第13話 怪異
弱いモンスターに中身は存在しない。意思もなければ思考もなく、自我も自己もない。あるのはただひたすら生きろと命じ続ける本能のみ。危険の接近に警鐘を鳴らし、安寧に沈黙する、そんな本能だけだ。
ある境地に至ったモンスターだけが、突然自分を獲得する。まるで大きな存在に存在を認められたかのように。
振り返れば黒い煙が見える空の下を駆けるのは可哀想なほどに痩せ細った妖怪。この妖怪も当然のように弱く、自分を持っておらず、本能で生きるだけだった。
アッシュの姿を見つけた時点で逃げ出していたのが良かったのだろう。二人の人間の女が他の妖怪を殺し彷徨い始めたときにはかなり遠い場所まで逃げることができていた。おかげで生き延びることができた。多少は食事もできたから空腹は紛らわすことができた。
自然界において、闘争と逃走は成長を齎すものだ。
闘争で外敵を討ち滅ぼし生き残る。逃走で外敵を彼方へ置き去りにして生き残る。どちらも生存に直結する必須の技能だ。
闘争ほどではなくとも、逃走するだけで生きる手段を会得することができ、生き延びることに鋭く特化していく。それに、闘争してまで急いで成長する必要などないのだから、これまで通り日々を逃走に費やせばよかった。
この妖怪の本能だってそう告げている。
けれど、この妖怪の意思が逃走用だけでなく闘争用の手段も会得しておくべきだと考えている。
さも当然かのように、今までずっと居ましたが何か? と堂々と居座って、本能を否定する意思に気付くことなく、妖怪はどうするべきか迷う。
今まで思考を知らなかった妖怪は中々決めることができなかったが、脳裏に過った光景に決断した。
『お主、腹が減っておるのか? くくくっ、餓鬼であるならば当然か。ふむん、良かろう。こんな姿でとは言え、忌々しい結界から解き放たれた今宵の儂は機嫌が良いでな、特別に儂を糧とするが良い』
意思を獲得したが、言語までは獲得していないために少女の発言は理解できなかったが、当時も現在もなんとなく理解できた。思えばこの時から薄いながらも意思はあったのだろう。
少女の言葉に甘えて少女を喰らっていると、殺気を感じて振り返れば一瞬で真っ二つにされた。逃走の勘もその一瞬では役に立たなかった。状況を理解するための能力がなかった。殺気に対処する能力がなかった。……なら、それに対処するにはどうすればいいのか? 殺気を浴びて戦って、殺気に慣れて一瞬に対応する能力を会得すればいい。
逃走してばかりだった妖怪は、丘に建ち並ぶ住宅街の下り坂道で黒煙を眺めながらそう考えた。
ふと気配を感じて振り返れば、ひ弱そうな人間の女が遠くに見える黒煙に呆気にとられていた。
自分程度の妖怪でも不可視化の術を使えばただの人間の目を欺くことは可能であるため、女は自分ではなく黒煙に気を取られている。
貧弱そうな女は、コツコツと靴を鳴らしながら近付いてくる。買い物帰りなのか、トートバッグを腕に提げている。
緊張する。今まで戦ったことなどなかったから、自分の強さも人間の強さも分からない。……けれど、戦闘経験がない妖怪は知っていた。背後から接近し、一撃で仕留めるのが効果的なのを。
空腹は多少紛れていた。
今なら殺れる。今しかない。大きく成長するためには今しかない。再び空腹になって無力になってしまわないうちに殺るしかない。
緊張する自分を押し殺して、妖怪は女の背中へ腕を突き刺した。
「ぃっ……ぎぃぁっ……!?」
腹から血を吹き、口から血を吐き、そうして血を流す。腕に血を纏わせながら、妖怪は丹念に執拗に地面に倒れ込んだ女を刺し続ける。
人間が聞けば背筋を凍らせるような音が丘道に響き、妖怪はその音と血が舞う光景に背筋が震えるようなゾクゾクしたものを感じていた。
時代の変遷を何度も眺めてきて、初めて獲物を仕留めた瞬間だった。
■□■□
次の日。
特にこれと言った出来事はなく放課後を迎え、モンスターパレードの時に約束したことについて、両親と話し合って出した結論を、生徒会室にいた西蓮寺志乃に話しておく。その際に異生物対策組織について、昨日聞かされたものよりもさらに詳細な説明を受けたため、思っていたよりも帰路に就くまでの時間が遅くなってしまった。異生物対策組織に入るための正式な手続きはまた後日ということになっている。
辺りはすっかり茜色に染まっており、道に映る影が昼間よりも伸びている。基本的にふわふわしているアルカは腕を広げたりして、自分の動きを物真似してくる影で遊んでいる。
道路を行く車は道路から僅かに浮いているために走行音はない。それによる危険ももちろん増すのだが、前方に人影を感知すれば自動で急停止する機能が当たり前に搭載されているため安全だ。
歩いている内に、ふとアッシュは思い出した。
短い間に二度も出会った妖怪について……もっと詳しく言えば、最初に出会った時にした勘違いについてだ。
真夜中の公園で少女──ミクを喰らっていたから、近頃発生している子供の行方不明事件の犯人が痩せ細った妖怪だと勘違いしていたが、後にミクから聞かされた話であの妖怪ではないのだと知った。
……なら、この事件の真犯人は何者なのか……クレアとの帰宅途中に聞いた悲鳴はなんだったのかと。自ら痩せ細った妖怪の糧となろうとしていたミクが悲鳴をあげるわけがないのだから、ミク以外の誰かが悲鳴をあげていたに違いない。
けれど、あの場にはミクと痩せ細った妖怪以外に何者も存在しなかった。単純に【反響】で音の発生源を見誤っただけかも知れないが、あの公園以外の周囲で妖怪や魔物などの気配はなかったからその可能性は考えにくい。なら、悲鳴の直後に悲鳴の主は食われて妖怪は早々に逃げ去ったか。でも周囲にはミクのものと思われる血液以外はなかった。なら巨大なモンスターに丸呑みにされたか。ならモンスターの影が見えても……と、どれだけ考えても分からなかった。
「ねー、あっくーん。なに考えてるの? 剣のこと? 鍛練のこと?」
「……アルカ姉さんは僕のことを脳筋か戦闘狂とでも思ってるの? 僕が考えてたのは、この辺りで起きてる行方不明事件についてだよ。僕はミクがその被害者だと思ってたけど、妖怪の容姿とかミクの話を聞く限りどうも違うみたいなんだ。だから真犯人が何者なのか……せめて人間によるものなのか、モンスターによるものなのかぐらい知っておきたいんだ」
「ふへへ、あっくんは優しいねぇ。あっくんみたいな弟を持って嬉しいよ。それはそうとして……ボク、この事件とそんなに真剣に向き合ったことなかったなぁ。うーん、お姉ちゃんとしてそれはダメだよねぇ……よしじゃあ分かった。お姉ちゃんも協力するよ。真犯人が~とか、そういう難しい事にはあんまり期待しないで欲しいけど、何かあったら声かけてよ。あっくんの足を引っ張らない程度には頑張るからさ!」
「ありがとうアルカ姉さん。姉さんにして欲しいことがあったらお願いするよ」
影で遊びながらアッシュと会話するアルカはアッシュの言葉に頬を綻ばせると「待ってぇ」と言って環奈達のところまでタタタッと小走りで駆けていった。考え事をしている内にいつの間にか距離が離れていたことに気付いたアッシュは、アルカに続いて小走りで走り出し、また一つ姉の一面を知ったのだった。
屋敷の庭での鍛練を終え、アッシュは汗を拭ってから屋敷へ戻る。ちなみに、アッシュが鍛練をしている横では今日も秋と環奈が戦っており、いつものように環奈が負けて悔しがっていた。
そんな環奈の元に戦いを眺めていたアグナがやってくるが、今日はいつもと違ってイヤホンをしている。それに気付いた環奈がアグナに尋ねた。
「ねぇアグナ、何聞いてるの?」
「ん? 姉貴は知ってっかなぁ……最近売れてる『盛岡生死浪』ってミュージシャンの音楽なんだけどな、歌詞は意味不明ながらもどっか深みがあって、声も良い感じに低いのに透き通ってて心地いいし、音楽もクセになっちまうしでサイコーなんだよ!」
「へぇ、アグナがそこまで言うって相当凄いのね。今度あたしも聞いてみようかしら」
「盛岡の歌は人によって好みが分かれるだろうから、あんまオススメはしねぇよ。時間にも小遣いにも余裕があるってのなら構わねぇけどな。……あと、お疲れさん。今日も負けちまったけど、姉貴ならそのうち勝てるって信じてっから頑張ってくれよな」
「……ん、ありがとうアグナ。おかげでちょっと元気出てきたわ」
環奈が礼を言う頃にはアグナは踵を返しており、一々振り返るのも面倒だからとヒラヒラと手を振って答えた。
一連のやり取りを横目に見ていたアッシュはアグナに続いて屋敷へと戻った。
アルカを味方に付けて帰宅してからずっと事件のことばかり考えてしまうせいで、家族同士の何気ないやり取りにも耳を傾けてしまい、そこからヒントを得ようとしてしまう。盗み聞きなんて良くないと分かってはいるのだが、癖のようにいつの間にかそうしてしまうのだ。
だが、それも長くは続かないだろう。異生物対策組織に入って色々探って行けばそのうち真犯人が見つかるだろうし、組織の人に協力を仰げばなんとかなるはずだ。もしそうはならなくても、こう言った組織に加入するだけで可能性はグッと上がる。
今できるのは、何気ない出来事から片鱗を探すだけだ。
屋敷に入り、鍛練でかいた汗を流すために脱衣所で服を脱ぎ、シャワーを浴びる。その間もずっと事件のことばかり考えている。そろそろ他のことも考えたいところだが、事件のことが中々頭から離れない。
気付けばシャワーは出しっぱなしで、しかもそのシャワーは自分にかかっていなかった。ハッとしたアッシュは冷えた体を再び温めるためにシャワーを浴びた。
「くくっ……かかかっ! ボーッと突っ立って何をしておるのかと思えば、考え事をしていただけのようだな」
「……え? あ……は? なんでミクさんがここに……?」
「風呂に入るために決まっておろう。……ふむん、銭湯と言う施設では、幼い女は男湯にも入ることができると聞いたから、別にお主がいても問題ないと思ったのだが……さてはあれか? お主は儂を幼子として見ておらず、女として見ておるからそれほどまでに戸惑っておるのか?」
ミクは揶揄うように言う。
「それって、父親が娘の面倒を見るためにすることであって、他人同士である僕達には当てはまらないと思うんですけど……」
「……ふん、面白くないな。ほれ、終わったのならさっさと退かんか。妖怪と言えども一応寒さは感じるんだぞ? ……それで? お主は何を考え込んでおったのだ?」
小さく震えているミクを見て、湯船に移動するアッシュは、シャワーを浴びているミクに事件のことについて話す。きゃっきゃきゃっきゃと物珍しそうにシャワーで遊ぶミクだったが、話はきちんと聞いていたようで、アッシュが話し終えるとすぐに口を開いた。
「痕跡も手法も分からぬから真犯人とやらまでは突き止められぬが、街中に潜んでおる妖怪を見つけ出すぐらいならば今の儂でもできるぞ」
「本当ですか!?」
「おおう、いきなり大声を出すでない。ただでさえ響いてうるさいと言うのに、そんな前のめりで騒がれたら驚いて転けてしまうだろう。……それでどうだ、犯人探しに協力して欲しいか?」
湯船を波を立てて、ミクへ詰め寄るアッシュ。ビクリと体を震わせたミクはバスチェアから転げ落ちそうになるものの、何とか堪えて言う。
「お願いします、ミクさん。こうしてる間も誰かが襲われてるかも知れないって考えると、落ち着かないんです」
「……人なんか毎秒何人も死んでおると言うのにか?」
「ミクさん、自分に助けられない命を助けられなかったと嘆くのは何かを履き違えている聖職者の役目なんじゃないですか? 僕は聖職者なんかじゃなくて、剣士です、騎士です。そんな僕に救えるかも知れない命があるのなら、全力で助けようとするのが僕の役目です。だから毎秒何人死んでいようと関係ありませんよ」
「ほほう、そうかそうか、なら良い。お主がきちんと身の程を弁えておるようで安心した。身の程知らずに協力してやるなぞごめんだったからのぅ。……よし、では明日からお主が帰宅してすぐ街中の巡回だ。見つけたモンスターを片っ端から痛め付けて、幼子を攫った犯人かどうかみっちり問い詰めてやろうではないか」
そう意気込むミクにホッとして、アッシュは方までを湯に浸す。そしてふとミクに視線を移して、異物に気付いた。
「ミクさん、腰の辺りに生えてるそれはなんですか?」
「儂の尻尾だな。儂は狐の妖怪なのだから別におかしい事ではないだろう。普段は人間に馴染むために隠してはおるが、お主と二人きりならば少しぐらい気を抜いてしまっても問題あるまい」
「狐の妖怪……そうですか……うーん、これでも結構強い気はしてたんですけどね、凄く強いらしい妖怪のミクさんからすれば警戒にすら値しませんか……」
「おう。ほれ見てみよ、ふさふさよ、ふっさふさ。……と、何か勘違いしておるようだが、別にお主を弱者として見ておるわけではない。……なんと言うかまぁ、これでも儂はお主をある程度は信頼しておるのだ。隙を見せてしまっても討たれることはないだろうと言うぐらいにはな」
ふさふさだと狐の尻尾を見せつけて、その尻尾をシャワーで濡らして誇らしげな表情でアッシュを見る。……が、アッシュは尻尾になど全く目を向けていなかった。
「信頼……ですか……僕を信頼できる要素なんてなかったはずですけど、いったいなぜ?」
「まず、儂が妖怪に襲われておると思って助けようとしたではないか。妖怪に襲われておる人を助けるだなんて勇敢な行動を取れる時点で、ある程度器の大きい者か、善人であることは知れる。儂のような子供にしか見えない初対面の相手に言葉遣いが丁寧だったのも良かったな。……あとは、家族に理想を語るお主の姿だな。自分のため他人のため母のため……素敵ではないか。幼稚な理想だと誰かが笑おうとも、儂は好きだぞ、お主の理想」
指を折って口を動かすミク。もっとあると思っておったのだが考えてみるとこれだけしか思い浮かばんかったわ、とけらけら笑っている。
「……世の中分からないことばかりですね。妖怪も魔物も、モンスターは全て僕達人間とは相容れない存在だと思ってたんですけど、そうじゃなかった。ニグレドさんやアルベドさんとかを見れば決して不可能ではない事は分かっていましたが、どこか遠い話だと思ってました。僕とは関係のない話だと思っていました。……不思議ですね」
「儂や彼奴の嫁共が変わっておるだけで、大抵の妖怪や魔物はそうである事に変わりはない。だから不思議なのは意思を持つ、儂らモンスターの存在よ。儂とお主の出会いは何も不思議なことではない」
「……そう……ですね。確かにそうだ。僕達の出会いは何もおかしな事じゃない。ミクさんって、そんな見た目なのに年上の包容力を持ってるから凄いですよね」
「……ふん」




