竜交記 ~夕立~
今日も湿度が高いなぁ。
空を見上げると、夏の透きとおった空気と巨大な入道雲がどこまでも広がっている。
この時期の雲はもしも触れられるとしたら、滑らかで弾力もありとても気持ちがよさそうだ。見ているだけでも楽しい。
どこまでも透き通った遥か高い空に圧倒的な質感を持って存在しているのも良い。
しばらくの間ほけらーと空を眺めていると彼女が言った。
「面白い物を見せてやろ」
手のひらを差し出すとその上にはミニチュアの入道雲が浮かんでいた。
コロコロ、パチパチと可愛い雷も鳴り、雨も降っているようだ。掌から水が溢れてくる。そのまま、手の甲をこちらに向けて指先を天に向ける。
何をするのだろうか。その奇妙な光景とこれから起こる出来事に、私の意識はすっかり奪われてしまった。
ひゅう、と1つ大きく息を吸った彼女は掌を返し、気合を篭めて猛烈な勢いで掌底を私に突き出した。
水滴で一瞬奪われた視界が元に戻る頃にはそれが私の村とは思えない様な深い山に覆われた土地になっていた。
「面白いのはこれからじゃ」
少女の言葉に応じるように”もくもく”と表現したくなる勢いで入道雲が成長する。と、同時に空がゴロゴロと言い出した。
夕立だ。もちろん傘など持っていない。ぼたり、と大粒の水滴を感じた次の瞬間にはざんざかと雨粒に全身を叩かれ、あっという間の濡れ鼠。
肌に張り付く布の気持ち悪さを瞬時に通り過ぎ、自分が元から水中で生きる生き物だったかのような心地良さを感じる。
「そなたにはちぃと過ぎた宝じゃが、良い物を見せてやろ」
言い捨てると同時にタンクトップとホットパンツを脱ぎ捨てた。
「はふ、皮膚を覆われる事のなんと息の詰まるものか。そなたが現れるまで此方は和装ばかりで息が詰まったものよ」
まだ、人のシルエットは残しているが額の骨が発達し、耳の後ろへ流れ角となっている。胸は薄く、手足は長く流線型の姿態。
鮎を思わせる無駄な線のない優美なフォルムだ。
肌は雨に濡れ、きらめきを放つ竜鱗に覆われている。
私の育った村は根強い竜神信仰の残る村だった。
科学全盛の時代に竜神の実在を信じている、馬鹿馬鹿しいと思われたり年寄りが多いので迷信深いのだろうと思われたり、周囲の反応は概ねそんな物だった。
だが、別になんの根拠も無しに信じていたわけではない。根拠と言うよりこれ以上ない証拠が合ったのだ。
証拠……、それは竜神その者だ。
私の村では竜神を奉じ、同時に封じていた。封神とは神を捕らえ使役させる行為。本来、奉ずるべき神を封ずる。
それは人の弱さと強さ、そして幸せを求める貪欲さの現れに相違ない。
最初は純粋な好意で奉っていたのだろう。
それが富をもたらす存在を手放したくない、と言う欲望にすり替わるのにかかった時間が長かったのか短かったのか。いずれにせよ私が生まれるずっと前から奉ずるとは名ばかりの封ずる行為になってた。
繁栄をもたらす竜神を手に入れた幸運を逃さぬよう、無理やり村に括りつける。にも関わらず機嫌を損ねないように竜応役という接待係が不自由の無いようお世話を申し上げるのだ。
ある者は言った「下にもおかぬ対応でお世話申し上げているのだ。村に留まって頂く位は当然だろう」身勝手で薄汚い論理だ。我欲のために捕らえていると言う事実を歪曲し、相応の待遇をしているのだからその力で富をもたらして当然と言い切る。反吐が出るほど薄汚い論理だ。
救い様のない事に方便や詭弁ではなしに心からそう信じている村人も多かった。私は落胆と失望を抱き、自分の生まれ育った村を軽蔑さえしていた。
故郷を誇ることが出来ぬばかりか侮蔑に値すると言うのは心底悲しいことだ。そして、本当に悲しいのは自分がその薄汚い行為に一枚噛んでいるという事実だった。まだ無垢でいられた頃、私は竜応役を務めていたのだった。
あれはいつ頃のことだったろうか。家の裏手、庭から続く森を散策していた時の事だった。
その森はなにやら曰くがあるそうで、近づかぬ様に言い含められていたのだけれど、その雰囲気を気に入っていた私は言いつけを守らなかった。
こっそりと森に入り、そぞろ歩くことを趣味としていたのだ。散策の度に何かに呼ばれているような、祝福されているような心地良さを感じ、足しげく通ったものだ。
その日もそうだった。耳には聞こえない声、肌で感じ、心に語りかけて来るような声ならぬ聲。誘われるままに私は藪を、茂みを掻き分けて行く。
そうこうするうちに私と彼女は出会ったのだ。
「そなたが新しい竜応役かや?」
「いいや、違うよ。僕は聲に惹かれてやってきただけだ」
「ならばそなたが新たな竜応役だ。あれは此方の相手をするには歳を取りすぎたからな」
交わした言葉はこれだけだったと思う。
家に帰ってからも森に入ったことについて特に叱責も無く、ただ「今日からお前が竜応役になった」と言われただけだった。そんなことを言われてもどうすれば良いのか解らず困惑したが畏まって3食を持っていけば良いらしい。
「来たか、そこに置いておけ」
気の無い様子で適当に卓を指し示す。
「この3日、焼き魚に煮物と漬物だけだね」
「はっ、3日なものか! 封ぜられてより変わり映えのしない献立よ。……とはいえ捧げられた供物には違いない。無碍にも出来ぬ」
「……こんなのばかりじゃ飽きるよなぁ」
呟いたその時には僕はもう決心していたんだ。
すぐにも実行する小計画と時間をかけて行う大計画の実行を。
次の食事の時間だった、幽玄と佇むだけだった彼女の様子が変わったのは。しきりに鼻を鳴らし、僕の懐を探ってくる。
「そなたが懐に抱えているそれは何だ?此方に教えてくりゃれ」
彼女が私に興味を持ったのはこれが初めてじゃないだろうか。
「かまわないよ、だけどその前に……。僕は高山草太。君の名前は?」
「はて、困った。名前を教えなければ懐の物を遣さぬつもりかや。……ほんに困ったのう」
心底から困った様子で、それでもちらちらと僕の抱えた袋を気にする様子が愛らしくて、無理に名前を聞くことを諦めた。
袋を開けると肉まんを一つ掴み彼女に手渡す。
「お?おっ!おっ! あつっ、あつっ」
「中はもっと熱いから気をつけて食べな」
ほふほふと勢い込んで食べる竜神にペットボトルのお茶を渡してしばらく様子を眺める。それはどこかこっけいで、愛らしい仕草だった。
「口にあってよかったよ。竜神と言えば農耕民族が穀物を荒らすネズミの天敵として蛇を崇めた所が源流だからね。きっと肉も好きだと思ったんだ」
「……旨いとはこういう気持ちを言うのであったな。ほんに久方ぶりに味わったわい」
「今度はハンバーガーでも持ってくるかな」
「はんばーがー!それはどのような味なのだ!?」
涎を零しそうな──実際口元を袖で拭っていた──竜神を諌めて。
「それはまた明日。さてと、いらぬ心配、勘繰りの元は無くすに限る。竜神様用の夕餉は僕が戴いてしまいますよ」
竜神様の夕飯は旨いことは旨かった。けれど毎食がこれでは飽きるだろう。私に出来る範囲で色々な物を食べさせてやりたい。
「さて、相互理解の第一歩として自己紹介してくれると助かるんだけど」
「はて、困ったのぅ。此方には名前が無いのだ。名を呼んでくれる者もおらぬしのぅ」
そうか、この辺で竜神と言えば彼女しかいない。狐稲荷もせいぜいお稲荷さんと呼ばれるくらいで個々の名前まで気にしたこと無い。
それって、誰かに対して『人間』と呼びかけるくらい無粋で失礼なことだ。
「お父さんとかお母さんがつけてくれた名前は?」
「我等は生れ落ちたときから一人じゃし。卵の殻を破った瞬間からある程度の知恵や知識は備えている物だが、はて、その中には名前はないようじゃ…。のう、高山草太そなた、此方に名を与えてくれぬか?」
どきり、とした。名前を呼んでくれたこと、名前をつけて欲しいと頼まれたこと。呪術的には名前をつけるって大変なことじゃないんだっけ?
「草太で良いよ。それと、名前をつけることが貴女を縛ることにならないか心配なんだけど」
破顔して、彼女は言った。
「真の名は誰かに与えられるものではない。生れ落ちたときより魂の姿にて決まっているのだ。今求めているのは、そなたに呼ばれるための名前。何しろ、そなたの祖父母が今のそなたより幼い頃から封ぜられているにもかかわらず名前を問うてくれたのはそなた一人でのう」
そうか、彼女はずっと長い事「誰」でもなく竜神様だったのだ。
すでに彼女のために色々の便宜を図るつもりだった私だが、生まれ育った村を捨てて彼女に仕える決意を固めたのはこの時、彼女の笑顔を見たからだったと思う。
「そうかぁ、僕だけの名前か……。うーん」
ふと閃いた。
「……歌枝。歌枝が良い」
「歌枝、歌枝のう。響きは悪く無い」
舌の上でこれから自分の名前になる言葉を転がして吟味する。
「何か謂れがあるのかえ?」
「大した理由じゃないんだけどね。父が酔っ払った時に言っていたんだ」
父は酔うと気持ちが大きくなるのかどうでも良いことを延々と話すようになる。つき合わされる僕としては迷惑この上も無いのだけれど、そのおかげで役に立つ知識を手に入れられることもある。
「アクア・ウィタエとは『命の水』のことだ、と。どうもお酒には命の水という名前が多いらしい。アクア・ウィータ、アクア・ヴィット、ウシュクベーハー、オコヴィト、ウォトカ……」
父の語った内容を思い出せる限り思い出しながら言葉を並べ立てた。
「全部父の受け売りだけどね。まぁ、名は体を表すということもあるしアクア・ウィタエのウィタエをもじって歌枝なんてどうかな、とね」
一呼吸置いて。
「僕の祖母の名前でもあったんだ」
幸い、彼女は何も聞いてこなかった。
お婆ちゃんについて語るのはまだ辛い。だけれど彼女に名前を継いで欲しいと思わせるだけの魅力を備えた綺麗に歳を取った素敵な女性だった。
勝手な思い込みだけれど彼女が名前を継いで、お婆ちゃんの出来なかった色々な事を経験してくれればきっと一緒に喜んでくれる、そんな気持ちがしたんだ。
「歌枝……、歌枝……。うむ、よし。今この時より此方は歌枝。そうと決まった」
それから、竜神歌枝と竜応役、僕の生活が始まった。
歌枝はそれまでの竜応役とほとんど口を利かなかったようで、僕が誘導してやると喋る事喋る事。一時期は喉飴を常備するのが常だった。
歌枝は知識欲も旺盛で、始めの内はともかく、すぐに僕の知識では答えられない質問ばかりするようになってきた。
狙っていたチャンスの到来だ。
まずは歌江の住まいに百科事典を持ち込んだ。
歌江に、世界に対する興味を持たせ、理解を与えるためだ。
そして本に書かれた知識では満たせない本物の世界に対する興味を抱かせることに成功した。
また、父を説得し──うちの家系は元々竜神を封じた家系とされており、多数の竜応役も輩出してきた。年回り的に僕以外の適任者がいないという事を差っぴいても僕が竜応役になる可能性は高かったという訳だ──歌江の住まいに電気を引かせた。
建前としては歌江が夜に本を読むために必要と言う事と、竜応役である僕が勤めを果たしつつ宿題をこなすには歌江の住まいで宿題を行うのが効率的だ、と言うことで説得をした。
この頃になると私はもう歌枝の住まいに入り浸っていた。
宿題を広げる私の隣に歌江が座り、百科事典や専門書を読むのが日課になっている。
歌江の知識の吸収には目を見張るものがあった。すでに答えられない質問が大半を占めており、計画を第2段階に移す頃だろう。
第2段階と言っても大したことではない。
歌江の住まいにインターネット環境を構築するだけだ。入知恵をしたのは私だが望んでいるのは竜神と言う事なので、これも認められた。
これは2重に好都合だった。
1つには世界に対する興味と答えを歌江に与えられること。それも、私では答えられないレベルの疑問の答えを歌枝自身が調べることが出来る。
思惑通り、歌枝は科学、歴史、現代社会の知識を学んでいった。
この頃から洋装に興味を持ち始め
そして、もう1つは私の秘密計画、歌江に自由を与えるための工作だ。
結界と言うものは用は内と外を峻別する壁に過ぎない。
ならば、内と外を繋げる路さえ作ってしまえば結界として機能していないことになる。電気を引き、インターネットを引き、内と外とを繋ぐ路を増やしてやることで結界が結解として成り立っている理由を崩す。
屁理屈のようだが魔法や呪術なんてそんなものだ。理屈に基づいて条件を揃えてやると効果を現す。ならば、条件を壊してやれば効果は消える。
これが、いずれ歌江を自由にするための準備だった。
大それた計画を実行するためにきっかけが欲しかった私は自分の誕生日を実行日とした。ちょうど梅雨明けの頃だった。
「歌枝。ちょっと散歩にいかないか?久しぶりの良い天気で、空が綺麗なんだ」
「散策とゆうてものう、洞の入り口までではの……。此方はここでこうしている方が良い」
彼女は定位置──本を読む時だけは僕が持ち込んだテーブルに着くがそれ以外は洞窟の奥にちょうど彼女が納まるくらいの窪みがある──に座り込んだまま言った。
「引き篭もりは良い事じゃないね。最初から諦めていないで、まずは行動だよ。それに今日は僕の誕生日でね、プレゼント代わりに言うことを聞いて欲しいな」
「此方は好きでニートをしている訳ではないのだがの。ここに篭り切りなのはそなたの先祖の仕業……」
ぐずる彼女の手を取り、少し強引に洞の外に連れ出した。
「は」とも「ほ」ともつかない彼女の漏らした吐息。幾年と数える事も忘れるほどに縛り付けられた結界がまるで機能せず、あっさりと外に出られた事に呆気に取られているようだ。
それなりに苦労もしたのだ少しくらい自慢しても良いだろう。したり顔で得意げに解説をしてみた。
「うちの先祖はオカルト方面の天才だったようだね。魔術、呪術、通力、五行等にかなり通じていた様でそれぞれのシステムを組み合わせて相補的に弱点を補う複合呪的システムを作り上げたみたいだ。その目的は竜神の捕獲、いわゆる封神」
そんな事は僕に言われるまでも無く彼女の方が良く知っている事。けれどかまわず続ける。あまりの出来事に放心している彼女が復調するまでの接ぎ穂のつもりでもあった。
彼女が呆気に取られている間に格好を付けさせてもらった。
「先祖の作り上げた呪的システムは竜神を捕獲するのに十分な力を持っていた。だからこそ歌枝はこの地、というかこの洞に縛られていたわけだ」
呆けたままの彼女は聞いているんだかいないんだか。
「詳しい仕組みなんかはちんぷんかんぷんだけど、壊すだけなら割と簡単だった」
ようやくことの次第が理解に繋がったのだろう、歌江が弾ける様に叫んだ。
「そなた!そなた、何をしたのか解っているのか!?血族を、同属を裏切っているのだぞ!?」
まったく聞いてない。まぁ、私も彼女の言葉を聞くつもりは無いのでお互い様だ。掴み掛からんばかり勢いをすかして彼女の手を取り、その掌にあるものを握らせた。
昔なら瑠璃とか玉と言われるんだろう。乳白色というかオパールに似た色味の小さな珠。如意宝珠とも竜珠とも呼ばれる、竜の至宝だ。
これが無ければ竜は空も飛べない。
「君のだろ。もう無くすなよ」
「ば、馬鹿っ!馬鹿っ!!」
感情が高ぶり過ぎて言いたいこと、言うべきことがまとまらないのだろう、小学生レベルの罵倒しか出てこない。
普段から澄ましている歌江が余裕を無くして取り乱していると、見た目の年齢に相応しい少女に見える。
なんというか普段とのギャップもあって微笑ましい。
「何がおかしい!その笑みを消せ、馬鹿っ!」
なんとか笑いを静めようとしたのだけれど、抑えることが出来ずに、くつくつと笑いが漏れる。すると、歌枝は私の上膊部を強く握り締めた。
「痛っ」
歌江の握ったそこは蚯蚓腫れになっていて触れると痛みと痺れが走り、かなり辛い。結界破りの最中にいつの間にかいくつも怪我を負っていたのだ。
石ころを蹴飛ばしただけで感電でもしたようなショックを受けて傷が出来ている。まぁ、まともな物理現象ではない。
オカルトの類を信じる私ではないが竜神が実在するのだ。
科学では解明できない現象の一つや二つ、遭遇しても受け入れるとするさ。
「正式な手順を踏まずに呪を破ったのだろう。返った力で傷ついたのだ」
「今日ここに来る前に神社によって竜珠を盗った時に、壊した境内で引っかいた傷もあるけどね」
すっとぼけた口調で言ったのが悪かったのか彼女はいきなり激昂した。
「阿呆!馬鹿!間抜け!頓痴気!お前が傷つくことなど何も無かったのだ!此方が成人すればあの程度の結界など壊すもすり抜けるも思いのままなのだぞ!」
酸欠にならないかなぁ、と心配になるくらいの勢いだ。彼女の怒りは聞き流しておく。
「神社を襲うなど怖れを知らぬ阿呆だな。仏と違って神は祟るぞ!」
「それは大丈夫。何しろご神体は目の前にいるし。結局あれは竜珠を隠しておくための建物に過ぎないからね」
また少し彼女の機嫌が悪くなった。
「最近、此方を訪なう時間が少なくなったと思っていたら、こそこそとそんなことを嗅ぎまわ合っていたのか。そなたは自分が何をしているのか解っていないのだ」
それは違う。私は何をしているか十分に理解している。
「解っているさ。神去らせようとしているんだよ」
「それが解っていないと言うのだ!同胞を裏切っているんだぞ!」
「同胞、血族、ねぇ……。たまたま同じ村に生まれただけで勝手に仲間にされても困るんだ。僕は仲間は自分で選びたい。相手に信頼を置けるかは自分で判断しないと」
「そなた……」
「竜神を捕らえたのはうちの祖先の功績なんだろうさ。だけれど、それを自分の手柄のように言う今の村人達を僕は好きになれない」
それまでの激昂が嘘のように彼女は意気消沈していた。
「私欲のために君を捕らえ続けるのも僕は納得できない。だから解放することにした」
「成竜になればあの程度の結界など、壊すもすり抜けるも思いのままだったのじゃ。成竜になるまでは後数年。そなたが同胞を裏切る必要など無かったのだ……」
私は少し笑みを深めた。それにはある種の自嘲が混じっていた。
「それでもね、僕の力で君を解き放ちたかったんだ。先祖のやったことの償いにはならないけどね。自己満足さ」
彼女の身体から力が抜けて2回りも小さく見えた。
「……成竜になったら結界を壊して自由の身になるつもりだった。そして、そなたの村を滅ぼしてやるつもりだった。そなたに助けられたら恩義にかけてもそんなこと出来ないではないか」
「恩義に感じることじゃないだろう。元はうちの先祖が悪いんだ。恨みに思っても当然だよ。……僕らのしてきたことを考えれば滅ぼされても仕方ないと思うよ」
彼女はすっかり意気消沈していた。
「そなたのゆう通りであろう。そなた自身と、そなたの先祖や村人の行為とは別けて考えるべきであろ」
彼女の葛藤は私にもわかる。私にも先祖のしてしまったことに対する罪悪感はある。と、同時にそれは自分のあずかり知らぬことという意識もある。 背負うべき責任、償うべき事柄、自分の物ではない罪はどうやって、どこまで償えば良いのだろう。
考えても答えの出る問題ではない。そもそも償いようの無いことを行ってきたのだ。終わりの無い思考の円環に陥った私は考えることを放棄した。
今日も湿度が高いなぁ。
空を見上げると、夏の透きとおった空気と巨大な入道雲がどこまでも広がっている。
「面白い物を見せてやろ」
──竜身へと転じた彼女はこちらへ向き直ると、訥訥と語りだした。
「その、な……。そなたは人以外の者の間で生きてゆくのも上手くやれると思うのだ。でな、もしも……、もしも、その気があるのなら此方と共にゆかぬか?」
ざあざあと降り続ける大雨にかき消されてはいたけれど彼女はそう言ったように聞こえた。そして私に手を差し出してきた。
だから私も応えた。
「村を、同胞を裏切った僕には帰る所はもう無いんだ。君と行けるなら、どこまででも」
雨音にかき消されて全ては聞こえなかっただろう。けれど差し伸べられた手を取った僕の気持ちはきっと、伝わっている。
彼女の顔が輝いた。
「行くか!そうか!一時の気の迷いでなくきちんと覚悟を決めたのだな。知り合いの仙人に紹介してやる。そなたなら、しばらく修行すればちゃんと人の世界の外で暮らしていけるようになる」
私の人生は相当に波乱万丈なものになりそうだ。
人が知っている世界の外側にも世界は広がっており、そこは常識を超えたルールで動いているのだろう。
私はそんな世界で生きる事を選べる稀有な機会を与えられ、人の世の外側で生きる事を選択した。
それはきっと、筆舌に尽くしがたい困難なことだろうと思う。
けれど歌江がいるなら、歌枝と共に時を過ごせるならどんな障害も乗り越えていけると思える。
「さて、それではゆくとするかの」
宣言と同時に歌枝は雲に乗り、風を巻いて大空高く飛んだ。
雨雲を突きぬけ、夏の高い空の遥か高みに達すると彼方に虹が見える。
「ふふふ、これから人の世の外の世界に慣れるまで、泣くほど辛いぞ」
「ああ、きっと楽しいだろうね」
「まぁ、此方と共にあって不幸にはるまいよ。何しろ此方は富みも、幸福も、栄達ももたらす幸運の竜神だからの」
虹の根元には幸せが埋まっているという。私と歌江の二人なら水平線の彼方、地平線の彼方までも探しにゆくことが出来るだろう。
私はまだ見ぬ未来に思いを馳せる。
それは繋いだこの手が感じるのと同じ温もりに満ちていた。
Fin