2,姉の婚約者
流行病が特効薬の開発により急速に終息へと向かった。外出も徐々に出来る様になり、暗い表情だった使用人達が明るく笑う様になった。普段なら話しかけてこないメイドも、浮かれて私に明るい話題を提供してくれる。
「明日にアセビ様の婚約者であるイベリス王子がお城にいらっしゃいますよ。おめかししてお出迎え致しましょう」
姉の婚約者が来ると聞き、私は嬉しくなった。普段ならイベリス様の情報は姉から教えてもらうのだが……姉は例の医師に引っ付いており今は不在だ。
「姉様はイベリス様が来るとちゃんと覚えているでしょうか?」
メイドは苦笑いを浮かべた。目の前の事に一直線な姉だ。多分、忘れているとメイドも思った様だ。
「スカビオサ様は救世主様でございます。アセビ様が惚れるのも無理のない話です。……ここだけの話ですが、婚約の話は無かった事になると使用人仲間達の中では噂されてます」
スカビオサとは私を薬で救ってくれた医師の名前だ。何でも、スカビオサ様が特効薬を開発したそうだ。世間から流行病を終息させた功労者として崇められているらしい。
(え!? 姉様がスカビオサ様に惚れたと思っているのですか!? あれは尊敬する師に対する態度ではないのですか!?)
私と使用人達の認識にズレがあるそうだ。
翌日。案の定、姉はすっぽかした。多分、忘れているだけで悪意は微塵もない。
(遠方から来てくださったイベリス様に対して失礼過ぎて、大変申し訳ないです)
せめて私が最大限のおもてなしをしようと、エントランスの外で待ち構えた。白い優美な造りの馬車が白馬に引かれ私の目の前に止まる。御者が馬車の扉を開ける。中から現れたのは、柔らかそうな短い黒い髪に灰色の瞳の8歳の少年だった。格好が黒い布地に金のボタンの軍服だった。馬車から降りた時からずっと私の顔を見ていて胸が高鳴った。
「サツキ。身体は平気か?」
この淡々とした言葉遣いが実のところ私は大好きだった。
(自分を飾らない姿が素敵です)
私は嬉しくて元気よく応えた。
「はい! すっかり良くなりました!」
「……良かった」
イベリス様は目を細めて優しく笑った。
(え?)
鼻筋が通った長い睫毛の綺麗な顔で笑みを浮かばれて、喜ばれない人間はいるのだろうか。
ゆっくり私に近づいて来て、頭に手が置かれた。頭に置かれた体温に頭がのぼせそうになった。
「良く頑張ったな。サツキが流行病で倒れたと聞いて、生きた心地がしなかった」
「その……心配をお掛けしました」
「良いんだ。スカビオサには礼をせねばな。……ところでサツキ。姉は何処に行った?」
浮かれていた気分が一転。ひやっと背筋が凍った。イベリス様の表情がない。これは間違いなく出迎えない失礼な姉に怒っている。私は上手く笑えていただろうか。
「ね、姉様はっ。そのっ。えっとですねっ」
慌てふためていると、イベリス様は溜息を吐いて「いや、良いんだ。分かっている。あいつは自由な女だ。最近、犬の方が賢いと思えてきた」ととんでもない事を言った。
(この国ではちやほやされてる姉様も他国の王子様からには冷たくされている何て驚きです)
呆気にとられていると、手を引かれた。
「折角の機会だ。話したい事は山の様にある。サツキも俺に話したい事はないか?」
(イベリス様が私と話したいとっ!? 嬉しいです!)
「わ、私もあります! ずっと部屋で本を読んでいましてっ」
興奮して早口で喋っていると、頭をぽんぽんされた。
「時間はあるから散歩でもしよう。案内してくれるか?」
「勿論です!」
その後、庭園を案内して、イベリス様と楽しい時間を過ごした。
(花はいつも美しいのに、イベリス様と見ると格別に美しいと思えるのが不思議です)
楽しんでいると、「ごめーーんっイベリス!! すっかり忘れてたっ!!」と姉が走ってこっちに向かって来た。
(ね、姉様っ!? 忘れてたとか何平然と言ってるのですっ!? ここは嘘でも、急用があったとか言い訳をするべきです! しかも、格好が白衣姿って何ですかっ!?)
私は青ざめて失神しそうになった。イベリス様が「チッ」と舌打ちしたのは姉の失礼極まりない行動の所為に違いない。
「姉様っ! ちゃんとイベリス様に謝って下さい! 遠路はるばるわざわざ来てくださったのですよ!」
馬車で5日はかかる距離だと聞いた。
姉はあっけからんと「だから、謝っているじゃないっ!」とぬかした。
「ぜんっぜん誠意がこもってません!」
「サツキ。興奮すると身体に障る。この猿には俺が礼儀というものを教えるから安心しろ」
(私の事を気遣っていただき嬉しいのですがっ。姉様の扱いが犬から猿に変わってませんかっ!?)
「おい猿。その格好は何だ? お医者様ごっこでもしていたのか?」
「イベリスっ! さっすが私の婚約者! 話が早いわ! 私は医師になるべくお勉強していたのよっ!」
(姉様が自分を猿と認めていますね……。やはり婚約者ですと心が通じ合っているのですね)
イベリスがそれを聞いたら間違いなく「違う」と首を横に振るであろう。
イベリス様は「はぁ?」と姉を見下した。
「私の所為で、サツキが流行病になったの。だから、私が次は助けなきゃ」
(姉様。そんなに気にしていたのですね。私はもう気にしていませんよ)
姉と接触したから、流行病になったのかもしれない。しかし、別の原因かもしれない。考えても不毛な事だ。
イベリス様の目の色が変わった。
「その話は本当か?」
イベリス様は姉に詰め寄る。怖く感じた。姉は流石なのか動じない。
「ええ。私がサツキに止められたにも関わらず、無理を言って遊んでもらったの。私が原因に違いないわ」
(姉様は言い訳をしない真っ直ぐな人です。そんな姉様が大好きです。……でも、イベリス様には違う様に聞こえたかもしれません)
パーンッと高い音が庭園に響いた。
姉の頬が片方だけ赤くなった。
「何故、叩いたか。分かるよな?」
姉は動じずにイベリス様を真っ直ぐに見た。
「ええ。ありがとう。イベリスしか叱ってくれる人がいないから助かるわ」
「分かっているなら、何も言う事はない」
それから2人は、何事も無かった様に世間話をする。それを茫然と見守っていた私は2人の関係が羨ましいと思った。
(イベリス様と姉様の仲を引き裂いてはなりません)
いつからだろう。当然の様にそう自分に言い聞かせていた。