自分に何度行使しようと効果は重複しない。だけど、他人のものであれば別。そしてその魔法と同じ効果を得られるポーションも使った。……負荷に体が軋んでいるけど、あなたを倒すためならどうってことはない」
効果が切れるまで継続的に襲い来る激痛に耐えながら、アッシュは這いつくばるカルマを見下ろしながら答えた。
「こんなところで終わるわけには……ッ!」
立ち上がろうとするカルマをボールを蹴り上げるかのように蹴り飛ばす。宙を舞うカルマを見据え、アッシュは腰に提げた剣の柄を握る。
「【空想流、和の型──鬼切】」
鞘から剣を抜き放ち、空中のカルマの側へと飛び上がって渾身の斬り下ろしを放つ。
湖を真っ二つに裂けそうなその一撃はその技名の通り、鬼への強い特攻がある。どれだけ硬い皮膚であろうとも、鬼であれば紙切れのように斬り裂くことのできる、『鬼』にとって忌むべき攻撃だ。
だから餓鬼という鬼の妖怪であるカルマはそれを避けなければならなかった。技を使用させる隙すら与えずにアッシュを殺さなければならなかった。
そうしなかったから、そうできなかったから、上半身と下半身を呆気なく斬り離されてしまった。
────
声無き声はカルマの断末魔か、それとも殺り遂げたアッシュの歓喜か。
どちらも違う。カルマは死に際に立っていないので断末魔は上げない。アッシュは微塵も感情を動かしていないのだからあり得ない。
それは声ではなく、空気を裂いただけの音だった。
瞬間、アッシュの後頭部に鈍い衝撃が走った。一瞬だけ視界が真っ白になって、全身に激しい痛みが走る。
切り裂いたカルマは幻影だった。本物は地上で体を休めていた。手応えのなさに首を傾げていたら背後から攻撃された。それだけのこと。
黒い液体からモンスターを出現させたりしていたのだから、偽物の自分を作れる可能性を考えておくべきだった。
意識が飛んだせいで、自分で自分にかけた身体能力上昇の効果が切れてしまった。外傷のせいで、絶えない蝕むような激痛を抑えるのが難しくなってしまった。あっという間に窮地に陥ってしまった。
■□■□
渾敦と対峙するマーガレットは内心で安堵していた。魔剣も破壊されてしまった今、カルマはもちろん饕餮や窮奇、檮杌のようなモンスターを相手取ることは難しくかったが、渾敦であれば別だ。
その瞳は霞んで濁り、耳は杭を打たれている。恐らく見えていないし聞こえていない。
けれど、油断はできない。カルマの命令に従って一直線にこちらへ向かってきたことを考えると、それなりに周囲の状況は掴めているようだ。
「早く片付けてアッシュを手伝わなければ……身体強化があるとは言え、流石に一人では荷が重いだろうからな」
「ンンンンンンンンンンンンンンッ!!」
尾を噛んでいる渾敦は鼻で叫び、頭を振り回してマーガレットへと駆け出した。
狂っている、そんな感想を抱いた。
赤い布へ突進する牛を躱すようにヒラリと回避し、すれ違いざまに斬り裂く。渾敦はその痛みに、鼻で叫ぶ。渾敦はそれでも懲りずに突進し、またもや斬り裂かれ、鼻で叫ぶ。
視力がないから、耳が聞こえないから、尾を咥えているせいで噛みつけないからとは言え、何度も何度も繰り返す理由にはならない。……マーガレットの居場所が分からないのならまだしも、ヒラリヒラリと回避して徐々に移動しているマーガレットを狙って突進しているのだから。
薄気味悪いものを感じるマーガレットだったが、その気味の悪さを裏切るように、やがて全身に裂傷を負った渾敦は黒い液体になって地面に沈んでいった。黒い液体の痕跡は残らなかった。
呆気なさによる虚無感は、底知れない焦燥を生み出した。
燃えるように熱い焦燥。焦燥からくる体温の上昇。全身が熱くなっていく。
千鳥足、歪む視界、痛む頭、震える体、逆流する胃酸。
初めは耐えられたが、徐々に耐えられなくなり、そして気絶した。
マーガレットは渾敦の置き土産──【報復の病】に罹っていた。これは自分に手傷を負わせた相手に、それ相応の状態異常を付与するスキルだ。
渾敦は最初から勝つつもりなどなく、引き分けに引き摺り込むつもりだったのである。
幸いと言うべきか、カルマが周囲のモンスターに人間の足止めを命じていたため、倒れたマーガレットに干渉する者はいなかった。
■□■□
饕餮はジャンクへと大口を開けて接近する。噛み付こうとしていることを悟ったジャンクはその口内に炎の弾丸を放って口内を焼く。
「ミョオオオオオオオォォォォォォッ!?」
「隙だらけなんだよボケが。無抵抗で食われてやるわけねぇだろ」
のたうち回る饕餮を罵倒しながらジャンクは追撃を仕掛ける。殴り蹴り、殴り蹴りと、何度も何度も。しかし皮が分厚いせいで大したダメージにはなっていない。
このまま続けていればそのうち饕餮を倒せるだろうが、その前に拳と足が壊れてしまう。
先ほどと同じように体内を狙うのも手だが、魔法で痛め付けようにも、魔法を好まないジャンクは極力それを避ける。ならばと口内を殴ろうものなら喰い千切られる。
どうしたものかと悩むが、選択肢は一つしかない。
カルマの分厚い皮膚を無視して体内を直接攻撃した【内壊拳】を使う。拳へのダメージが尋常ではない技だが、一撃で仕留めれば問題はない。仕留められなければもう片方の拳で……それでも無理だったらならば、気は進まないが魔法で地道に攻撃すればいい。
そう考えたジャンクは起き上がり、こちらを睨んでいる饕餮へと構えた。
かかってこい。ジャンクの構えをそんな挑発と捉えた饕餮は奇怪な咆哮を響かせてジャンクへ駆け出す。
四足で駆け、ジャンクの目の前まで来ると後ろ足で立った。
まさかの行動に呆然とするジャンクに振るわれるのは地面から離れた前足。
迫る饕餮の前足をよく見れば、それは少々歪ではあるが紛れもない人間の手だった。
不味い。そう思って腕で防いだ。
ベキメキと、ゾワリとする気色の悪い音を立ててジャンクの片腕の骨は折れ、その体は地面と平行に舞う。
やがてビルにぶつかって止まる。
飛ばされている時、咄嗟に身体強化で体の硬度を上げたが、それでも全身が痛む。
ハッとしてその場を離れる。数瞬遅れて先ほどまでいた場所に饕餮が喰らい付いた。見た目からは想像できないほど大きく裂けた口でビルの壁に噛み付いて砕き、ビルの壁をそのまま咀嚼している。
「っぶねぇ……それにしても、あいつ、何でも喰うのか。赤ん坊でもあるまいし、勘弁して欲しいな。せっかく俺達が爆発物の使用を控えてるっていうのに、これじゃあ奪還した時の復興作業がめんどくさくなる。……もっとも、俺達が復興作業に駆り出されることはないだろうが」
愚痴るジャンクは「さっさとぶっ倒さないとな」と最後に呟いてから、咀嚼することに夢中になり隙だらけの饕餮に肉薄する。
そして、腕を引き絞り力を込め、踏み込みの衝撃を足から腕へ伝わせ、拳が饕餮に接触するその直前に筋肉を弛緩させ、脱力の拳を突き刺す。
衝撃は分厚い皮を無視して饕餮の体を内部から破壊する。
脳が震える、視界も震える、皮膚より柔らかい内臓が震える。激しい振動に筋肉がブチブチと断裂し、饕餮は痛みに羊のような、或いは牛のような咆哮を上げた。
反動でジャンクの拳の骨が折れる。腕の骨が折れる。引き絞った腕、力を抜いた拳、それを思い切り振り抜いたのだ。言ってしまえば、撓らせた手で鉄塊にビンタだかチョップを繰り出したようなもの。相応の代償はあって然るべきだ。
それに、何も反動は肩から拳までだけにとどまったわけではない。ビルに叩き付けられ、軋み痛む体に踏み込みの衝撃を伝わせたりしたのだから、もはや立っているのも困難なほどにジャンクの体はボロボロだった。
「ふっ、はは……相討ちか……」
地面に倒れ込んだ衝撃に呻き声を上げて顔を歪めるジャンクの視線の先には、溶けて黒い液体へと姿を変える饕餮がいた。
一つ気がかりなのは、自分の命がかかっている状況で、呑気にビルを貪っていたこと。まるで自分は死なないとでも言うかのような饕餮のその行動が、ジャンクに予感を抱かせていた。
■□■□
渾敦が敗れ、饕餮も敗れた。
残るのは未だに戦い続ける窮奇と環奈。
もう一方の檮杌と有馬真由、芦田遥日は戦闘をおこなっていなかった。
人面虎足の檮杌が苦々しげな表情で二人を睨み、二人が檮杌を見つめているだけの、異様な空気が漂っている。
やがて口を開いたのは檮杌だった。
知性無き獣を装うつもりだったのだが、思考の読めない二人と会話をしたくなった。表情に変化が見られればおおよその力量を目測できたかも知れないが、それができない。
何も分からない相手と戦うなど、暗闇の中で拘束され、時間感覚も掴めないまま踠くのと同じだ。
仮初めの肉体とは言え、そんな無意味な行動は避けたかった。だから檮杌は未知を知るため対話を試みた。
「貴様らは何者だ?」
「……聞いていた話と違う。お前──檮杌は勝手気ままに暴れ回る暴虐の体現者だと聞いていた。なのにどうしてか理性的に話しかけてきた。……本体じゃないから、だから違う?」
「……ッ!」
自分の本質を見抜かれていたこと、自分が本物ではないことを見抜かれ、人面の表情を驚愕に歪める。
「まぁ、いい。本来の実力を発揮できないお前に興味はない。──消えて」
有馬真由が表情一つ変えずにそう言って檮杌に手を翳すと、檮杌は反応すら許されず黒い液体へと姿を変えて、跡形もなく消え去った。
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地を駆け、空を駆け、窮奇は絶えず環奈へ猛攻を仕掛ける。
牛のように筋肉質な虎の体。鋭い爪に裂かれてしまえば一撃で重傷を負うのは明らか。
背に無数に生えた針鼠のような針山も危険なのは一目瞭然。最初は背の針を射出してきたりもしたのだが、悉く跳ね返されることを悟ってからは体力の消耗を抑えるため、やめていた。
「どうしたものかしら……」
環奈は汗を流しながら呟いた。
固有能力である【ベクトル支配】には自分と同程度の大きさ、或いはそれより小さい物体、害意を持ったものを跳ね返す『自動反射』の機能がある。
これで窮奇の針は反射できるが、自分より明らかに大きい窮奇の全身から繰り出される突進は反射できない。鋭い爪による斬り裂き攻撃も、爪──前足の大きさ的に『自動反射』が発動するか分からないので不用意に受けられないため、回避に徹するしかなかった。
ならばと『自動反射』の欠点が補われるが、その代わりに脳を酷使してしまう【向量操作】の使用を視野に入れるが、【向量操作】を使うのなら、脳への負荷を抑えるため『自動反射』の機能を停止させなければならない。
もし『自動反射』の停止を悟られて背の針による弾幕攻撃を受ければ、そこで終わり。
窮奇のような相手に対して、一度でも守りに入ってしまえば中々攻めに転じることができないのが【ベクトル支配】という能力の欠点だった。
「このままじゃ魔力が尽きて終わりよね……何とかして打開しないと……って言っても、【向量操作】以外に手はないし……いや、あるにはある……けど──」
剣で斬り付けても刃毀れするだけで、それなりに魔力を消費する割にはダメージになっていない魔法。
切り札と言うべきものはあるが、あれはそう、その名の通り『切り札』なのだ。それも、当たれば一撃必殺の。そんな切り札をそう易々と使うわけにはいかない。いざとなればやむを得ないが、できるなら使わずに勝利するのが望ましい。
──強くなるためにも頼るわけにはいかない。
環奈の頭には一か八かの選択肢しかなかった。
「後はあたしの覚悟の問題……早くしないとそれだけ魔力を失って、勝機が霞むっ……早くしないと……早くしないと……そう、早く、速く、疾く──!」
窮奇の爪を避けつつ、自己暗示をかけるように自分に語りかけ、自分自身を脅迫した。
白い渦──アイテムボックスから、剣の先端から柄までへと順番に出現させる。
皮膚を斬り付けようとも大したダメージにはならないが、眼球にでも突き刺せば別だ。もし刺さらずとも牽制程度にはなるはず。
そう考えた環奈は剣の柄に触れ、それだけで【向量操作】によって剣は射出される。
柄に触れただけで飛ぶという不可解な動きをした剣。
回避行動に移りながらも、一瞬の動揺のせいで回避できなかった窮奇はその眼球から剣を生やすことになった。
「ガ、アアアアアァァァァアアアアアッ!?」
絶叫する窮奇だが、知ったことではないとばかりに環奈は先ほど射出した剣のように飛び出す。
不意打ちで視界と思考を同時に奪えたのは僥倖だった。
窮奇が巨体であったのも僥倖だった。
環奈はその勢いのままに窮奇へと飛び付いた。そして馬にでも騎乗するかのような体勢になり、上体を下げて抱き付く。
自分ではどうしようもないほどの硬さを誇る皮膚を一撫でし、【向量操作】の能力を行使した。
窮奇の肉体は右から左へ、左から右へと圧迫され、圧縮され、瑞々しいほどに水気のある音を含んだ、ドパァン、という重々しい音を木霊させて弾け飛んだ。
目が痛くなるほどの鮮血は飛び散らなかった。
代わりに酸化し腐敗し、そうして朽ち果てた血液のような黒い液体が飛び散った。
びしゃりびちゃりと、確かに音を立てて地面に黒い花を咲かせた。光の加減次第では青黒く見えないこともない。
不気味なその花は、まばたきをした後には消失していた。




