32歳
真新しい水色のランドセルを防波堤の上に投げ出して、砂浜へ駆け出す少女。
数秒遅れてリードから解放された白い大型犬が、あっという間に彼女を追い越していく。
夕凪の波打ち際で戯れる、一人と一匹。
「寒くないのかな、アイツら」
「あの年頃はね、そんな感覚持ち合わせてないのよ」
「帰ったらすぐに風呂場に放り込まないと」
「任せるわ。ご飯作るから、私」
「晩メシ、なに?」
「竹の子ご飯。竹の子の煮物とバター醤油炒め。あと、お味噌汁。もちろん竹の子入り」
「春恒例の嫌がらせメニューか」
「仕方ないじゃない。アンタの実家からの差し入れなんだから」
「そこをなんとかやりくりして、料理がカブらない様にするのが主婦の腕の見せ所」
「どれだけの量あると思ってるのよ。無理。ってか、主婦じゃないし」
その拗ねた口調が可愛くて、わざと大きな溜息を吐いてみせると、二の腕をピシリと叩かれた。その眼差しは砂浜を駆け回る一人と一匹を眩しそうに捉えている。
今日の少女は「両手で掬った砂を空に放り上げて浴びる」という遊びを思い付いたらしい。相棒も巻き添えを食らって、既に砂まみれ。楽しそうだな。しかし、風呂が思いやられる……
「ところで、さっきからなんで片膝突いてるの、私の前で」
「いや、これにはイロイロと事情がありまして」
「あと、後ろに隠してる小さな箱、なに?」
「だからちょっと待てって。こういうのって、心の準備が必要なんだから」
「さんじゅーびょー経過」
「くっそ。やっぱやめとこうかな」
「そうだよ? バツイチ三十路女、しかも娘はこれから難しいお年頃。他を探したら?」
「そんなの、もう手遅れだよ」
「フフッ。じゃ、早くしてよね。晩御飯が遅くなるよ?」
「うっさい。ちょっと黙ってろよ……」
二の腕を掴んで抱き寄せ、あの頃より少し丸みを帯びた顎のラインを指先でなぞる。
くすぐったそうに顔を逸らせようとする彼女の動きを強引に封じて、細い喉に唇を寄せた。二度、三度と首筋に口付けを降らせる。
「ちょっと! こんなところで」
「この角度から見る顎が好きなんだ、オレ」
「ん、んん? ありがと?」
「だから…… ずっと見ていたい」
「……え?」
「いや、だから。この頬骨の柔らかい膨らみと、スッと伸びる面長な顎骨とのコントラスト。これ、なかなか良いよね」
「はぁ、どうも」
「だから、ずっと見ていたいって言ってるんだけど」
「それってひょっとして」
「ひょっとしなくても」
「そういうこと?」
「この一週間、寝ずに考えた」
「ずっと気持ち良さそうにイビキかいてたけど?」
「それ、寝てるフリね」
「ってゆーか、顎!? プロポーズの言葉がそれなの?」
「在り来たりなのはイヤだって、前に言ってたし」
「いや、それにしても…… だいたいさ、さっきのひざまずいてたポーズ、全然関係なくない?」
「いや、やっぱりほら、オレ達って日本人だなって思い直した」
「離して」
「イヤだ」
「離してって。ちょっと考えさせてもらうから」
「ダメ。やっと捕まえたんだし。もう離さない」
「あ、それ、ちょっと良い。もう一回聞かせて」
「照れ臭い」
「もう一回…… ん」
少し風が出てきた。海風と陸風が入れ替わろうとしている。
潮の香りに包まれながら、彼女の豊かな唇に自分のそれを沿わせる。
唇で唇を撫でる。薄く、軽く、微かに触れるだけ。代わりに、鼻と鼻をグッと擦り合わせる。二人でクスクス笑いながら、徐々に深く、挑発する様に唇を重ねる。触れた舌先から甘さが広がって、全身に染み渡っていく。
「うわ! 大人がちゅーしてる!」
いつの間にか戻ってきていた少女、それからチビの気配。声が聞こえた方に手の平を広げて、もう少しだけそっとしておいて欲しいと伝える。
そう、あと少しだけ。
せめて、この夕凪が終わるまで。
(了)