七十五日前 その3
体の中心が急に重くなる。しかし同時に、ふわふわした頼りない心地にもなる。
無意識に、マスクを押さえていた。
「なぁ。毎日、毎日。ほんまに見とるだけで、ええんか?」
「……うん」
じっと、窓の向こうの景色を見つめる。
小高い丘の上にある書店の下には、家路を急ぐ人々や、夕餉の香りが漂う風間市の街並みが広がっていた。ずっと遠くには夕陽を照らす海の輝きが僅かに見え、その傍を明りを灯し始めた電車が走っている。視線を山の手に移すと夕暮れの聖真高校の校舎と、生徒たちがよく通る通学路が見える。といっても、住宅地を縫うような道で、とぎれとぎれにしか見えない。
絶対に、自分には届かない世界。
それでも……。
咲は目を凝らす。
「くだらねぇ」
二之宮が不貞腐れたように、呟いた。
しかし、すでに窓の外に心を奪われた咲を振り向かせることは、できない。
「あ」
マスクを手で押さえる。全身がしびれたように、力が入らない。またたきするのももどかしく、窓に張り付く。
―― あの人
一台の自転車が軽やかに校門を抜けた。
それは滑る様に道を行き、家影に隠れてはふっと姿を現し、また消えては姿を現した。
名前も知らない。声も知らない。まして、こちらの存在を知る由もない自転車の青年。その横顔を咲は息をするのすら忘れ、目で追いかけた。
彼のまっすぐに前を見る、強い目。少しとがった顎。風に流れる前髪を。
毎日、朝と夕。同じ時間。彼は自転車でこの道を通り抜ける。その間だけ、咲は彼を見つめることができる。その間だけ、咲は咲でいることを忘れられるのだ。
かけがえのない時間。
しかし、それはいつも一瞬。
彼の背は住宅街に吸い込まれるように、消えてしまった。
「今日も、会えましたね」
いつの間にか傍にいた赤間が、咲の肩にブランケットをかけた。黙って頷く。
「会えたうちに入んねーだろ。こんなの」
呆れ口調の二之宮の言葉に、ジンが唸る。
しかし、構わず二之宮は続ける。
「だいたいさ。人間に興味持ったって、しかたないだろうが。俺たちなんかが近づいたところで、悲鳴上げて逃げだされるのがオチじゃんか」
「それは……」
咲は俯きマスクの上から口を押さえた。肩から髪がさらりと落ちる。二之宮はそんな咲を視界に入れないように、背をむけた。
「いい加減にしろよな。毎日、毎日、うっとおしいんだよ。お前が、あの人間のことどう思ってるかしんねーけど、あっちは何があったって、お前を好きになんかならねーんだぜ。絶対に、百パーセント!」
「ううっ」
咲がぎゅっと、マスクを握りしめる。
「二之宮君!」
赤間が二人の間に入る様に声を飛ばす。だが、二之宮君はそれをはねのけるように、一段と声を大きくする。
「なんだよ。俺が間違ってるとでも、言うのかよ? だったらさ、咲」
二之宮は振り返ると、大股で咲に歩み寄りぐいと肩を掴み、強引に自分の方へ向かせた。咲が怯えた目で彼を見上げる。
「マスク取れんのか? あの人間の前で、お前、素顔を見せられるのか?」
「わ……私……」
素顔。私の……醜い、顔。
顔を隠すように、マスクを押さえる。しかし、二之宮はその手を強い力で引き剥がした。
「『私は口裂け女です』って、本当のこと言えんのかよ!」
「っ……」
心が、捩じ切れそうだった。
わかってる。わかってる。自分が、自分が醜い化け物だってこと。わかってるよ!
二之宮の手を振り払いしゃがみこんだ。
その時だった。
「いい加減にさらせ!」
ジンが思いっきり叫び、二之宮に噛みついたのだ。悲鳴を上げる二之宮。ジンは一度深く噛んでから、飛び退くと
「この石頭が。歯ぁ、折れてまうわ!」
と悪態をついた。
その顔は、犬のそれではない。人間でいう、中年男性の造形だ。頭髪はやや薄く、眉間に皺をよせている。毎朝咲に剃ってもらう髭も、今は短くまばらに伸びていた。
「由緒正しき人面犬のジン様が、歯抜け面なんて、洒落になれへんわ。でもな、ええか? 小僧。これ以上、咲にいらんこと言うてみい。ただじゃ、すませへんからな!」
「うっさい! 俺は間違ってない!」
足を押さえながら、立ち上がる二之宮の顔が、半分、石化していく。
「なんや、やるかぁ。時代遅れの石像が!」
「時代遅れっていうなぁ! このブサイク犬!」
ジンの牙も鋭く尖り始める。
両者睨みあう中、赤間はやれやれといった様子で、咲の肩に手を置いた。
「咲ちゃん。いつもの、始まったみたいだから、避難しましょうか」
咲は戸惑いながら、顔をあげ、口を開けた時だった。
「あ……」
目から涙が零れてしまった。
「咲ちゃん?」
赤間が覗きこむ。二人の様子がおかしいのに気がついた二之宮が、はっとして咲を見つめた。二人の目があった。
「……」
とたん、咲は逃げるように、部屋を飛び出してしまった。
いつの間にか陽は落ち、書店には夜の影が忍び込み始めていた。