聞きたかったのは…。
「高峰くん。これ、明日までにやっといてもらえる?」
「なんですか、これ……。」
「明日の会議資料だ。パソコンを使い慣れているキミなら直ぐ終わるだろう。」
「はぁ……。」
「大丈夫。明日会社にきて会議前にパッと印刷できれば良いから。」
俺が帰宅しようとパソコンをシャットダウンし始めたのが夜8時45分。まさか、部長からこのタイミングで資料作りを任せられるとは思わず、力が抜けた。これまで部長からもらっていたデータを使いながら、部長に手渡されたラフを見て資料を作っていく作業。確かに俺でも十分にこなせる仕事ではあるが、帰ろうとしている俺を捕まえてやらせるのはやめて欲しかった。今日こそは同棲している彼女と家でゆっくり過ごす予定だったのになぁ……。一度、光を失ったパソコンを再び起動した頃「じゃあよろしく」という声と共に、その部長は取引先との懇親会に参加するため会社を出てしまった。
スマホを立ち上げてとりあえず美穂に「今日は遅くなる」というメールを送り、急いで作業を開始してみたが、あまりに曖昧な表現の多いラフだったこともあり、かなり時間がかかるだろうことは自明だった。
「うわぁ……。高峰、面倒なもの押しつけられたなぁ。」
「先輩、助けてくださいよ~。」
「俺も自分の仕事があるから、それが終わったらな。」
「そうですよね……。」
誰もいなければ大きくため息でもつきたいところだが、先輩社員が数名残っている以上、それさえも出来ない。こういうのも仕事だと割り切った俺は、A4の紙に部長からのラフを転写複製して、そこに改めて構想を書き加えていった。10枚の資料だが、このペースで行くと、終電に乗れるかどうかといったところになりそうだ。
◇◆◇◆◇
「お先に失礼します!」
「お疲れ様です。」
僅かにいた先輩社員もどんどんと数を減らし、残業組は俺と先輩だけ。その先輩もたばこ休みとか言いながらオフィスを出て行ってしまった。
いつも大勢の人がいる部屋にぽつんと一人。別に珍しい現象でもないが、一時はいつもよりも早く帰れる心づもりになっていたせいもあって、いつもよりも感じる精神的ダメージは大きかった。作業が終盤にさしかかってきたこのタイミングでの独りぼっちはもはやとどめに近い。
そんなことを思っていると、ふいにオフィスの扉が開いた。
「高峰、まだかかりそうか?」
「あと少しで終わると思います。」
「じゃあ、これ飲んでラストスパート頑張ってな。」
渡されたのはホットの缶コーヒー。心も体も温まる心遣いに感謝しつつ、言われたようにラストスパートをかけた。自分の席に戻った先輩も同じものを自分用に買ってきたようで、少し深く椅子に腰掛けながら、それを一口飲んだ。
「先輩……いつもすみません。」
「気にしなくて良いよ。とりあえず、明日にも響いちゃうから早く終わらせて帰ろう。」
「はい!」
二人しかいない会社の無言・無音空間でカタカタというキーボードを叩く音がひたすらに響くこと、さらに2時間。
「先輩出来ました!」
「ちゃんと校正は掛けたか?」
「はい!」
「お疲れ様。俺もちょうど終わったところだ。早く帰ろう。」
「印刷は明日で良いんですよね。」
「そう言ってから、そうだな。じゃあ鍵閉めるから出てくれ。」
「承知しました。」
帰る準備はかれこれ3時間以上前に完成していたので、それを達成するのに時間はかからなかった。
「じゃあ、俺はこっちだから。」
「お疲れ様でした。」
「明日も宜しくな、高峰。」
「宜しくお願いします。」
別の地下鉄の駅に向かう先輩の背を確認してから、自分も速やかに駅へ向かい、満員の終電に乗り込んだ。とはいっても、2駅先なのでほんの少しむさ苦しいのを我慢しただけで家から徒歩3分の最寄り駅に到着することができた。そのまま駅の前にあるコンビニへ。デザートコーナーへまっすぐに向かい、ショートケーキを2つ手にとってレジへ。432円で買ったそれを倒れないようにビニール袋に入れてもらい、改めて自宅へ向かった。
「ただいま~。」
鍵を開けて、家の中に入る。すると、廊下の先にあるリビングの灯りが付いていることに気がついた。廊下とリビングを隔てる扉を開き、中に入ると、学校の授業中と同じように顔を突っ伏した体勢でセミロングの黒髪をもつ女性が寝ていた。
「美穂、こんなところで寝てると風邪引くぞ。」
「……あっ、宏樹?」
「ただいま。遅くなっちゃってごめんな」
「大丈夫……おかえりなさ~い。」
座ったままこちらに体の向きを変え、俺の腰辺りに腕を回したまま抱きついてきた。どうやらまだ大分寝ぼけているようだ。いつもはパッチリとしている彼女の目は寝起きのためか細くなっていたのがその証拠だ。彼女目は弧を描き、彼女が嬉しそうな表情をしていることを伝えてくれた。そこからの上目遣いは正直反則だ……。
「これ、ケーキ。今日、付き合って丸5年だろ?」
「覚えててくれたんだね……嬉しいなぁ~。」
「こんなものしかなくてごめんな。」
「ううん。十分すぎるくらいだよ。」
レジ袋の中から二つを俺の普段座る所と、自分が座っているところにケーキを置いた美穂は本当に嬉しそうにニコニコと笑っていた。なにやら奥の方からライターを持ってきたが、誕生日じゃないし、ろうそくもないからとそれをもとの棚に戻した。少しずつ目を覚ましてきた彼女の頭を数回撫でてから、美穂と対面するその位置に座り、付属のフォークを使ってケーキを食した。
「コンビニのケーキっておいしいよね。」
「本当にな。でも、今回はコンビニのでごめんな。」
「一緒に食べればなんでもおいしいから私は平気よ?」
「俺もだよ。」
「それならよかった~。」
「でも、こんな時間までこんなところで待ってもらっちゃってごめん。」
「ねぇ……宏樹。」
「ん?」
「さっきからずっと謝ってるけど、私に謝る必要なんてないんだよ?」
「ごめ……あっ。」
その瞬間、彼女はふいに吹き出し、あははと声を上げて笑い始めた。
「なんで笑ってるの?」
「だって可愛いんだもん、宏樹!」
「からかわないでくれよ~。」
ケーキを食べ終え、頬杖をつきながらゆっくりと食べていた俺を眺める美穂。
「どうしたの?」
「なんでもない。好きだなぁって思ったの。宏樹のこと。」
「ありがとう。俺もだよ、美穂。」
心地よい間と、止められない照れ。それを隠すように残りのケーキを一気に平らげ、一気に飲み込んだ。
「あのね、宏樹。」
「な、なに?」
こちらに向かって数歩歩くと、俺の顔を一気に自分の胸に抱き寄せた。そのまま動けなくなった俺の頭をそのまま1回、2回……と数回撫でた。
「ど、どうしたんだよ、美穂。」
「……今日も一日お疲れ様。いつもありがとう。」
聞きたかったのは、あなたのその言葉。




