第30話 雪解け水、溢れる
「──ヨトゥン」
二重に重なる春暁と冬音の呟きに、進の鼓動は加速していった。鼓動が加速する原因は、興奮と言えばそれは紛れもなく興奮だ。ただし、マイナスな方向での興奮だ。
この世界に伝わる神話に、そんな名前をした霜の巨人が登場することを知っていたから……だからそんな興奮をしてしまった。
歩み、息をするだけで極寒地獄を生み出し、真っ白な雪景色に花を持たせようとあらゆるものを氷像へと変える、生きた自然災害とでも言うべき圧倒的な存在。
……その恐るべき力に憧憬を抱き、それが発展し、やがて崇拝へと至った事例だってあるのだと耳にしたことがあるほどだ。
神話の生物が眼前に存在しているそんな事実より、どうしようかなという呆然とした思考だけがあった。
実際にはどうすることもできず先刻のように雪崩に呑み込まれるなりなんなりして死んでしまうのだろうが、どうにかしたいという勇ましい気持ちが奮い起っているのだ。
「白銀の氷獄を呼びし災厄の巨人──ヨトゥン。伝説上の生き物だと思っていたけど、まさか実在してたなんてね……にいちゃんはこいつのこと知ってたのかな……いや、知ってるはずだ。だって──」
「ハル、そんなことより今はこの状況をどうするか考えよう。もしもあれが本当にヨトゥンなんだとしたら、かなり無茶をしなきゃいけなくなっちゃうよ。あれが私達に気付く前に作戦を練って先制攻撃で致命傷を与えて……それでやっと倒せるか倒せないかぐらいだと思う……」
現実逃避にも似たこの現状で何の役にも立たない思考を遮られ、春暁はハッとして顔を上げた。
「……そうだね。余計なことを考えてる場合じゃない」
「うん。何か考えとかあったりする?」
冬音に問われて考える。
別に、巨人殺しは初めてじゃない。
今よりずっと前のあの時は、ステラとクルトがいたから倒せた。でも今は違う。
あの時と違って巨人は動いているし、ステラとクルトがいないため巨人を拘束できる魔法使いもいない。不死身の人間が死んでしまうほどに注ぎ込んだ生命の力だってない。おまけに、霜の巨人はあの時の巨人よりも段違いに強い。
……先ほど冬音が、作戦を練って先制攻撃で致命傷を与えれば倒せるか倒せないか、と言っていたが、それだけしてやっと逃げられるかどうかというのが関の山だろう。
正直、勝てる気なんか微塵もしない。
だから最初からどのように逃げるかを考えているが、作戦と言っても、致命的なまでに何もかもが不足していて噛み合っていない。
地形は相手に有利、戦力も自分と姉しかない。……進もいるが、常人と変わらないステータスしかないのだから、どれだけ【死行遡誤】でやり直しても無駄でしかないため、数にいれない。
「……ダメだ。何も思い浮かばない」
「あはは……だよねぇ。良い案が思い付かないから試しに聞いてみたけど、流石にこんな何もないところであんなのをどうにかできるわけないよね」
どうすることもできないと悟って、表情に影を落とす。そんな二人を見た進が口を開こうとすると、決意を固めたような瞳をした春暁が声を発した。
「僕があいつを引き付ける。上手くやれば十分は相手にできるはずだ。だからお姉ちゃんと進君、スティーブさんとオーロラさんはその間に逃げて」
「ぁ、え? ハル? 何言って──」
「後から追いかけるから、だから先に町に帰って待ってて」
春暁はそう言うと、どこかから取り出した剣を片手に駆け出した。春暁は何も言わない、何も言わせない。せっかく固く結んだ決意を崩されたくなかったから。
どんどんと遠ざかっていく春暁の背中は、遠くに見えるヨトゥンの足の裏から膝の辺りにも満たない大きさだった。
「………………行こう。帰ろう。待っていよう」
先ほどよりも表情に影を落とした冬音の表情は、もはや窺い知ることはできなかった。けれど、歯を悔い縛るような声色から、とても歪んだ──涙を堪えるような表情をしているのは容易に想像できた。
安心した。
──もう君の命は君だけのものじゃないんだから。
未来を大きく変えてしまうまいと、沈黙とできる限りの無反応を貫いてきたが、この人達は自分を呆気なく見捨てるような真似はしていなかったのだと。
きっと前回も今回のように、春暁が殿を務めて冬音達を逃がし、それどころか眠っている自分を殺させまいとこの場所からヨトゥンを引き離していたのだろう。……根拠などないが、干渉を最低限に押さえていたのだから、そう大して未来は大きく変わってはいないだろう。
「大丈夫ですよ。俺が──何とかします」
喉から出かけた言葉は、みなさんを救います。
言葉にしなかった理由は、たとえ時間を遡ったとしても、未来の世界はそこにあるままだからだ。どれだけ時間を遡って未来を変えようと尽力しても、先ほどまで生きていた世界は無数に存在する未来の一つとして残り、悲劇はなかったことにはならない。
ずっとそのまま、自分が死んだ後の未来の世界として続いていくのだが、それは、救済とは似ても似つかない、見捨てるという行為に他ならない。
なぜなら【死行遡誤】は死をきっかけにして過去の世界に戻るだけの能力で、死んだことによって過去の思い出に変わっただけの、紛れもない未来の世界には戻れないのだから。だから言葉にしなかった。
それに、悲劇がなかったことにならない、未来が続いていくということは、ここで一度死んで救うために見捨てても、相変わらず春暁はヨトゥンと対峙したままということで、冬音にスティーブにオーロラに至っては、自分の突然の自殺に呆気に取られて、それが仇となってヨトゥンから逃げきれなくなるかどうかは知らない。もう見捨てたのだから関係ない。
無責任な話だ。
「え?」
散乱していた残骸の中から鋭利な瓦礫を手にとって、喉に突き刺した。異物が侵入してくるムカムカとした感覚と、吹雪の中で焼けるような奇妙な感覚に、意識が遠退いていく。
「す、進君っ!? いったいを何して……っ!?」
「──」
冬音は影の落ちた表情から血相を変えて、積雪に倒れて雪を赤く染める進へと駆け寄った。「俺のことより、逃げてください」と言おうにも「上から氷塊が、危ない避けて」と言おうにも、喉を刺してしまったために声がでなかった。
金魚のように口をパクパクさせる内に、体温は赤く染まった雪に埋もれていった。
■□■□
勘違いで喚く男を放置して飲食店を出て、男によって遮られた話を耳にした直後の時点。町には深々と白い雪が降り積もっているがそこには確かに色があって、ただひたすらに真っ白だった雪原との違いは一目瞭然だった。
行き交う人々は様々な色の衣服を纏って、建造物は木造だったり石造りだったりレンガだったりコンクリートだったりと様々だ。
冷たいだけの雪が相も変わらず降り注いでいるというのに、心があたたかくなっていく気がした。
「春暁さん、冬音さん」
進は町を出ようと雪を踏み締める二人を呼び止めた。
「どうしたの?」
「お二人は俺の能力を知っていますよね?」
「…………ごめん。【鑑定】のスキルを使ってこっそり見た」
「それは別に構いませんが、知っているのなら話は早いです。俺の固有能力である【死行遡誤】は、死ぬことによって過去にタイムリープする能力……簡単に言いえば『やり直し』ができる能力です」
自分の固有能力について話し出した進に、春暁と冬音は顔を顰めた。
何が目的か分からない突然の暴露に、知り合って間もない他人に能力を飽かす無用心さに、少なからず不快感を抱いていた。
「今ここにいる俺は、この先を見て体験してきた俺です」
「……っ……じゃあそれって、進君……少なくとも一回は……」
「……進君。君はいったい何を見てきたんだ? 君は何の理由もなく自分の切り札を明かすようなバカじゃないはずだ……何かあったんだろう?」
まさかと青褪める冬音とは反対に、春暁は狼狽えず真剣な表情で進に訊ねる。
話半分程度に聞いてくれれば進としてもやりやすかったのだが、こうも簡単に話に食い付かれると、それは本当なのかと疑われ、信じてもらえなかった時のショックが怖くなってくる。……だけど、自分には責任がある。怖いからと逃げ続けるわけにはいかない。救うと謳って未来を見捨てたのだから、犠牲にした未来のためにもどうにかしなければいけない。
「まず、この先にある雪原の地下──ホルモルと呼ばれるモンスターが掘った穴を少し逸れたところにある地下施設に、アンドロイドは潜んでいました。ですが、俺達がアンドロイドと対峙していると、唐突に天井がなくなったんです」
「天井がって……地下施設なんじゃ……」
「丸ごとですよ。積もった雪も、地上から地下施設の屋根にあたる部分と地下施設の天井までもが、一瞬で丸ごとなくなったんです。何が起こったのか理解できませんでしたが、吹雪の先にうっすらと巨大な人影が見えたんです」
「巨大な人影……巨人……? 吹雪の中でも生きられる巨人なんて、フロストトロールぐらいしかパッと思い付かないけど……そのぐらいなら何とでもなるから違うんだろう? 雪原に僕やお姉ちゃんがいてもどうしようもできないほどの巨大な存在なんて…………あ……まさか……っ!」
春暁が考えて、何かに思い至ったかのように声を上げた。
寒冷地帯に生きるモンスターなどそもそも少ないために、吹雪に佇む巨大な人影と言えば候補は自然と絞られる。
「霜の巨人、ヨトゥン……っ!」
「ヨトゥンによって地下施設もアンドロイドも破壊され、途中で出会ったスティーブさんとオーロラさん、春暁さんと冬音さんも殺された……吹雪の中でも燃え続ける執拗な火の海を覚えてます……だから……やめましょう。俺達がいかなくても、アンドロイド達はヨトゥンによって破壊されるんです……アンドロイドとの会話内容も覚えてますから、アンドロイドが被害者で俺達人間が加害者だって言うことも分かってます……だから……!」
春暁と冬音を引き止めるため、雪原に繰り出すのがどれだけ無意味かを説くが、それは逆効果だった。
「なら、なおさら行かないと。スティーブさんとオーロラさんが誰かなんて知らないけど、ヨトゥンが闊歩している雪原に放置してはおけない。僕達人間が地下に追い詰めたアンドロイドが破壊されてしまうと分かっているのなら放置しておけない。……それに、ヨトゥンと出会った僕はみんなに、僕を置いて逃げろって言ったはずだ」
春暁は断言する。自分ならそうすると信じられるから。
「それでもお姉ちゃんと進君、スティーブさんとオーロラさんが殺されてしまったのなら、ヨトゥンは町へ逃げたこの四人を追跡したってことだろう? 町に逃げなければ、そもそも雪原に繰り出さなければ起こらない悲劇とはいえ、いずれ町に被害を及ぼし兼ねない脅威を認知していながら、みすみす逃げるなんて僕にはできない」
ハッとした。
確かに……確かにそうだ。見捨てたのだから救わなければと思っていたが、そのためにここから逃げ出してしまえば、アンドロイド達はともかくスティーブとオーロラはどうなるんだ。ホルモルの穴から離れたところで吹雪がおさまるのを待っていたとは言え、地下施設を的確に堀り当てたヨトゥンが相手となれば、無事では済まないだろう。
それに、そうだ、そうだった。雪崩で凍えて窒息して死ぬ前にヨトゥンの影を見た。
自分を置いて逃げろと言っていたと断言する春暁の強い意思と、自分が干渉せずとも春暁を置いて逃げる選択をしていた冬音の揺るがない意思から、火の海で目覚めた自分の状況がよく分かる。
あれは冬音とスティーブとオーロラが逃げた後で、春暁はヨトゥンを引き離していた、そんな状況だったのだろう。
……その状況でヨトゥンは戻ってきた。まるで、そこを通らなければ進めず、目的地に辿り着けないかのように、道を変えず再び同じ場所へ戻ってきているのだ。その回帰の理由を逃亡した冬音達を仕留めるためと考えれば、その進行方向には町があるのだろうと思われ、そして最初からそちらへ歩んでいたことを考えると、最初からヨトゥンの目的は町の破壊なのだと思われる。
「……いやでもハル、私達にヨトゥンみたいな神話生物を相手にできるわけがないって! 進君の言う通り──」
「いえ、やっぱり戦いましょう」
「はぇっ!? す、進君!?」
考えを翻した進に驚愕する冬音。そこに追い打ちをかけるように進は言った。
「誰の助けも望めない雪原ならともかく、ここは町です。ここを戦いの舞台にするわけじゃありませんが、協力を扇ぐことはできます」
「協力って……誰がこんな突拍子もないこと信じられるの……進君の中で信頼が積み重ねられてる私達だから能力の説明を受けてあっさりいってるけど、進君の能力を他人に明かして説明するわけにはいかないでしょ!?」
「大丈夫だよお姉ちゃん。この町には尾花さんと撫子さんがいるから」
■□■□
春暁と冬音についていき、やってきたのは町外れにある何の変哲もない一軒家。
本当にこんなところに現状を打破できる存在がいるのかと疑ってしまうが、二人に任せるしかない。なにせ、最終的には負けてしまったとはいえ、ヨトゥンと渡り合えるほどの実力がある春暁が頼っている存在なのだから。
春暁はインターフォンを鳴らした。地球と一体化する以前から貴族の屋敷などの極一部にチラホラあったとはいえ、科学の混じったこの世界では、もうそれほど珍しいものではない。
十数秒して玄関扉が開き、中から清楚な装いの女性が現れた。背丈は冬音と同じぐらい──つまり、春暁と進よりかは小さいぐらい。桃色の髪に桃色の瞳と、若干派手な印象を受けるが、装いと雰囲気がそれを感じさせない。
「はい。……あれ、春暁君に冬音ちゃん……と、そちらの方は?」
玄関扉から現れたその女性は春暁と冬音を目にするなり、優しげな目付きで、尚且つ静かな声色でそう言った。
「お久し振りです、撫子さん。こっちのは──」
「初めまして、進です」
「初めまして、私は撫子といいます。春暁君と冬音ちゃんとはお友達……のような関係です。……それで、突然どうしたのですか?」
簡単に自己紹介を済ませ、撫子は春暁に目を向けた。
春暁は事情を話した。
「霜の巨人ヨトゥンですか……それはまた厄介そうな相手ですね……私はもちろん協力しますけど、あなたはどうしますか、尾花?」
撫子が見上げてそう言う。釣られて視線を上に向ければ、屋根の上には大の字で寝転がる少女がいた。
白みの強い白金色とも言えるショートカットの金髪に、小麦色の瞳、仄かに日焼けしたような健康的な褐色の肌、清潔な白いタンクトップに太腿までしかないショートパンツ。それらから受ける印象は遊び盛りの少女というものだったが、如何せん場違いだ。
「いーんじゃないの。そろそろ雪遊びにも飽きてきたことだし、いい刺激になりそう。……んで、進っていったっけ? わたしは尾花。よろしく」
「え、あ、よろしくお願いします……」
視線だけを下に向けて尾花と名乗る少女は言った。
あまりにも堂々としたその姿に、進はただたじろぐだけだった。
「萩と桔梗の奴が集会来ねぇで勝手なことしやがったせいで超暇だったけど、こりゃぁ、楽しくなりそうだ」
屋根の上から転がるように落下して、何でもないかのように立ち上がって尾花は言った。
背丈はこの場にいる誰よりも小さい。小学校高学年の平均身長程度しかない。
「撫子さん、尾花さん、ありがとうございます。それで作戦なんですけど──」
「だぁ、いらないいらない、作戦なんてまどろっこしいもんはいらないって。相手は神話で語られるヨトゥンだぜぇ? 真正面から衝突する以外あり得ないっしょ!」
「尾花、それで負けでもしたらどうするんですか?」
「わたしと撫子ならともかく、春暁も冬音もいんだ。役に立つ機会はなさそうだけど、しん……進だっている。万が一もないだろ、多分」
「…………」




