第9色目「スタートする背中」
「じゃ、いこっか。里乃ちゃん。」
美術部の川村が僕の横の席までやってきた。
その手には大きなカバンが握られていて、同じく里乃も川村とお揃いのカバンを持っていた。
部活に行く準備をしている僕は、里乃が首に巻く毛糸で編まれた暖かそうなマフラーを少し羨ましく思い、薄手のジャージ一枚を羽織って教室を飛び出した。
僕が川村に掛け合う前に、里乃は自ら美術部顧問のもとへ向かい、入部届けを提出。
川村も同じクラスに美術部員の仲間ができて嬉しかったのだろう。
よく二人で写生会などに出かけるようになっていた。
今日みたいな大きなカバンを抱えて。
校庭を走りながら思った。相変わらず里乃はおとなしく、クラスでは決して目立つほうじゃなかったけど、自分で居場所を見つけて自分の歩きたかった道を歩きだした。
こうなりたい、と願った日からの時間は、あいつにはもう関係なかったんだと思う。
スタートする背中を見送った時、そう思ったんだ。
「おいコラ!何トロトロ走っとんねん!」
中林先生の怒鳴り声が響く。
吐く息は白く、乾いた空気が指先の感覚を奪っていく。
里乃の大きなカバンには、今何が詰まっているのだろうか。
もう今年も、残り少ない。
「パン買ってきたぞー。明日はお前が買いに行く番な。もう今から予約しとこ。カツサンドとー、あと甘い系を何個か。」
「わかってるよ。でも明日は弁当だ。」
一年時から食堂に通い詰めていた僕達は時々、購買部のパンを買って、こうやって教室で食べている。
食堂で毎日食べていたら食費もばかにならない。
そう言って母に弁当を作ってもらうようにしてもらったのは一週間前の事。
白米に冷凍食品が詰め込まれただけの弁当。
母が仕事で朝の早い日は、今日みたいに購買部でパンを買っているのだけど。
里乃と机を突き合わせて、そー太が僕の横に座る。
やがて川村が小さい弁当箱を持って里乃の横に座った。
「そういえば、野球部もうすぐ練習試合だっけ?」
川村がそー太の方を見て話し掛けた。
「なんだよ、それ言うなよ。大体なんでクリスマスに野球の試合なんてしなきゃなんないんだよー。」
「普通、冬はトレーニングばっかりで春に向けて体作る時期なんだけど。中林先生が急遽隣の中学校に申し込んだみたい。」
そー太の肩をポンポンと叩いてフォローを入れておいた。
「大人の事情が見え隠れするぜ。」
パンを頬張りながらそう言ったそー太に苦笑いだ。
「試合見に行っていい?もう冬休みやし。ね、里乃ちゃん。」
「あ、え…。はい。」
何が好きでこのクソ寒い中、弱小チームの練習試合なんか見にくるのだろう、と思ったが、そー太が嬉しそうにしていたのでそっと心のなかにしまっておくことにした。
冬の野球部の練習メニューはというと、ただひたすらに学校の外周を走ったり、いつもの倍の量の筋トレや素振りを行うだけでボールはほとんど握ることはない。練習試合前になるとさすがに各ポジションについてシートノックやバッティング練習を行っていくわけだが、やはり今の体作りの期間は相当キツイものがある。同じ事を延々繰り返す日々に、僕だけじゃなく周りもうんざりしているようで、明らかにモチベーションが下がっているのがまるわかりだった。
いつものように学校の外周を走っていると、内股でヒョコヒョコ歩く見覚えのある姿を見かけた。
「里乃ー!今帰りか?」
「あ、うん。まだ練習中?」
「今から筋トレがある。もう帰りたいわ。」
えへへ、と笑いながら里乃が言った。
「試合、楽しみにしてるからね。頑張ってね。」
もうすぐ練習試合。
せっかくだから頑張ろう。そう思えた。
グラウンドに戻るとそー太とブランカがだるそうな顔をして寄ってきた。
「なんだよお前。嬉しそうに。気持ち悪いよ。」
「道で10円でも拾ったのか?」
別に。そう吐き捨てて勢い良く素振りを始めた。
そー太が湿った目で僕を見ながら言う。
「気持ち悪いよ。」