ヒナガ
ヒナガが一人の少女を伴ってサンガ神殿に舞い戻ったのは、最後に神殿を去ってから月の満ち欠けが一廻りもしない内のことだった。
「あの夜」以来、ヒナガとミズナは、事後処理や新制度の発案などで、村と神殿を行ったり来たりの忙しい毎日を送っており、気付けばそんな生活が一年程経っていた。未だ問題は山積していたが、それでも漸く忙しさが一段落し、少し羽を伸ばそうかというのを見計らったかのように、ヒナガは村の少女から、将来についての相談を受けた。彼女は学びたいことがあるので、神官になりたいのだという。
神殿は、年に二回、大々的に神官候補と魔術使い候補の受け入れを行っており、その内の一回が丁度この時期にあたる。少女は幾つかの試験の結果、神官候補として神殿で学ぶことになった。
そんな訳で、ヒナガは少女を連れ、去ったばかりの神殿に再び足を運ぶこととなった。新たに神官候補に指名された少女は、これから神殿で様々な事を学び、ゆくゆくはヒナガの後継として働く可能性のある子だ。今の内から色々教えてやれと、少女に同行するようミズナに申し渡されたのだ。
神官候補になるだけあって、少女は賢く、中々口も達者だった。
「ヒナガさん、神殿で暮らすって、どんな感じ? 同じ位の歳の子、居るかな? 仲良くなれる子がいればいいな。それと、神官になれたら、すぐ村に帰らなきゃ駄目? あのね、私、植物学に興味があるんだけど、出来ればじっくり学びたいの。村に帰ったら、顔役として雑務が増えるでしょう?……その、ヒナガさんが、ミズナさんのお世話してるみたいに」
少女の問いに、ヒナガは苦笑いを返した。
「あれは、僕が好きでやってるだけだよ。本当は、僕が居なくても何でも出来る人だからね。今みたいに、僕が村を離れてる間は、僕が飼ってる色々な動物の世話を先生が代わってくれてるのを知ってるだろう? 今は神殿に居るけど、いずれはどこかの村で暮らしたいと考えている神官や魔術使いだっている。君が神殿に残って学びたいことがあるなら、焦る必要はないよ」
少女はほっとした顔で言った。
「父さん母さんの為にも、必ず村に帰ろうとは思ってる……でもね、父さんが煩いんだ。早く結婚して、子供産めって。神官になりたいなら止めないけど、それとこれとは別だって」
少女の父親がまだ十歳にもならない娘に言って聞かせた事は、ごく一般的な感覚だ。乳幼児の死亡率を考慮に入れたとしても、現在の平均寿命は六十年弱。未だ最盛期の半分程だ。十五、六歳で、場合によってはもっと早く結婚し、子供を産み育てる。それは、種としての本能に根差した暗黙の了解だ。だが、その了解から外れた存在もある。魔術使いと神官は、その数少ない存在の一部だった。
神官と魔術使いの才能は偶発的なものであり、遺伝による要素は影響しない。特に、魔術使いの特殊な能力は、不思議な程その子供に引き継がれることは無かった。大昔の神官達が魔術使い対し行った数多の非人道的な研究でも、任意にその能力を引き継がせることは出来なかったらしい。魔術使い達の多くは、その能力で観える世界の在り様の影響か、種としての本能が生まれつき薄く、自らの子を欲する者は多くはなかった。
それに比べると、神官の才はある程度本人の努力で補えるところもあり、感覚は他の者と左程変わらない。ただ、魔術使いと同等の激務と己の研究分野へ捧げる情熱が、そして、その彼等の伴侶となる覚悟のある者はかなり少数派だということが、結果的に彼等を伴侶から遠ざけていた。
無論、家庭を持つ魔術使いも神官も居るし、神殿内にはそういった者達向けの部屋を設けてはあるが、独り身の者の為の部屋数の半分も必要なかった。
「私、言ってやったのよ。ミズナさんだってヒナガさんだって、結婚してないし子供も居ないけど、立派な人達でしょって。ねえ、ヒナガさん、ヒナガさんは好きな人は居ないの? やっぱり、ミズナさんのことが好きなの?」
年齢不詳の、未だに美しいミズナに献身的に尽くすヒナガの姿は、少女の目にはそのように映っているらしい。
ヒナガは、ぶんぶんと、激しく顔を横に振った。
「先生のことは、誰よりも尊敬しているし大好きだよ。でも、その『好き』は、君の言ってる『好き』とは違う気持ちだよ」
新しい生活への不安からか、話し続ける少女を神官長のマヤと魔術導師のキキの許へ案内すると、ヒナガの当面の仕事は終わりだ。後は、彼女の努力次第で、道は拓けも閉じもするだろう。そして、マヤもキキも、沢山の生徒を見て来た教育の達人だ。少女の不安を、上手く緩和してくれるだろう。
ミズナからは、「急いで帰って来る必要はないぞ。何なら、他の村や神殿まで足を伸ばして来ても構わん。珍しい酒でも見掛けたら、持って来い」と言われていた。休みを取るのが下手な弟子を気にかけているのだろう、土産を買って来いというのを方便に、強制的に休暇を取らせたのだ。
折角なので、偶には趣味としての読書を楽しもうと、ヒナガは図書室へ続く廊下をゆったりと歩いていたのだが、誰かと擦れ違う度に、知った顔から見知らぬ者にまで話し掛けられる。「あの夜」の功労者の一人であり、人当たりの良いヒナガは、自分で考えているより遥かに皆に注目されていた。だが、このまま全員を相手にしていると、図書室に着く頃には夜になってしまいそうだった。仕方なく廊下を途中で曲がり、人気の無い外廊下へと歩を進めた。中庭へと続く外廊下は、ヒナガが生徒だった当時から、いつも静寂に満ちていた。
サンガ神殿は、他の神殿に比べ建物こそそこまで大きくはなかったが、敷地は広く、外庭、奥庭の他、中庭が二か所ある。大きな植物園や農園、鳥舎、獣舎、来客用の馬小屋等は外庭と奥庭に集中しており、中庭の一つは、主に生徒達の憩いの場になっていた。ヒナガが今歩いている外廊下は、教師である神官や魔術使いの部屋や応接室が近いからか、普段は人気のないもう一つの中庭に出られるのだ。
中庭で時間を潰すことになるなら、飲み物でも持っていればよかったな、などと考えながら、ヒナガは中庭に設えられた東屋の椅子に腰かけた。
厳しい寒さは去り、日差しが柔らかなこの時期は、毎年ヒナガに不思議な感覚を覚えさせる。芽吹く草木や風の匂い、冬ごもりから起き出した様々な生き物の気配は、全てが等しく世界を廻らせる要素だと教えてくれる。そして、己もその要素の一つであることに、安堵と違和感を覚えるのだ。特に、今年はそれを強く感じていた。
「寒くないですか?」
ぼんやりと意識を漂わせていたヒナガは、突然かけられた声に飛び上がりそうになった。
「すいません、驚かせましたか」
声の主は、北の神殿で神官をしている男だった。ひょろりと背が高く、薄茶色の瞳が優し気な風貌の男は、ヒナガに満面の笑顔を向けていた。
数年前まで、ヒナガはある記録を探してあちこちの神殿を訪れていたのだが、北の神殿の図書室では、必ずと言っていい程彼と鉢合わせた。やがて挨拶を交わすようになり、彼は図書室での探し物を手伝ってくれるようになった。落ち着いた物腰で、頭の回転の速さが窺える彼との会話は、根を詰めがちなヒナガにとってよい息抜きだった。
「うん、驚きました。お久しぶりです、シュンコウさん。その節はお世話になりました。こっちにいらっしゃるのは、珍しいんじゃないですか?」
「珍しいどころか、初めてですよ」
サンガ神殿は、これまでの実績と立地から、新制度の立ち上げの為の場となっていた。その為、現在は魔術使いや得意な分野を異にする神官達が、あちこちから招集されている。少し前までは、ヒナガとミズナもその中心に居たのだが、二人共心身ともに疲れ切っており、彼等の上役にあたるマヤとキキの計らいで、現在はその座を退いていた。
シュンコウは、動物の行動学が専門の神官だ。通常なら制度と無縁の研究をしているのだが、生物としての人間の行動を視野に入れる為に招集されたらしい。昨夜から滞在しているのだが、三日後の会議まで暇なので神殿内を散策していた処、ぼんやりしているヒナガを見かけ声を掛けたとのことだった。
「正直、私の研究が役に立つとは思えないんだけどね。ま、これも仕事です。ヒナガ君も、会議に呼ばれているのかい?」
「いえ、僕は神官候補の子の付き添いで来ただけです。でも、偶然とはいえお会いできてよかったです。以前お世話になった恩返しが出来るかもしれません。僕で良ければ色々ご案内しますよ。どこか行きたい処や見たいものはありますか?」
ヒナガに問われ、シュンコウは少し考えてから言った。
「獣舎は是非見たいですね。こちらでは、どんな管理や世話をしているのか興味があったんです。それに、シンリンカラが飼育されてると聞いてます。個体数の少ない彼らに、お目にかかれる機会はそうそうないでしょう。楽しみだったんです……が、取り敢えず今は腹が減ってます。申し訳ないが、食事に付き合って貰えませんか」
いつの間にか日は傾いており、そろそろ早目の夕食を取ってもおかしくない頃合いだった。
「勿論です。体質的に食べられないものなんかはありますか? ここの食堂もいいですけど、神殿を出たところにある店なら、酒もありますよ」
「いいですね。今日は呑んじゃいますか。身体に合わない食べ物はありません。あ、嫌いな物も無いですよ……ネギとニガイモと干したナクの実以外は」
しれっと答えたシュンコウに、ヒナガは思わず笑ってしまった。
「それなら、やっぱり外に行きましょう。ここの食堂は、好き嫌いを許してくれない料理長が目を光らせてますからね」
神殿付きの神官、魔術使い、その教え子達は、敷地内に部屋を持っている。ヒナガも、神殿に寝泊まりするつもりで小さな寝所を用意して貰っていた。食堂もあるし、生活用品も簡素なものとはいえ用意され、神殿の中だけで最低限の生活は出来るようになっている。だが、彼等が神殿外の集落の店を利用する機会は意外と多い。
「へえ、やっぱり、うちの方とはずいぶん違う物が売られているんですね。面白いものだね」
シュンコウは、物珍し気にあちこちの屋台を覗いていた。
大抵の神殿の敷地外には、小さな集落が形成されている。神殿を訪れる一般客の為の宿屋や、飲食店、土産物屋の屋台等が立ち、神殿で採れた農作物や珍しい果物などが売られたりしていた。一方神殿は、新たに改良した野菜等を集落に卸して得た利益を、神殿の諸経費などに充ている。サンガ神殿では酒造も行っており、名物の一つとして集落に卸していた。利益の一致は互いの関係を良好に保つのに効果的だ。自然と、神殿付きの者が気兼ねなく過ごせる御用達の様な店も出るようになり、ヒナガとシュンコウが訪れたのは、そんな店の一つだった。
「この店は、酒と料理の種類が豊富なんです。お勧めは、その日獲れた野菜と素揚げの川魚の和え物です。少し辛いですが、癖になりますよ」
「では、それを。嬉しいな、私、魚好きなんですよ。それと温野菜。出来れば緑瓜抜きで。あと発泡酒を」
ヒナガは発泡酒を二杯と、その他に幾つか食べ物を注文し、笑いながら言った。
「緑瓜もお嫌いですか?」
「嫌いじゃないですよ。好きじゃないだけ」
平然と答えるシュンコウに、ヒナガは大笑いした。
程なく酒と食べ物が卓に並び、二人は順調に杯と皿を空けていった。
これまで幾度も顔を合わせていた二人だが、食事を共にするのは初めてだった。シュンコウは中々の酒豪の様で、ヒナガの倍は呑んでいるのだが、全く酔った様子を見せない。
腰を落ち着けてすぐに、ヒナガは、もっと早くにこういった機会を持つべきだったと少し後悔した。仕事を離れたシュンコウとの会話は、予想以上に楽しいものだったのだ。ヒナガにしては珍しく、何度も腹を抱えて大笑いした。
「それにしても、何だか僕の周りには、やけに酒の強い人が集まるなぁ。マヤ先生もミズナ先生も、尋常じゃなく呑むんですよ」
「ミズナ先生……ああ、あの綺麗な人か。確かに、彼女は呑みそうな顔をしてますね。そういえば、マヤ先生の酒豪伝説は、うちの神殿でも実しやかに語られてますよ。何でも、樽二つ分は空けるとか。それに比べたら、私なんて可愛いもんでしょ」
「樽二つは言い過ぎ……でもないのかな……僕の知る限りでは、大壺一つは、確実に空にしてましたね」
真顔のヒナガにの言葉に、シュンコウも真顔になった。
「人体に、それだけの容量が収まるのは謎ですね。物理の法則を完全無視してる。どうなってるんだろう?
ヒナガ君は、普段呑まないんですか? 見た処、嫌いじゃないんでしょう?」
「先生達が呑んでるとね、色々仰せつかるんですよ。発泡酒はもういいから蒸留酒をくれ、肴が無いから何か作ってくれ、とか」
大仰にため息をつくヒナガを、シュンコウは笑った。
「そりゃあ、君が彼等を甘やかすからでしょう。干し肉でも与えておけばいいんです。酒飲みなんて、それで充分ですよ」
「甘やかしてるつもりはないんですけどねぇ」
どちらかというと、甘やかしてるのは彼等の方だと、ヒナガは思った。目に見える形で必要としてくれることで、ヒナガを安心させてくれる。ヒナガ以外の者に、彼等がそういった態度をとることはないのだ。横柄と誤解されがちなミズナも、そういった我儘は決して他の者に言うことは無かった。
幼い頃から、ヒナガはいつもにこにことして、近所でも評判の良い子供だった。大人には礼儀正しく、子供達遊び仲間とも喧嘩一つせず、程々に年相応の悪戯などもした。だが、誰かに褒められても、悪戯を叱られている最中も、ヒナガの心は凪いだままだった。皆が泣いたり笑ったりと忙しく感情を煌めかせるのを、ただ外から眺めているだけで、どこか当事者になり切れない自分が嫌だった。今ならその理由も何となく解る。
物心ついた頃から、原因から結果を推測する事に長けていたヒナガにとって、感情を揺り動かす程の出来事など、平和な暮らしの中にそうそう起きる事ではなかっただけなのだ。だが、皆と同じ様に物事を感じられないということが、少なからず子供心に孤独の種を植え付けた。
女手一つで自分を育てる母に、心配をかけたくなかった。彼女に、寂しそうにしている姿を見せたくなかった。なるべく、皆と一緒に、皆と同じ様にと、「普通」であろうとした。勘の鋭い母は、息子のそういった素振りに気付いていたのかもしれない。幼い息子と目が合うと、出来る限り抱きしめ、背中を優しく撫でてくれた。それでもヒナガは普通を演じ続け、大人になった今ではすっかり習い性となっていた。そんなヒナガに居場所を与えてくれるのは、ありのままの自分を愛してくれる恩人達だった。
物思いに耽っていたヒナガは、我に返り、慌ててシュンコウに詫びた。
「すいません、つい考え事をしちゃってました」
「己の思想に耽りがちなのは、神官の性でしょう。ヒナガ君は、少し気を使い過ぎです。誰にでも丁寧なのは素晴らしいけど、私にまで気を使う必要はないですよ」
シュンコウの穏やかな声は、ヒナガをほっとさせると同時に、何となく面白くない気持ちにさせた。
「シュンコウさん、僕より年上じゃないですか。目上の方は敬うべきでしょ? 貴方こそ、僕に随分と丁寧に接してくれてますよ。それはどうなんです」
少し考え込んで、シュンコウは口を開いた。
「ヒナガ君、神官になって何年目ですか?」
「神官として認められてからは、十六年目ですかね。村で就任したのは、もう少し後ですが」
「でしょ? 私は神官として認められてから、まだ十二年目なんです。歳は私の方が幾つか上ですが、ヒナガ君の方が先輩なんですよ。目上の方は敬うべきなんでしょ?」
暫く無言で見つめ合い、やがて、どちらからともなく吹き出した。
「止めましょう、不毛な言い争いだ。気を張らずに呑むのが一番です。私、発泡酒をもう一杯」
「同意です。酒も料理も、美味しく楽しく頂くのが礼儀ですね。僕も、発泡酒を追加で」
それから二人は、様々な話をした。専門分野は全く違っていたが、どちらも研究職なせいか、話題には事欠かなかった。ヒナガはシュンコウの思考方法に感銘を受け、シュンコウはヒナガの思考の深度に学ぶものを感じた。
気付けば夜は更け、店仕舞いの時間になっていた。
会計の時にどちらが払うかでひと悶着あり、結局、その日はヒナガが支払う事となった。
「以前お世話になったお礼だと思って下さい」
そう言って、ヒナガが押し切ったのだ。
神殿への帰り道は人通りも無く、アカネ月の光がゆっくりと歩く二人の影を道に落とす。
「では、ありがたくご馳走になっちゃいます。でも、私から誘ったのに、何だか申し訳ないな」
「とんでもない。こんなに楽しい食事は久しぶりでした。そうだ、シュンコウさん、明日の予定は決まってますか? 獣舎の案内をしますよ。生徒だった時分は世話係をしてたんで、僕もあの子達に会いたいし」
「あれ? ヒナガ君は算術が専門だろう?」
「そうなんですけど、成り行きというかなんというか」
ヒナガは、昔から様々な生き物を観察することが好きだった。毎日の様に獣舎に通う内、いつの間にか彼等の世話係になっていた。
どんな小さな生き物でも、常に生きる事に真剣で、綺麗ごととは無縁のその貪欲さが、ヒナガにはとても美しく見える。自分はきっと、潔い彼らの生き方が羨ましいのだ。
再び考え込みそうになったヒナガだったが、「じゃあ、案内をお願いしちゃおうかな」と言うシュンコウの明るい声で我に返った。ヒナガは、ふと、シュンコウが動物行動学を専門にした理由を聞いてみたくなった。
シュンコウから返って来たきた答えは、ヒナガには意外なものだった。
「私はね、職業として神官を選ぶことにしたんです。思い立ったのが他の子より遅かったし、算術なんかもからきしだった。人の倍も努力しなければ、神官になんてなれそうもなかった。だからせめて、好きな事なら頑張れるんじゃないかなと思ってさ。
だって、可愛いだろう? 特に、哺乳類や鳥類の子供の可愛さったらもう!」
得意な分野を極める為ではなく、神官になる為に専門分野を決めたと言いながら、鼻息を荒くして生き物の子供の愛らしさについて力説するシュンコウは、心底楽しそうだった。神殿付きのシュンコウは、授業を受け持つ教師でもある。この調子で授業を行っているとしたら、神官の卵達からは、さぞかし変わった教師だと思われているに違いない。一度、彼の授業を受けてみたいものだ。ヒナガは、増々彼に興味が沸いてきた。
サンガ神殿の客間のある棟に着くと、二人は翌日の約束を交わし、それぞれ宛がわれた部屋へと戻った。
寝台しかない様な小さな部屋で一息つくと、ヒナガは、珍しく気持ちが浮き立っているのを感じた。
年を追うごとに、新たな出会いは減っていく。それは人に限らず、日々起きる出来事も、己の考え方ですらも、次第に古い澱の様に溜まり、己という瓶の中を曇らせ埋めてしまう。
シュンコウとの会話は、凝り固まり目減りした瓶に、新鮮な水を注いだようだった。注がれた水に、澱が躍る。澱の一片一片に宿る出来事や想いは、水の中を好き勝手に漂い、切なさと同時に、どこか懐かしさと楽しさを感じさせ、己という瓶の中身も存外悪くはないのかもしれない、と、そう思えた。そして、それはシュンコウという水のお蔭だった。
明日を楽しみにするなんて、何年ぶりだろう。ヒナガは、ゆっくりと眠りについた。
翌朝、ヒナガが身支度を済ませ、待ち合わせ場所である食堂に向かうと、既に二人分席を確保していたシュンコウはお茶を啜っていた。
「おはようございます。すいません、お待たせしちゃいましたね」
ヒナガが詫びると、シュンコウは笑顔で手を振った。
「おはよう。まだ約束の時刻より早い位ですよ。何だか最近早く目が覚めちゃうんだよね。やだねぇ、年取ると早起きになるって言うじゃない」
朝からヒナガを笑わせると、シュンコウは朝食の載った盆を取りに行く為立ち上がった。
「僕が取って来ますよ」
慌ててヒナガが言うと
「ヒナガ君には、席の確保という任務を与えます。よろしく」
シュンコウは、さっさと歩き出してしまった。
手持ち無沙汰なヒナガは、ぼんやりと食堂の中を見渡した。
来客用の食堂は、調理場を挟んで生徒用の食堂と向かい合わせになっていて、向こうに比べこじんまりとしているが、調度品などは少々豪華なものが置かれている。間に調理場と壁があるお蔭で、生徒用の賑やかさは思ったよりもこちらには届かず、落ち着いて食事がとれるようになっていた。生徒だった時分には滅多に立ち入ることは無かったが、それでも記憶の中にある頃と殆ど変わっていない風景に、あの頃はこっちで朝食を食べることなど考え付きもしなかったな、などと考えていると、盆を二つ手にしたシュンコウが、しょんぼりとした様子で戻って来た。どうしたのかとヒナガが首をかしげると、そっと卓に置かれた盆の上には、素揚げの魚と野菜の付け合わせ、海藻の椀物が載っていた。揚げた魚には、刻んだ野菜が何種類も含まれた餡がかけられ、彩りもよく、なかなか美味しそうだったのだが。
「干しナクが入ってる……」
ヒナガが呟くと、シュンコウは露骨に肩を落とし、無言で席に着いた。その悄然とした様が何だか可笑しくて、笑ってしまいそうになる口元を、ヒナガは慌てて引き締めなければならなかった。
ヒナガが調理場に目を向けると、料理長は生徒用の配膳台にかかりきりになっているようだ。ヒナガは小声でシュンコウに促した。
「今です、シュンコウさん。干しナクを除けて、僕の皿に移して。料理長に気付かれたら、恐ろしい目に遭わされます……僕が。さ、早く!」
それを聞いたシュンコウは、人間の限界に挑む速さでナクを除け、料理長に目撃されることなく無事に作業を終わらせた。二人は目が合うと、どちらからともなく大笑いした。
「折角作って貰ったものを残すわけにもいかないし、助かった。ありがとう、ヒナガ君」
「どういたしまして。さ、食べましょう。証拠隠滅は早くしないと」
二人は急いで食事を済ませ、食堂を後にし、獣舎へと向かった。
サンガ神殿の獣舎は、近辺に生息する傷ついた野生動物を保護する為の施設である。傷が癒えた個体は自然に返し、野生での生存が難しい状態のものは獣舎に残す。獣舎に残した個体は、場合によっては繁殖を促してその子供を自然に返したりもするが、今の処それはあまり積極的に行ってはいない。動物医療などを専門にする神官や魔術使い達が、彼等の生態を観察したり治療する為の実践的な技術を養える場として機能していた。
獣舎に着くと、シュンコウの雰囲気が変わった。獣舎の中を一つ一つじっくりと観察し、時折、言葉少なにヒナガに質問する。それ以外は口を開くことも無く、いつの間にか取り出していた小さな手帳に、何事かを書き込んでいく。世話係の生徒達の行動もしっかりと観察していたようで、気付けば、すっかり日は上りきっていた。
たっぷりと時間をかけ観察し終えたシュンコウは、ヒナガに丁寧に礼を述べ、獣舎に向かって一礼した。
「長々とつき合わせちゃって済まなかったね。ヒナガ君が居てくれて助かった。作業中の子に色々聞くのも、仕事の邪魔になっちゃうしね。
余計なお世話かも知れないけど、イワイヌとカワネズミの世話をしていた子、もしかしてあの子はイヌが苦手なのかい? 扱いが少しぎこちないし、イヌにそれが伝わってた。事故が起きる前に、配置換えを考えてみたらどうかな。あと……」
そう言いながらヒナガを振り返ったシュンコウは、いつもの空気に戻っていた。
ヒナガは、シュンコウの意外な一面を見た驚きで、彼をまじまじと見つめた。
「なんだい? あ、疲れた? 申し訳ない、ずいぶん引っ張りまわしちゃいましたものね」
「大丈夫ですよ。そもそも、僕のほうから案内するって言いだしたんですから。こちらこそ、色々教えていただいてありがとうございます。世話係のことは、僕の方から神官に伝えておきますね」
「うん。ちょっと現場を見ただけの人間が余計な口を挿むのは、失礼だしね」
シュンコウの神官としての顔を初めて見たヒナガは、彼に対する認識を、気さくな同僚から、優秀な専門家へと改めた。
不思議な男だった。柔らかい空気を持つ年相応の落ち着き、子供の様な感性、冷静な判断力で仕事を見つめる専門家が、瞬時に入れ変わる。いや、変わるのではないのかもしれない。きっと、どれも同じ重みで彼の中にあるのだろう。
ヒナガにとって、神官という仕事は、ミズナの手助けをするのに都合がよかったので選んだに過ぎない。勿論、それに向いた才能があったからなれたのだが、敬愛する彼女の役に立てるなら、神官でなくても良かったのだ。仕事に手を抜いたことも、抜こうと思ったことも無いが、己の一部と感じたことも無い。
恥ずかしかった。シュンコウだけではない。きっと、ミズナも、村の皆も、誰もがこんなに真摯に己を全うしているのだ。自分だけが、何時までもふわふわと頼りない足取りでいる。
黙り込んでしまったヒナガに、穏やかで楽し気な声が届いた。
「ヒナガ君、悪いけど、もうちょっと付き合って貰ってもいい? 今度は、彼等の可愛さを堪能したいと思うんだ」
「え?」
「もう一回、全部の獣舎を見てまわりたい。いい歳したおじさんが、一人で鼻息荒くして獣舎の周りをうろうろしてたら、不審者と思われちゃいそうだろう? 夜行性のシンリンカラは、夜にまた見に来るとして、ツチウサギとシカモドキの子供居たよね? 抱っこさせて欲しいって言ったら、怒られるかな?」
ヒナガは吹き出した。
「? なに? 私、何か可笑しなこと言ったかな」
こういう処だ。目を逸らしていたい心を強引に引き出し、見せつけ、最後は、つまらない劣等感ごと柔らかな空気で包んでしまう。
「敵わないなぁ」
「? 何か言ったかい?」
「いえ、何も。お付き合いしますとも。後で、昼食を驕ってくれるなら」
シュンコウは、にっこりと微笑み、「勿論、喜んで」と答えた。
ヒナガとシュンコウは、急速に距離を縮めた。だがそれは、大きな変化ではなく、穏やかな空の雲がいつの間にか形を変える様な、自然なものだった。それぞれの場所に戻ってからも密に連絡を取り合い、休暇には互いの住処で共に過ごしたりもした。シュンコウはヒナガの母やミズナとも早々に打ち解け、ミズナの家で酒盛りをしたこともあった。
そんな付き合いが一年程経ったある日、突然シュンコウがヒナガの住む村にやって来た。近くに生息する野生馬の個体数の調査に来たついでに寄ったと言う。
「連絡してくれれば、もっとご馳走を用意しておいたのに」
ヒナガの母を交え、三人で昼食を取りながらヒナガが言うと、ヒナガの母も口を尖らせた。
「そうよ。こんな物しか用意出来なかったわ。馬を追いかけるんでしょ。体力つけなくちゃ。ほらほら、これも食べて」
「……その『こんな物』を用意したのは僕だよ、母さん」
ヒナガの母は、ため息をつき乍ら溢す息子の言葉を、いつも通り聞き流す。彼女は、お気に入りのシュンコウとの食事を楽しんでいるようで、始終上機嫌だった。
食事を終えると、ヒナガの母は、シュンコウが手土産に持ってきた焼き菓子を幾つかと、縫いかけの服と裁縫道具を持ち、近所の奥様方の集会――男子禁制の井戸端会議に出掛けた。
「ゆっくりしていって頂戴」
そう言って、鼻歌混じりに出掛ける後ろ姿を見送り、シュンコウは申し訳なさそうに言った。
「母君に、気を使わせしまったかな」
「いや、あれは日課です。殆ど毎日のように集まってるんです。よくまあ、話が尽きないなと思いますよ。あれが元気の秘訣なのかな」
ヒナガは食器を片付けながら笑った。それを手伝い、感慨深げにシュンコウは呟いた。
「女が逞しい生き物は繁栄する、なんて簡単に言う輩がいるけど、少なくとも人間には当てはまりそうだね」
「まったくです……それにしても、シュンコウさんが突然やって来るなんて、初めてじゃないですか。野生馬の個体数の調査って、そんなに急に決まったんですか? 急ぎなら、僕も手伝いますよ」
ヒナガが食器を洗いながら言うと、シュンコウは苦笑いをした。
「調査は、まあ、急ぎと言えば急ぎだけど……実は、北の神殿を出る事になったんだ。新しい村を作りに行くんだ」
連日のように行われている新制度の会議で、街道の整備と村の拡張という案が出ているのは、ヒナガとミズナも聞いていた。ここ数十年、ヒナガ達の住む大陸は勿論、どの大陸も比較的安定した気候が続き、大きな地震も起きてはいない。そして、緩やかではあるが、人口は増加傾向にある。大がかりな事業を行う為の環境が整っていた。
街と呼べる規模の居住空間は、何処の大陸でも数が少ない上、神殿の周囲にしかない。人口の殆どは、それぞれの神殿を結ぶ街道沿いに点在する村か、街道から少し外れた、村というよりは集落といった規模の土地で暮らしている。その点在する村と村の間に新しい村を作り、街道外れの集落の住民を集め、いずれそれらを拡張合併して一つの街にする計画が持ち上がったのだ。必然、そこには街道の整備も含まれている。
神官と魔術使いになれる人間は、人口に対しほぼ一定の割合で生まれて来る。少なくとも、今迄はそうだった。それは、自然界の浄化作用のようなものだと考えられていた。大地が安定するという事は、彼等の能力は不要になるということでもある。幸いまだその兆候は見られないが、今後、神官も魔術使いも減っていく可能性があることが指摘されていた。学びの場でもある神殿と各村を今以上に強く結び付け、歴史や知識を断絶させない体制を残す為にも、街道の整備と都市管理が必要だと考えている者は少なくなかった。
当然、反対意見も上がった。周囲の生態系への影響と、移住を余儀なくされる集落の住民達への説明と生活の保障は大きな課題だ。特に、魔術使い達の声は大きく、内容も決して無視できるものではなかった。
近隣の村同士が良好な関係で、豊かな土地であること。派遣される者は、日頃から各地を巡回し集落から信頼の厚い魔術使い達、神官からは環境保護の為に自然学に明るい者、新たな住人達への配慮として、医療や農業等、生活に直結する部門を専門とする者が各神殿から複数名選ばれることで、それぞれの意見の折り合いをつけた。そして、幾つか上がった候補地の内、北の神殿から伸びる街道上の村が選ばれた。現在は、周辺の集落で魔術使い達による移住の説得が行われており、基礎工事は既に始まっている
「そんな訳で、私も派遣される神官に選ばれたんだ」
シュンコウは、神官を仕事だと割り切っている。この仕事も、真摯に取り組むだろう。優秀な彼が選ばれたのも当然の事だと思う。
「大変ですね」
「まあ仕事だし、それは別に嫌ではないんだ」
シュンコウは肩を竦めた。ヒナガは食器を急いで片付けると、二人分のお茶を淹れ、シュンコウに続きを促した。
「暫くは新しい村に留まって経過観察し、議会に報告する。生態系への影響だけじゃない。様々な問題を洗い出す為にね。例えば、新しい村と既存の村で諍いが起きれば調停し、何が問題になったのかを報告する訳だ。まあ、既存の村の神官や魔術使いも居てくれる訳だし、そうそう問題も起きないとは思うけどね。一段落ついたら、そこで神官と魔術使いになる者と、経過報告をする為の人材を一部残し、他の者達は新たな村作りを進める他の場所に派遣されるんだ。神官と魔術使いが複数名選ばれているのは、そういった面もあっての事なんだよ」
ヒナガ達の住むこの辺りにも、いずれは話が出るだろう。この近辺の村は、どこも良好な関係を築いているし、互いの距離も比較的近い。環境への影響も最小限で済むと考えられている。実は、今回の候補地の一つにも上がっていたのだ。
「もしかして、それを伝える為に来てくれたんですか?」
「それは本題じゃないんだ。いや、それも用件の一つではあるんだけど……」
珍しく口ごもりながら、シュンコウは目線を彷徨わせていた。
やがて、ため息をつき乍ら出て来た言葉は、ヒナガに衝撃を与えた。
「恐らく私は、新しい村には残らない。一段落ついたら、他に派遣されるんだ。候補地の中には、とんでもなく遠い場所もある。場合によっては、海を渡ることもあり得る。
だからさ、そうなる前に、君に会っておこうと思って」
沈黙が続く。
ヒナガの口から無意識に出ようとした言葉は、声になる前に喉の奥で消えた。唾を飲み、ようやっと出た声は、自分でも驚く程擦れたものだった。
「そう、なんですか……」
「あくまで可能性の話だけどね。近場に派遣されるかもしれないし、神殿に戻ることもあり得るだろ? それに、まだ数か月は神殿の神官だ。君に会いたかったのは、景気づけみたいなものなのかな。大事な……友人である君に。
さ、そろそろ仕事に戻るとするよ。美味しい昼ごはん、ご馳走様でした」
穏やかなシュンコウの言葉は、もういつも通りの彼のものだった。
ミズナさんにも報告していくよ、と言って腰を上げたシュンコウを見送った後も、ヒナガは名状し難い想いに囚われ続け、母が帰宅していたのにも気付かず、肩を叩かれるまでぼんやりと座敷に座り込んでいた。
「シュンコウ君は、もう帰ったの? ゆっくりしていけばいいのに……何、あんた、具合でも悪いの? それとも、シュンコウ君と喧嘩でもしたの?」
「お帰り、母さん。喧嘩なんかしてないよ。一寸、考え事をしていたんだ」
母は、暫くヒナガの顔を見つめ、軽く「そう」とだけ言って、夕飯の準備を始めた。
夕飯を済ませ、床に入ってからも、ヒナガは中々寝付けなかった。
(何故こんなに、落ち着かない気持ちになるんだろう)
シュンコウが任された仕事は、これから先を占うものだ。大きな仕事を任される友を、誇りに思うべきだろう。だが、ヒナガの心を蝕むのは、足元が寒くなるようなじわじわとしたものだ。焦りに似たそれは、次第に重みを増し、何時しか真っ黒にヒナガを塗りつぶしてしまいそうで恐ろしかった。
彼に対する嫉妬だろうかと思った。自分より先を歩く彼を羨み、置いて行かれたような心細さを感じたのかと思うと、自分が腹立たしかった。
(いい歳をして、情けない)
態々会いに来てくれたシュンコウに、気の利いたことも言えず気を悪くしていないだろうか。
思い浮かぶ彼の顔は、いつも通りの穏やかなものだった。
翌朝、ヒナガがミズナの家に向かうと、いつもならまだ寝ている筈の家主が既に起きて、茶を飲んでいた。
「お早うございます、先生。今朝は早いですね」
「……おう。お前は酷い顔色だな」
ミズナは片眉を上げ、ヒナガの分もお茶を淹れると、座るよう促した。
「昨日、シュンコウが来て話は聞いた」
それから暫く、村の合併の事について話し合った。
「神殿では、人間が他の生き物を駆逐しない様、出来るだけ居住空間を集中させて自然を残すのも狙いの一つだと言ってるらしいが、そんなに上手くいくもんかねぇ」
アイツは貧乏くじを引いたんじゃないかと、ミズナは珍しく心配そうな顔をしていた。
「え?」
「アイツから聞いたんじゃないのか?」
ヒナガは、口ごもった。
「今回の仕事の目途がついたら、もっと遠くに行くかもしれないとしか……」
ミズナは、成程な、と小さく呟き、ヒナガをじっと見詰めた。ヒナガは、何故かミズナの目を真っ直ぐ見る事が出来ず、俯いて黙り込んだ。
「今回の件は、そう悪い話ではないとは思う。だが、労力も費用もかかるものだ。もっと準備に時間をかけてもいい筈だ。それに選抜された神官達の殆どが、魔術使いと近しい自然科学に明るい者達だ。小さな村であっても、建築関係や算術、それだけじゃない、都市計画には色々な技術が居る。それに、村付きの神官経験者が殆どいない。どう結果が転んでも構わないと思っている輩が居るとしか思えない」
会議の中心部のなかで、一部の神官が人間主体の体制を築きたいと考えている。その為に、魔術使いや、それに同調すると思われる神官を神殿から遠ざけようとしていても不思議ではない。ミズナはそう言っているのだ。
「ソイツ等も、他を軽んじている訳ではない。他の生き物同様、ただ、人間という種を繁栄させることに必死なんだ。止めきれなかったのは、ソイツ等なりに真剣で考慮の余地もある話だったからだろう。魔術使いも、大地から人間を隔離すべきだと言っている者だっている。でもな、アタシもお前も良く知っている筈だ。アカネ月が、ファイが護りたい世界が、どんなものなのか」
所詮、子供の理想の世界なのかもしれない。だが、確かに自分達はファイに約束したのだ。全ての魂が、緩やかに絡み合いながら廻る、美しい世界を共に護ると。
「それに、話に裏が在ろうが無かろうが、今更シュンコウの立場は変わらない。アイツを助けることがファイとの約束を守ることになるなら、お前はシュンコウと一緒に行ったらどうだ。憎からず思ってるんだろう?」
ミズナの最後の言葉に、ヒナガは狼狽した。
「何、言ってるんですか、憎からずって……シュンコウさんに……シュンコウさんは、男性ですし……普通はそんな……それに、僕はこの村の神官ですし、勝手に居なくなる訳には……」
もごもごと口の中で何か言っている弟子を見て、ミズナは片眉を上げた。
「なんだ、自覚してなかったのか」
仄かな想いを抱くのは、何時もヒナガの手の届かない人だ。例えば、隣家に住んでいた、姉とも慕う芯の強い優しい女性。例えば、その夫となった照れ屋で一途な男――。
ヒナガにとって、性別は絶対的なものではなかったが、その想いが一般的ではないことは解っていた。それでも、憧れを抱いた二人が、幸せにしているのを見るのが好きだった。羨ましいとさえ思わなかった。
だが、シュンコウへの想いはそれとは全く違う。暖かく、自由で、呼吸が楽になるような、己の身体の一部の様なものだ。一緒に居る心地良さに、隣に彼が居ない未来を思い描けなかった。もう会う事が無いかもしれない、そう言われたあの時、暗闇に放り出されたような心細さに震えそうになった。味わった事の無い恐怖に呑み込まれそうだった。
そして、思わず自分は言いかけたのだ。
「行かないで下さい」
と。
その意味に気付き、ヒナガは真っ赤になった。
「そんな……」
「魂は複雑だ。求めるものが、子孫繁栄に直結するものとは限らない。様々な生き物に同性の番が一定数存在するのは、よく知られていることだ。色々言う奴は居るだろうし、それはそいつの自由だ。それと同じ様に、お前が誰を選ぶかも自由だ。普通なんて言葉、人間の数だけあるんだ。お前が人の分の普通を決めるな。
村には、最低神官か魔術使いのどちらか一人でも居ればいいんだ、アタシが居るんだから問題はない。お前の好きにしていい」
ヒナガは、自覚したばかりの心を持て余してばかりもいられない事に気が付いた。自分の気持ちと相手の気持ちが同じとは限らない。まして、シュンコウも自分も同性だ。自分は兎に角、普通なら気持ちを伝えた時点で関係が壊れてしまう。そう思うと恐ろしかった。
それに、この村には母とミズナが居る。ヒナガにとって、誰より大事な二人だ。
「自分がどうしたいのか考える時間を下さい……先生、恨みますよ」
泣きそうな顔でそう言ったヒナガに、ミズナはニヤリとした。
「アタシは、お前の珍しい顔を見られて実に満足だ。答えが出たら、一仕事頼みたい。術に使いたい数式がある」
早々に家に帰って来たヒナガの顔を見た母は、何も言わず自分の隣にヒナガを座らせた。
暫くの沈黙の後、ヒナガが口を開いた。
「もし僕が村を出る事になったら、母さんどう思う?」
母は、ちらりと息子を横目で見た。
「理由にも因るけど、あんたが望んでの事なら反対はしないわよ。何、あんた、ここを出てくの? 仕事?」
「仕事でもあるけど、もっと個人的な事なんだ……二度と会えない程遠くに行ってしまうかもしれない人に、付いて行きたい。離れたくないんだ。その人の手助けがしたい」
「……それで?」
ヒナガは、まだ迷ってると告白した。
「母さんと二度と会えなくなったら、僕は自分の親不孝を許せない」
母に、頭を軽く叩かれた。
「あんたが親不孝かどうかは、あんたじゃなくてあたしが決める事よ。あんたがそれを言い訳にしようとしてるなら、よっぽどそのほうが親不孝だわ。あんたが誰かを幸せにして自分も幸せになるのなら、あんたに一生会えなくなったって、わたしも幸せなの。だから、あんたの好きにしなさい」
母の優しい笑顔を見て、ヒナガの眼に涙が浮かんだ。無条件に自分を愛してくれる母に、ありがたくて言葉が出なかった。そして、次に母の口から出た言葉は、ヒナガから更に言葉を奪った。
「シュンコウ君は、何て言ってるの?」
目を丸くして母を見つめる息子に、彼女も驚いた。
「え? 離れたくない相手って、シュンコウ君のことよね? 違った?」
「違わない……けど、何で」
驚きの余り涙も引っ込んでしまったヒナガの顔を見て、母は吹き出した。
「そりゃ、母親だもの。え、あんた、今更そんなことで悩んでたの? て言うか、まさか気持ちも伝えてないの? 悩む気持ちも解らなくもないけど、一人で考えててもしょうがないでしょうに」
尤もな事を指摘され、ヒナガは正直に言った。
「男同士だし、屹度、拒絶される。関係が終わってしまうのが怖いんだ」
情けない顔を見られたくなくて、ヒナガはまた顔を伏せてしまった。そんな息子に、母は微笑み乍ら言い聞かせた。
「それは、どんな相手でも同じよ。断られるとしたら、あんた自身にそれだけの魅力が無いからよ。それに、仕事で二度と会えないのも、拒絶されて二度と会えないのも、結果は同じじゃない」
「……それはそれで傷つくよ」
悩んでいたことが嘘の様に、肩から力が抜けた。
「あたしはあんたの仕事の事はよく解らないけど、シュンコウ君の助けになりたいなら、一緒に居る以外にも方法はあるんじゃないの? それでも気持ちが動いたなら、それにちゃんと向き合いなさい」
ヒナガは決心した。
出立をひと月後に控えたある夕刻、北の神殿のシュンコウの部屋の扉が控え目に叩かれた。
扉の前の姿にシュンコウは驚いた顔をして、それから何時もの穏やかな笑顔でその人物を迎え入れた。
「いらっしゃい、ヒナガ君。どうしたの? 仕事? あ、もしかして見送りに来てくれたのかい?」
ヒナガは、何度か訪れた事のある部屋を見渡した。旅支度を進めているのだろう、以前よりもがらんとした部屋は、初めて見る場所のようで、胸がどきどきした。
「色々片付いてなくてごめんね。適当に座って。ん? どうしたの?」
立ち尽くすヒナガに、シュンコウは訝しげな顔をした。
ヒナガは、一度口元を引き締め、シュンコウの目を見詰めた。震えそうになる手を握りしめ、それでもはっきりと口に出した。
「シュンコウさんに、お伝えしたいことがあるんです。
僕を一緒に連れて行って下さい。貴方と居たいんです」
シュンコウは、息を呑んだ。
どれ程沈黙が続いただろうか、ヒナガから目を逸らし俯いたシュンコウは、ポツリと言った。
「無理です」
ヒナガは、目の前が真っ暗になった。
「迷惑、ということでしょうか」
「迷惑だなんて、とんでもない。でも、無理です。私と君の気持ちは、屹度違うものだから。
以前、君は私に、何故、動物行動学を目指したかって聞いただろう? 私は、神官になる為だと答えた。家業を継ぐのも無理だと感じていたし、何より結婚というものに囚われずに済むからだ。私の両親は、結婚しない者を一人前とは見てくれない人達だった。彼等は別に悪くない、大抵の者がそう考えているだろう。でも、それに応える事は私には出来なかった。
つまりね、私は女性が駄目なんだ。そういう意味で女性を愛せない」
ヒナガから目を逸らしたまま、シュンコウは続けた。
「私は、ずっと前から君が好きなんだ。本当は、友人だなんて思っていない。だから、そんなことを言われると期待してしまうんだよ。
今度の件は、本当に君の友人になれる最後の機会だと思った。自分も君も裏切りたくない。だから、無理なんで……」
シュンコウの言葉を聞き、ヒナガは、よく回らない頭で考えた。
あれ? 僕は、肝心なことを言ってないんじゃないか?
そして、慌てて口を挟んだ。
「すいません、順番を間違えました。僕は貴方が好きなんです。貴方を愛してるんです。出来れば生涯を共にしたい、そういう意味の好きです。そして、貴方も同じ気持ちだと思っていいんですね……いいんですよね?」
確認するように問われ、シュンコウは、ゆっくりと顔を上げた。目が合った瞬間、二人は真っ赤になった。
「恰好つかない告白になっちゃいました……」
「私は男で、年上だし、その、容姿だって、特別素晴らしい訳でもないし……君と違って、才能がある訳でもないし……」
互いに呟き、やがて、シュンコウはヒナガの手を取った。
「こんな私だけど、一緒に居てくれますか?」
「貴方の笑顔が好きです。傍に居て下さい」
二人は微笑み、顔を寄せ合った。
その夜、二人は様々な話をした。
「白状すると、私は初めて図書室で君を見た時から気になっていたんだ」
あの頃のヒナガは、あるものを見付ける為に必死だった。どんな手がかりでもいいと、あちこちの神殿を訪ね、食事もそこそこにあらゆる書物を漁っていた。取り憑かれた様なその姿は、シュンコウには羨ましさを覚えさせるものだった。
「あんなに真剣に取り組むものがあるというのは、どんな気持ちなのかと思ってさ」
目が離せず長いこと見つめていると、ヒナガがふと顔を上げ、窓の外に目を遣った。そこにはなんてことの無い景色があるだけだったが、途端に頼りない子供の様な眼差しで眩しそうにするヒナガに、シュンコウは心を囚われた。それからは、ヒナガが神殿を訪れていると聞くと、必ず図書室へ通った。
「おかしいと思わなかった? 私は動物学が専門だ。授業が無ければ、自然観察の為に外に出ていて殆ど神殿内には居ない、そういう仕事の筈だろう?」
そう悪戯っぽく言われ、ヒナガはぽかんとした。
「言われてみれば、確かに……え、僕、そんな顔してるんですか?」
シュンコウは含み笑いをして、たまにね、と言った。今迄見たことのないシュンコウの表情に、この人はこんな顔もするのだと、ヒナガはぼんやりと見惚れた。そして、もっと色々な彼を知りたいと感じた。
「そんなに話すような事なんてないよ」
笑ってそう言い乍らも、シュンコウはヒナガの要望に応えた。
図書室で親しく会話するようになり、どんどん気持ちが大きくなって、喜び半分苦しみ半分だったこと。
シュンコウには一つ下の弟と年の離れた妹がいること。
父は腕の良い猟師で、母はその獲物の皮を使う革職人だということ。
幼い頃から猟に連れ出され、それが嫌でよく父の邪魔をしたこと。
「父は弓も投石も巧かったけど、効率よく獲物を取る為の罠作りが一番得意だった。私は逆。弓なんかは我ながら巧いものだったけど、罠猟は苦手だった。罠に掛かった獲物は、屠られる時まで長く苦しむ。私はそれが嫌で、こっそり罠を壊してまわってた。お蔭で、罠の構造や仕掛けをする場所に詳しくなった。それが今の仕事に活きてるんだから、不思議なものだよね」
そんな息子に手を焼き、シュンコウが十二歳になると、父は勝手に許嫁を決めてきてしまった。家庭を持てば、考え方も変わるだろうと期待したのだ。幼馴染のその少女とシュンコウは仲が良かったが、それは兄妹のようなものだったし、彼女には他に気になる男がいることも知っていた。逃げる様に、シュンコウは神官になることを決めた。
「そうだったんですか。すいません、余り話したくない事でしたか?」
ヒナガが詫びると、シュンコウは微笑んだ。
「そんなことはないよ。ただ、私の情けない過去を知られて、君に呆れられたら困るなとは思ってるけど」
「貴方が神官になってくれたから今があるんですよね。情けないどころか、その決断に感謝しかありません。それに、僕の一世一代の告白の方が、よっぽど情けなかったですよ。思い出したら、恥ずかしくなってきました。
でも、許嫁の女性はどうなったんですか? 婚約者に、その、逃げられた訳ですよね」
「今は意中の男の妻になって、とても幸せだってさ。子供も、もう二人も居る。彼女は、私の弟の妻なんだ」
彼女はシュンコウの質を知っていたから、義理の兄となったシュンコウを案じてくれていた。自分と同じ様に、誰かと幸せになって欲しいと、いつもそう願ってくれているのだ。
「私がとっくに諦めていた幸せを、私の代わりに願い続けてくれたんだ。そういえば、少し君の母君に似ているかな。案外豪快なところとか」
シュンコウは、ヒナガの母の事で気を揉んでいた。ヒナガが彼女をどれだけ大切に想っているかよく知っていたし、彼女にとっても大事な一人息子だ。想いが通じ合っても、手放しで喜ぶことは出来ない。やはり、君は村で暮らすべきじゃないのかと切り出すと、ヒナガは苦笑いをした。
「母さんには、想いが通じたなら帰って来るなって言われてます。でも、もし想いが通じなかったら、通じるまで帰って来るなとも言われてるんです。あの人の言う事は、無茶苦茶なんですよ」
シュンコウはその意味に気付き、泣きそうな顔になった。
「無茶苦茶に、素敵な人だね」
そうでしょう、と、ヒナガは得意そうに言った。
ヒナガは、村の神官経験者として、また、算術の専門家として、シュンコウ達と同行する事になった。どうやらマヤの口添えがあったらしく、ヒナガが加わることに表立って反対する者は居なかった。
新しい村での生活は、毎日こまごまとした問題が出て来たが、解決出来ない程のものではなかった。選ばれた神官も魔術使いも皆優秀だったし、新たな住人達も、近隣の村も、互いに協力的で穏やかな気質の者ばかりだった。懸念材料の一つだった生態系への影響は皆無とは言えなかったが、出来る限り最小限に抑え、空き地となった元集落に様々な生き物を誘導し、水路を分け、彼等が住めるように工夫したりした。村の立ち上げはそれなりに順調といってよいものだと言えた。
そんな生活が二年程も続いただろうか、ある日、二人に割り当てられた家を訪ねて来た人物が居た。
「お久しぶりです、ミズナさん。お会いできて嬉しいです。相変わらず、綺麗ですね」
「先生、こんなところに来るなんて、何かやらかしたんですか?」
ミズナは弟子の頭を軽く叩き、少しはシュンコウの挨拶を見習え、と文句を言った。
「今日のアタシは伝令係だ。神殿のおっさん達に頼まれて、決定を伝えに来た。まあ、お前達の顔も見たかったし、引き受けてやったんだ」
ヒナガの淹れた熱いお茶を飲みながら、ミズナは概要を教えてくれた。
「後程、皆にも改めて話すが、そろそろ計画の次の段階へ移行する事になった。この村に残る神官と魔術使いは、お前達で相談して決めてくれ。まだこの村に必要な人員は、残っても構わない。ただし、あくまで神殿の神官と魔術使いとしてだ。いずれは元の神殿や役職へ帰ってもらう」
シュンコウは首を傾げた。
「神殿? 私達は、次の村作りに派遣されるのでは? 次の候補地が決まってないんですか?」
「村の運営はお前達の努力で上手くいってるが、やはり計画を急ぎすぎた感は否めない。想定よりも、生態系保護の予算が掛かっている。今後計画を進めていく為には、現場を知っているお前達の意見は欠かせない」
ヒナガは、にっこりとした。
「予算をケチらず使った甲斐がありました」
シュンコウは、ヒナガをちらりと見て、ため息をついた。
「どうりで気前よく予算を使ってた訳だ。皆も、君が爽やかな笑顔で『大丈夫、良い仕事の為ですよ』なんて言うと、疑いもしないんだから。本当に質が悪い」
「経理に明るい人が居ないから、僕が一手に引き受けただけです。それに、無意味に使ったり不正行為を働いたわけじゃないですよ。ほら、僕達、時間が限られているじゃないですか。だから時間をお金に換算したというか、ね。結構大変だったんですよ、許されるかどうかの、ギリギリの範囲で使う予算を増やすの」
「よくやった。この計画を急がせた御仁達は、微妙な立場になったようだ」
師弟は目を合わせ、にんまりとした。
シュンコウが疑問を口にした。
「ですが、新しい村作り自体はおかしな話ではないでしょう? 私達を蚊帳の外に置いておきたい方達は、遅かれ早かれ村作りが必要なら、今の内に進めるべきだと言えば不自然ではない。彼等にとって、生態系の保護と共存は最重要事項ではない、自分達と相違の意見は切り捨ての対象です。予算を減らす方法を考えろと言い出すでしょう。何ならそれを口実に、目障りな人間を増援と言う名目で僻地に送り兼ねないのでは? 何故そうならないんでしょう。急に自然共存派になったとでもいうんですか?」
「さあな。夢見でも悪いんじゃないか? 目の下にくっきりと隈を作っていたからな。人間に狩られる野獣になった夢だの、人間しかいない世界で共食いする夢だのでも見続けたのかもなぁ」
「……それは、術を使った洗脳……」
ヒナガが、シュンコウの口を片手で覆った。
「滅多なことを言うのは感心しないですよ。そもそも誰が術をかけたっていうのかな? 証拠なんて無いですよね、先生」
「当然だ。脳の電気信号に割り込む上、術の痕跡を消すような面倒くさい術も使ったとしたら、高度な数式でも無けりゃそうそう上手くいかないだろう。そこらの魔術使い如きが作れるもんじゃない」
ヒナガの手から自由になったシュンコウは、高度な数式ね、と呟き、窓の外に目を遣った。
「互いの意見を尊重し合えるなら、今より素晴らしい世界が拓けそうで何よりですよね」
ミズナは頷いて、もう一つの用件を切り出した。
「神殿の決定とは真逆の話でもあるが、この村の事を知った他の集落から要望が出ている。自分達も新しい生活を望むというものだ」
要望が出た集落の内の何ヵ所かは、幾つか候補に挙がっていた土地の周辺だったこともあり、計画を進めるのも悪くはないという話も神殿内で持ち上がっているのだ。
「お前達の報告次第で、計画の延期か続行かが決まる。続行となれば、新たに人材を募り本腰を入れての事業になる。そして、今回派遣された者が希望すれば、優先的に村作りに参加することが可能だ」
ヒナガとシュンコウは互いの顔を見遣った。
「早速、皆と相談して報告書を書かなければね。要点、改善点は大分洗い出せたんじゃないかな」
「経費削減は任せて下さい。時間的にゆとりがあるなら、一番割合の大きい人件費の使い処も変わって来るしね」
ミズナは満足そうに微笑んだ。
「結構。仕事の話は取り敢えずこんなところだ。細かなことは、後程皆の前で話す。ここからは個人的な話だ。手紙のやり取りはしているだろうが、一応報告しておく。ヒナガ、お前の母さんは、病気一つしていないから安心しろ。彼女に伝える為にも、お前達の現状を知りたい」
二人が周囲から浮いているのではないか、それにより不都合が生じて無いか、母とミズナはずっと心配していたのだろう。辛い思いをさせたくないという心遣いが嬉しかった。
「僕達のことは、特に隠しても公言してもいません。聞かれたら正直に答えてはいますけど。でも、意外と皆さん、其処には無関心というか……」
「私も、人の恋愛事情なんかより、自分が今日食べる夕飯の献立の方がよっぽど重要だって言われたよ。気を使ってくれてるんだろうけど、他の喩えはないのかいって、笑っちゃったよ」
向けられる視線が、優しいものばかりとは限らないだろう。それでも、互いの為に強くあろうと決めた二人の笑顔は穏やかだった。
その顔はミズナを安堵させた。
数年後、ヒナガとシュンコウは、次に派遣された村の神官として共に暮らし始めた。
「行ってきます、シュンコウさん。帰りは五日後の予定です。お土産の希望は?」
「行ってらっしゃい。気を付けて。母君によろしくね。お土産は、彼女が作ってる香草たっぷりの塩漬け肉が嬉しいな」
「了解」
サンガ神殿近くの新天地で、二人は人生を過ごしてゆく。
今日という日常を、二人の普通にしながら。
そして、二人はいつも通り抱きしめあった。