第15色目「夏が終わる時」
蒸し暑さとセミの鳴き声で朝早くに目が覚めた。
急いで部活用のカバンを持って部屋を飛び出す自分が可笑しくなった。
今日からもう、部活はないんだよな。
「夏休みだからってダラダラしてたらあかんで。」
居間で寝転がりながらテレビを観ている僕に母が言う。掃除機をかけているのに大の字に寝転がる息子が邪魔らしい。
のそのそと起き上がって自分の部屋に戻った。扇風機のスイッチを入れて、再び寝転がる。
(花火大会、楽しみだね。)
その言葉がずっと浮かんでいた。約束していた花火大会。
一回戦、いや、少なくとも予選で夏が終わる。そう思っていた。
まさか全国大会まで行くなんて。それは僕にとって嬉しいことだ。嬉しいことなんだけど。
あの時、堅く結んだ小指をなぞりながら里乃のことを想った。
約束、守れなかったこと。学校が始まったらすぐに謝ろう。そしてこれからは、色んなところへ行こう。楽しい思い出をたくさん重ねて。今度こそ。
母の声が聞こえた。
「そー太君来たわよー。」
少しの夏休み。
それからの僕らは毎日のように遊んだ。そー太、ブランカ、タカさん…。朝になると必ずそー太が迎えに来て色んなところに連れていってくれた。まるで小学生に戻ったみたいに、毎日毎日夜遅くまでバカをやったんだ。
ずっと引っ掛かっていた罪悪感を拭い去るように。
――9月1日。
制服に着替えていると母が薄い冊子を僕に見せた。
「お婆ちゃんがこれ老人会から貰ってきたの。梨狩りと紅葉のライトアップがもうすぐあるみたいよ。無料みたいやから、お婆ちゃんとお母さんと一緒に行かない?」
「行かないよ。」
そう言って家を出ようとした時、これだと思った。
「母さん、その冊子貸して!婆ちゃんに言ったら無料になるよな?」
「なると思うよ。お母さん達と行かないの?」
「友達と行くよ。早く貸して!」
僕は冊子を抱えて学校へと急いだ。今度は僕から里乃を誘ってやろう。
たくさんたくさん、色んなところへ誘ってやるんだ。去年の今日。つまらなさそうに頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。その時感じた涼しい風がまた吹いた。
早く里乃に会いたい。
下駄箱に靴を入れて廊下に出ると、川村が壁にもたれかかりながら誰かを待っていた。
「おう、おはよう。」
いつもなら元気いっぱい挨拶をしてくる川村だが、今日は表情が暗い。挨拶も返ってこない。
そー太と何かあったのだろうか。
教室に向かおうとすると、川村は何も言わず僕のカバンを引っ張って中庭に連れていった。
「あんた、今まで何してたのよ…。」
肩を掴まれ校舎の壁に押しつけられた。
僕は川村の曇った顔に少々驚いていた。
「何って…。野球の試合…」
「わかってるよそんなこと!」
掴まれた肩にますます力が入る。少し震えているようにも感じた。
「わかってるよ…そんなこと…全部わかってる。」
「なぁ、川村。一体どうしたんだよ。里乃のことか?なら今から謝りに…」
「…遅いよ。」
川村が何を言っているのか、僕に何を伝えたいのかわからなかった。
一瞬思考が停止して周りの音が何も聞こえなくなった。
「え?」
「遅いよ…もう…。」
川村が俯くと涙が落ちた。ようやくその言葉を飲み込むと川村は僕の肩から手を離した。
「里乃ね、東京に戻ったの。」
小さな口から出たその言葉を理解できるわけがない。再び僕の中に侵入した言葉に戸惑い、耳を疑う。
「川村、お前何言ってんだよ?」
「里乃が東京に転校したの!もう謝りに行っても遅いのよ!」
「…嘘だろ?なんで…。いつ、いつ里乃は…」
「8月の18日。夏休み前にね、お婆さんが体調を崩して入院されたの。だから、東京の親戚のところへ戻ることになって。」
あの時約束した、花火大会の次の日だった。その日、里乃は…。
「惣太に連絡したの。惣太から伝えてあげてって。でも今は部活が終わったばかりだからって。」
「…知らなかったの、俺だけか?知らなかったの俺だけかよ!」
視野がどんどん狭くなって景色が灰色に見える。
校舎も、空も、雲も。全てが違う世界のものに見えた。
「里乃もずっとあんたに言おうとしてた。でも…。」
「…。」
「花火大会の日にね、言おうとしてたんだって。あなたとの、最後の日だからって。今までのことも、里乃の気持ちも全部。」
「……。」
「でも…でもね…あんたから全国大会に行けるかもって…嬉しそうなあんたからその話を聞いたって…。」
噛み締めて押し殺していた感情が押さえ切れなくなって涙が溢れた。
自分でもどうしようもできないくらい重く、痛い感情。
それがどんどん僕を支配していく。
公園で、鈴を渡してくれた里乃。
これで会うのが最後かもしれない。
そう思っていながら、里乃は僕に鈴を託した。
願いが叶うように。
きっと里乃は、決勝前の僕を心配させないよう、自分の転校を黙っていたんだ。本当は伝えたかったはずなのに。
それでも里乃は笑顔で僕を見送ってくれた。
(私、応援してるから。)
思い詰めていた里乃の覚悟を…僕は…。
始業のチャイムが響く。
今まで手に持っていた冊子がバサリと地面に落ちた。
それからしばらく涙はとまらなかった。
また気持ち良い風が僕達を撫でていく。懐かしい、夏の終わりの匂いだった。
「夏の宿題はちゃんとやったやろなー?勉強はお前等の仕事やぞ。もうすぐ文化祭もあるから…」
中林先生がいつものように夏休み明けの話をしている。周りでは夏休みの楽しい思い出話に花が咲いて、女子達はやはり彼氏の話で持ちきりだった。
「夏休み彼氏と旅行いってー…」
「うそーまじでー。でも私も花火大会にー…」
見慣れた景色、聞き慣れた話。去年と同じ9月1日。
一階の窓の外をボンヤリ眺めてみる。
世界は灰色のまま動かない。
中林先生が黒板に何か書き始める。
こんなに切実に思ったことはない。
中林先生が黒板に「お知らせ」と書いてくれることを。
昼過ぎになったら、教室に転校生が現れてくれることを。
中林先生が前を見て再び話はじめた。黒板に「お知らせ」の文字はなかった。
「なぁ、ご飯。いくか?」
「え?ああ、そうだな。」
そー太が少し遠慮しがちに近づいてきた。うわの空だった僕に気を使っているのがわかる。
「ブランカとタカさんと一緒に食おうぜ。」
「そだな。」
「あ、今日お前んち行っていい?めっちゃ面白いゲーム持ってくわ!」
「うん。」
長い付き合いだ。よくわかってる。そー太は近づきすぎず、離れすぎずで僕を励まそうとしてくれていた。
でも今は、そー太の優しささえも痛く感じる。
そー太に応えてあげられない僕が情けない。
――下校の時間になり、僕はタカさんと掃除をして、そのままカバンを持って焼却炉にゴミを捨てに行った。
帰る前にちょっとジュースでも飲むか、と言うタカさんに付き合って中庭に腰を下ろす。
「なにいつまでウジウジしてねん。ほら。」
タカさんがジュースを差し出した。
「飲めよ。」
「ありがとう。」
タカさんは僕に野球部の今までの楽しかったことや昔の思い出話をしてくれた。
タカさんが合宿でパンツを忘れてノーパンで過ごしたこと。そー太が夜中ホテルを抜け出したはいいものの迷子になって泣きながら中林先生と帰ってきたこと。
僕達がベスト8までいけたこと。
タカさんの話を聞いて、少し元気をもらえた。
「お前、そのカバンについてるのって…駅前のツリーのやつ?」
僕はいつも鈴をカバンにつけている。
幸せを呼んでくれる思い出のお守りだから。
「ああ、これ?うん、そうだよ。」
「お前がもらったんだ?」
「いや、俺があげたんだけど。決勝前に…お守りって。」
タカさんは、そっか、と言って立ち上がり大きく背伸びをした。
「じゃあ、返せばええよ。あげた人に返してやれ。その鈴も、それを望んでるはずや。」
タカさんは笑いながら肩を組んで、耳元でこう言った。
「もらった分は、返してやれ。男だろ?」
そー太が半泣きで中庭にやってきた。
「なんだよー、ここにいたのかよー。てっきり置いて行かれたのかと。」
「すまんすまん。じゃ帰るか。早くゲームやろうぜ。」
僕らは歩きだした。
ポケットにずっと入っていた紙切れを握り締める。
今朝、川村から渡された一枚の紙切れ。それだけが今の僕と里乃を繋いでいた。
今の僕には、東京はとても遠い場所のように感じる。