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第12色目「里乃」

新しい教室に入ると既にホームルームが始まっており、中林先生が目を細めて僕を見ていた。

怒鳴るぞ。怒るぞ。ほら。


「早く座れ。」


意外なことに、中林先生は一言そう言ってホームルームを再開した。怒られる覚悟をして教室に入った僕は拍子抜けして座席表に書いてある自分の席についた。

頬杖をついて眠そうにしているそー太、僕を見てニヤニヤしているブランカ、背筋を伸ばして前を向いているタカさん、前列の席に委員長と川村もいた。


「改めて言うが、今日から三年生や。今年は受験も控えているからな。気合いを入れ直すように。」


中林先生のいつもの低い声が教室に響いた。

三年三組は二年生の時と同じ校舎の一階にあり、一組、二組は二階、四組、五組は三階になっていた。

一階と三階、里乃との距離は遠く、三年になってからは全くといっていいほど会う機会もなくなっていった。

今、僕の横の席にはバスケ部の女子が座り、一日に一言二言話すだけでほとんど会話もなかった。

知っている人がすぐ隣にいるのと、知らない人がいるのとでは随分世界が違うように感じる。

この環境にもすぐに慣れて今の居場所が僕の中の全てに塗り替えられるのも時間の問題だろう。でも、里乃がいたあの場所はとても懐かしくて暖かくて、紛れもなく僕の小さな世界の全てだった。

僕は哀れだ。今になってあの時間が恋しい。


――それからの毎日はなんとなく流れ、食堂で再び丼物をかきこむようになり、景色の良くない窓の外を眺めながらぼんやりと過ごした。

里乃に会ったら何を話そう。文化祭の事を、マフラーの暖かさを、クリスマス会の思い出を、あの絵の素晴らしさを。

そんな事を、時々考える。自分でもおかしく思うんだ。里乃は三階にいるじゃないか。会いにいけばいい。でも自分の中の何か変なものが僕をそれ以上前に進めず、いつもこうして思いだけを燻らせた。


――部活もいよいよ忙しくなって、あっという間に春季大会を迎えた。

弱小で有名なうちのチームはあっさりと一回戦で負け、夏の最後の大会に向けて練習は更に加速していった。朝練に放課後の通常練習、それから筋トレに素振り、走り込み。練習は夜遅くまで続く事がほとんどになっていた。

高校受験を心配した母が僕を無理矢理塾に通わせるようにもなり、まるで流れ落ちる滝のように、時間だけが過ぎていく。

そんな忙しい毎日が僕の中の『いつも』に変化していこうとする、そんな梅雨のある日のこと。


「里乃、体調を崩してるみたいで…。」


雨音が響く放課後の教室で川村にそう告げられた。

もう一週間も学校に来ていないらしい。これにはさすがに僕も動揺していた。


「お見舞いには行ってるのよ。元気そうに振る舞うけど、やっぱり辛そうだった。」


ただの風邪、それだけで一週間も休むのか?体力がないだけ、本当にそれだけのことなのだろうか。


「お願い。一度里乃と会ってあげて。」


放課後、僕はタカさんに練習を休むことを伝えて学校を飛び出した。

どうしたんだ?と尋ねるタカさんに僕は正直に、里乃が一週間学校を休んでいる、と伝えた。

夏の大会前に、しかもレギュラー入りしている三年生がこの時期に練習をサボるなんて非常識極まりない事。それは十分わかっている。わかっているんだ。


「そうか。よし、中林先生には俺が上手いこと言っておくわ。他のやつらが文句言っても俺が黙らせてやるよ。早く行け。」


タカさんはそう言って、僕の背中を押してくれた。

激しい雨が僕の傘を叩く。川村からもらった住所を頼りに僕は走った。

里乃の家は僕の家からずっと向こう、文化祭の帰り道に話した公園を通り過ぎてしばらく歩いた先の小さなアパートだった。

傘だけでは回避しきれなかった雨が僕の肩を濡らし、もうすぐ夏だというのにひどく寒かった。


(ここで、いいんだよな…。)


表札には大野と書かれていた。水嶋の表札がないことに少し戸惑ったが、傘を折り畳むと同時に思い切って玄関のチャイムを押した。


「はい。」


「あの。突然すみません。水嶋里乃さんと同じクラスメイトの…。」


出てきたのは品のあるお婆さんだった。背はとても小さく、朱色のカーディガンを羽織ったお婆さんは優しそうな笑顔を浮かべて部屋の奥へと招いてくれた。


「ごめんなさいねぇ。今、里乃は寝ちゃってるのよ。よかったらお茶でも飲んでいって。…あらあら、制服濡れちゃってるわね。乾かさなくちゃ。」


すみません。そう言ってお婆さんに上着を渡し、居間に座らせてもらった。

部屋の中は暖かく、大きなキャンバスやたくさん種類のある絵の具セット、色んな形をした筆やペンがテレビの横に置かれている。本棚にはいくつか写真が立て掛けられていて、よく見慣れた制服姿の里乃がお婆さんと二人で写っている。その横にはまだ幼い里乃が可愛いドレスを着て、笑顔の素敵な男性と女性と一緒に写っている写真があった。恐らくお父さんとお母さんだろう。お母さんの方は今の里乃と同じ顔をして笑っている。よく似た母子という印象を受けた。

写真はその二枚だけ。

ここで里乃は家族と一緒に暮らしてるのか。


「あまり良いおもてなしができなくてごめんなさいね。」


「いえ、こちらこそおかまいなく。いただきます。」


「いつも仲良くしてもらってるみたいで。本当にありがとねぇ。」


お茶を飲みながら少し照れ笑い。お世話になっているのはいつも僕の方だ。


「あなたのお話はいつも里乃から聞いているわ。楽しそうに話すのよ。」


「そうですか。」


「この前なんかケーキ作るのにはりきっちゃって。何度も作り直してたわ。」


あのケーキの舞台裏が聞けて面白かった。分厚くクリームが塗られたショートケーキは、甘さ控えめで優しい味がした。里乃らしいケーキだったことを覚えている。

しばらくお婆さんと色んなことを話した。僕が野球をやっていること。里乃の絵が入選していたこと。学校でのこと。

お婆さんは楽しそうに僕の話を聞いてくれた。


「あの二人で写っている写真は、こちらで撮られたんですか?」


「ええ。こっちに引っ越してきた時にね。」


「前は水嶋、東京にいたと聞きました。」


「あの子、学校を転々としてるのよ。その前は北海道にいたの。」


「そうだったんですか。」


「私はずっとこっちに住んでて、里乃が来てからは二人暮らしをしているのよ。毎日楽しくていいわ。」


「二人暮らしなんですか?ご両親は…お仕事の都合か何かでしょうか?」


お婆さんが一瞬、寂しそうな笑顔を見せたのを僕ははっきりと覚えている。


「あの子のね…両親はもういないのよ。」


え…?


「小さい時にね、交通事故で両親を亡くしてるのよ。あの子の誕生日の日にね、プレゼントを買いに行ったまま…そのまま…。」


ごめんなさい。そう言ってお婆さんは涙を拭った。

何かを言おうとしても、僕の口が動いてくれない。手が震えて、脈打つ音が響いた。


「それから東京の親戚の家に預けられたんだけど。ちょっと訳あってね。こっちに引っ越してきたの。」


「…はい。」


その言葉を、目の前の現実を、僕はただ受けとめるしかなかった。


「里乃ね、心臓の病気なのよ。療養のためにこっちに来たの。大人になるたびに体力が落ちていく病気で。あの子が小学生の時にそれがわかってね。」


体力が人より無いことも、学校を休む理由も、里乃が慌てて隠した薬も、転校初日に昼から現れたことも、この時全てが一本の線で繋がり、同時に里乃のあの笑顔を思い出した。

胸を切り裂くような痛さと、どうしようもできない感情が流れ込んでくる。


「人と上手く付き合えなくなったのも、あの事故からなのよ。学校を何度も変わったでしょう。だから友達もできなくて、自分からも話し掛けることが怖かったみたいで。寂しい思いをしてたと思うわ。自分からは言わないけど。」


「そう…でしたか。」


「だからあの子が学校の話をいっぱいしてくれるようになって、楽しそうにしてくれているのを見て、私はすごく安心してるのよ。」


そう言ってお婆さんは笑った。


「あなたには、本当に感謝しています。いつもありがとうね。」


――外に出ると雨はまだ降り続いていて、もうこのままずっと止まないんじゃないかと思った。雨音だけが僕の傘に不規則なリズムを刻んでいる。

静まり返った公園。あんなに早く流れていた時間が今は動きを止めたように感じる。

僕だけこの世界から切り離されて、取り残されてしまったかのようだった。


(できるだけ、里乃には楽しい思い出を持ってて欲しいの。これからもずっと。それだけが、私の願いなのよ。)


お婆さんが最後に言ったこと。それが頭のなかを回って、僕は何度も何度も噛み締めた。

どうしようもない思いが少しずつ形を変えはじめた時、今まで堪えていた感情がプツリと音をたてて弾けていった。

見上げた空はどこまでも暗く重い。

いつか、あの雲の隙間から光が射して、再び僕らを照らしてくれるのだろうか。

僕は思った。里乃は、雲の上にある太陽みたいだと思う。

何があっても笑顔を忘れない強さ。辛くても一生懸命頑張れる強さ。決して負けない、決して折れない心を持っている。

里乃のことを、暗くて地味だなんて誰が言った。

僕らより、ずっと強いじゃないか。ずっと強いじゃないか、あいつは。

なんなんだよ。誰なんだよ。それ以上、里乃を苦しめるのは。里乃から奪っていくのは。

もういいだろ。お願いだから…もう、いいだろ…。


頬を濡らしたのは、空から落ちてくる冷たい雨だったのか、それとも僕の涙だったのか。

その日、雨は明け方まで降り続いた。

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