慈愛の女神さまの誕生録
かつてこの世界には生ける者どもをすべからく愛し、慈愛というものを教え諭す女神がいた。
汝、愛を知りなさい。
汝、愛を識りなさい。
汝、自身を愛しなさい。
汝、隣人を愛しなさい。
汝、慈愛を以って生を送りなさい……
……かの女神の教えは107にのぼると世間一般に伝えられている。秘匿されたある一節が存在することを知る者は驚くほど少ない。現在でこそ研究が進んだおかげで一部の聡明な有識者はその実態を知り得ているが、呪われた古文書『放射的ミサ、あるいは慈愛のサバト』の解読が進まなければ得られはしなかった知識の一つだ。信じ難き、冒涜的とさえ言える知識の中でも、かの女神に関する知識は格別に猛毒であると言える。
ここまで私の論書を読み進めたあなたは、相当のへそ曲がり、言うなれば統一教会の悪性腫瘍──しかもとびきりの──であろう。もちろん、かく言う私も教会には毎夜足を向けて横になりながら悪魔会についての古い蔵書を読み漁り、得難い智見を貪っているような卑しい身であるが。
なればこそ、この先に進むことさえも恐れはしないであろう。私はそう信じている。あなたのような世界の敵となりうる存在こそ、私の求めた人材であるからだ。
……真実とは格別の美酒である。しかもそれは鉛の鍋で沸かされた、大層手間のかかった一品だ。
拒むことはあるまいよ。
すでに皆、罪にまみれているのだから。
第106節
汝、血を愛しなさい。
第107節
汝、屍を愛しなさい。
第108節
汝、この世に存するすべてを愛しなさい。
清いも穢れも全てを受け入れ、愛し、愛し尽くす女神。統一教会から疎まれた爪弾き者の女神、イシュタール。赤子を舐め、屍に口付けをする慈愛の女神。
統一教会の絶対悪にまで愛を振りまくわけにはいかないと、女神が人に伝えた神の言葉、その大部分は失われた。
されど女神は愛を振りまく。
生者、死者問わず。
聖者、魔人問わず。
……とそんな設定でロールプレイしていたのが、最先端の三歩先を行くウルトラなオンラインゲーム『アンダーワールド』だ。初心者にもとっつき易いと評判のオンラインゲームで、実際オンラインゲーム初心者の俺にとっても非常に優しい仕様だった。
しかし、ビギナーにも優しいのは『ほのぼのビギナーわーるど』という、アンダーワールドの中でも隔離された一部の世界のみで、アンダーワールドの全てを楽しむならばそこから外の世界へと飛び出していかなければならないのだ。
外の世界にはビギナーわーるどにはないあらゆる要素がある。PKもあるし、超絶レイドBOSSも頻繁にポップする。だがそれ以上に特別なのは、人との関わりあいだった。
聖人と拝みたくなるほど親切なプレイヤーがいる。悪魔と罵りたくなるほど残忍なプレイヤーがいる。抜け目のない商人ロールプレイヤーもいれば、本職と見紛うほどの詐欺師もいた。思わず平伏したほど"らしい"お姫様がいた。四六時中街頭演説をしながら、統一教会なる宗教に入信しないかと教えを説き続ける聖職者がいた。
いろんな人がアンダーワールドにはいた。自分の言いたいことも言えないような抑圧された現実から解放された俺たちプレイヤーは、自分たちの手で、自分たちの好きなように世界を楽しんだ。
中でも俺が好きだったのは、プレイヤーたちの設定を読むことだった。
プレイヤーは自分の設定を自分で書き込むことができる。設定がステータスやスキルに影響することはもちろんない。だが、自分で考えた設定を他人に見せることはできる。もともと設定魔だった俺は、それはもう盛大に己のあるがままを解放してペンを走らせた。
イシュタールという無個性なアバターを自分の手で彩ることができるのだ。おまけに、親しくなったプレイヤーに自分の設定を見せれば、さらにイシュタールというキャラについて知ってもらえる。イシュタールというロールプレイに、根幹からの理解をしてもらえるのだ。
外の世界では友達の少なかった俺でも、地下世界でなら愛を振りまける。
だから俺はたくさんの人の記憶に残れるよう、たくさんのプレイヤーとフレンドになった。
たくさんのプレイヤーと設定の共有をした。
ついでに沢山の書物を書き綴ってみたりもした。
多くは統一教会というロールプレイをしていた友人たちに「教会の異端め! 貴様のような女神など、後の世に遺してなるものか!」とお遊びで焚書にされたりしたが。しかし、燃やされれば燃やされた分だけ、俺の設定は増えてゆくのだよ。燃やされた文章は設定欄に書き写し、書き写し、書き写す。ビバ、文量制限撤廃(課金)。
ちなみに、課金すると設定画面から超過した分だけ本の形で表示されるようになる。最終的には辞書レベルの文量になっていたが……友人の姫様にも爆笑されたっけな。
オフ会なんかも特に親しかった友人たちとやったりした。感動してばっかりでなんか涙に始まり涙に終わったような気がしたけど、こう……すっごく楽しかった。みんなで酒飲んで、話しして、笑って……みんなで統一教会の教義を復唱したり、本当に最高の一夜だった。
あと姫様が本当に姫様だったのには驚いた。あと俺がネカマだったのにも驚かれた。
でも、いつかは終わってしまうのがこの世の定め。あと何十年でも続くと思っていた楽しい地下世界生活も、唐突に終わりを告げた。
アンダーワールドに接続したまま寝落ちしたら、気がついた時には見知らぬ教会で寝ていたからだ。
いや、それはもう混乱した。いつものように目が覚めて、欠伸しながら今日も仕事か死にたいなーなんてボヤいていたら、自分の喉から自分じゃない声が聞こえてくるのだ。凛々しさを感じさせる女性の声。甘ったるいだとか媚びるだとか、そんな感じを一切切り離した俺なら一発で惚れちゃうような声。
そんな声が伸びやかに俗っぽいことを口走っていて、俺は思わずどこにそんな女性がいるのかと見回したほどだった。俺だったけど。
アンダーワールド……というか、VR回線に接続した状態で寝落ちしたり気絶したりすると、自動的に接続が切れる仕様になっている。これはVRによる事件や事故を未然に防ぐための機能で、すべての利用者の延髄部に仕込まれている。この小型機械自体はVR回線とは何のつながりもなく、ただ利用者本人のバイタルとVR回線に接続しているかどうかだけを判断するものなので、これを利用して人を操ったりとかはさすがにできない。
だから、俺が寝落ちした時点で俺の意識は自分の体へと戻り、西日が辛いマンションの一室で暗い朝を迎えるはずだったんだけど……
「非常に謎である。あーる、あー、あーあー……」
いややっぱりこの声はあれですわ、俺のロールプレイしていたイシュタールの声ですわ。俺が頑張って組み上げた変声機を、もっと高性能にしてもっと微細な違和感を消し去ったら多分こんな感じになるとおもう。
「我々統一教会は人類に仇なす者の存在を認めません……おお、想像通りだぁ」
なんだかテンション上がってきたぞう!
しばらくして俺は我に返った。俺は何をしているんだ、と。
仕事もあるし、アンダーワールドだってある。今日だって久しぶりにみんなで狩りに行く予定だったし、そのために昨日寝落ちするほど準備をしていたのだ。今すぐにでも元の世界に帰りたい。
でも、ありとあらゆる手段を以ってしても、俺がこの身体を抜け出すことはなかった。
この身体には五感がある。触覚や視覚、聴覚はまだしも、嗅覚と味覚が存在するのは異常事態だ。VR空間でそれを再現するのは危険とされ、実装されていない。視覚や聴覚ですら悪用される懸念があり、実際に事件が起きた程なのだ。それらをこうも完璧に再現させられているのは、おかしい。
この身体には欲求がない。そう、無いのだ。
食欲も睡眠欲もせ……性欲もない。この声で「せいよく」っていうのなんか恥ずかしいな……
まあともかく、生きている人間ならば必要なものがさっぱりない。さしものVRであっても、欲求にまでアクセスして操作するのは無理だ。
それで、最後。
この身体には設定がある。
「我が書をここへ」
そう呪文を唱えれば、フッと手元に重みが現れる。辞書くらいの厚みがある、古びた書物の名前は『イシュタール』。つまり、俺の設定の超過分がすべて詰め込まれている。
ぱらりぱらりとめくってみれば、出るわ出るわと細かい字の山。我ながらよく考えたものだと思うと同時に、これらの物語はすべて真実であると俺の身体が胸を張って自慢してくるのだ。
何が言っているのかわからないとと思うが、つまり俺は無意識のうちにイシュタール本人としてイシュタールの人生を誇っていたのだ。
ますます言っていることが分からないぞ!
なんと言ったら良いのか。悩んだすえに思いついたのは至極簡潔な文章だった。
「『俺』は『私』になりました」
あの教会で目覚めた時から、俺は私でした。俺という意識は私に飲まれ、『イシュタール』にも刻まれていない設定となりました。ですが、私は私。俺こそが私なのです。
初めまして、私はイシュタール。統一教会の異端、慈愛の女神です。
なんつって。
「ふぅ……」
誰もいないはずの教会の中で一人の女性が分厚い本をぱたんと閉じた。読み古された書物は統一教会が発行する聖書のように厚く、しかし、そのどれらよりも古を感じさせる。銀細工の装飾は官邸級の細工師によるものであることが伺え、それは語られることを禁じられた異端の女神の姿を象っていた。
整然と並べられた長椅子から腰を上げ、女性は革サンダルを鳴らしながら大きな扉の前まで歩く。質素な木の扉は何年も手入れされていなかったかのように色褪せ、朽ちている。しかし女性が手をかけると、それらは生命の息吹を取り戻すかのように重厚な音を響かせ、独りでに開きだした。女性が手を降ろし一歩二歩と下がれば、喜び勇むように軋みつつ完全に開ききった。
外から雪崩れ込む新鮮な空気に、女性のロープや黒き長髪が美しくなびく。森や土の濃厚なまでに香る様を、女性はひたすらに慈愛に満ちた笑みで迎える。
そのまま外界への一歩を踏み出そうとして、ふと女性は後ろを振り返った。古びた教会に掲げられたスラッシュのはいった十字架、それを崇める宣教師や多種多様な服装の信者たちの像、その尊い身を一心に捧げ祈る聖女の肖像画。それらを見やり、女性は笑みを深めた。
「ええ、彼らに逢いに行きましょう。現のものとなったこの地下世界、愛するモノは無限、されど私の愛する者たちに敵うモノはありません」
女性はロープを翻し、教会を後にした。女性が背中から翼を生やし、統一教会の総本山があるファクト教国へ向けて飛び去ったのを見届け、古びた教会は静かに扉を閉める。
空を裂いて飛び進む彼女のその首元には、あの十字架と同じアクセサリーがかけられていた。
主人公は種族:神 なので、その超感覚によりかつて共に冒険した仲間たちを察知し、彼らに会うため旅立ちました。その後については……謎は謎のままであったほうが良いこともあります(禁則事項)
主人公は寝落ちしたと勘違いしていますが、その時現実で起こっていたのはVRジャックとのちに呼ばれる世紀の大事件でした。VR回線に接続していた特権階級などある一定以上の価値がある人間をVR空間に幽閉し、それ以外の有象無象は適当にはじくか一部幽閉する……といった感じの出来事で、まさに世界を敵にした史上最も凶悪なテロ事件でした。非常な天才が集められ実行に移された事件で、突破することは理論的には不可能でなくとも現実的に無理と言われたセキュリティが、本当に解除されてしまったことが悲劇の始まりでした。しかし強引な手法が祟ったのか、はじかれた一般市民のうちの何パーセントかは意識が元の身体に戻りませんでした。心肺停止した者もいれば脳死状態に陥った者、しばらくして自我を取り戻した者もいましたが、結局皆無事ではいられませんでした。
と、蛇足的に設定を加えてみました。特に主人公が逝ってしまった理由については完全な後付けであまあまな想像によるものなので、適当に流してください。