七十五日前 その2
「咲ちゃん」
琴の音の様な、凛々しくも優しい声だった。
「はい」
呼ばれた咲は立ち上がり、その拍子にジンが床にとんっと飛び降りる。
「店番、お願いできるかしら。今夜、ちょっと……」
本棚のむこうから、細い腕が真っ白なスプリングコートに通されるのが見えた。
「はい。大丈夫です」
本の壁の向こうから美しい顔が、そっと覗く。
「ありがとう」
日本美人という名詞は彼女のために用意されたのではないだろうか、咲はたまに本気で考える。
二之宮が二人の間に割いるように声を投げた。
「妖子さん。店番なら、俺たちがするよ。人みしりの咲なんて、役にたたねぇって」
「うぅ」
容赦ない言葉に、乾きかけた目に再び涙がにじむ。
人が苦手、というより怖くて、まともに目をみる事すら難しいのが事実だけに、反論できない。咲自身、このままではいけないとはわかっているし、どうにかしたいとも思ってはいるのだ。だけど、だけど……。
わかってほしいことはたくさんあるのに、一つも言葉にならない。それがまた情けなくて、よけいに咲の声を詰まらせた。
「ほらっ。すぐに泣くしさ」
二之宮が吐き捨てるようにいった。
あぁ。また、怒らせちゃった。ごめんなさい……。
咲は俯いて、涙をこぼさないように唇を噛む。
ジンが味方するように、二之宮にむかって唸る。
違うの。金ちゃんは悪くないの。私が、人の顔もろくに見られない、私が悪いの。
そう言いたくても、やはりうまく声にならない。
両手でそっと、マスク越しに口を押さえる。
「なんだよ! 言いたいことあんなら言えよ!」
……ごめんなさい。
きゅっと目を瞑った。
見かねた赤間がカップを置いた。
「二之宮君。言葉をつつしみなさい」
「でもよ。こいつ見てると、なんつーか、もどかしくってよー」
「しかし!」
「ふふふ。金次郎は、咲ちゃんのことが、よっぽど心配なのね」
赤間の抗議を遮ったのは、妖子の笑い声だった。
「えっ!?」
妖子の鈴の音の様な声に、二之宮君の裏返った声が重なる。
「お、お、俺が、こいつを心配ぃ?」
顔をあげた咲と目が合いかけた二之宮は、思い切り怖い顔で「違う! 違うからな!」と怒鳴った。
「ふえっ」
また、咲の目に涙がこみ上げる。
「あ! おい! もう、だから泣くなって!」
二之宮はあたふたするが、時すでに遅し。咲は肩を小さくふるわせ始めてしまった。赤間がたしなめる様に二之宮に一瞥をくれる傍を、ヒールの音が通り過ぎていく。
「咲ちゃん」
妖子はハンカチを差し出し、咲の耳にそっと唇を寄せた。
「時間でしょ。泣いていたら、見逃しちゃうわよ」
囁かれた言葉。
咲の顔が、耳先まで一気に赤くなる。
「あ、あの……」
言葉を探せず、妖子の顔を見つめた。
妖子の肌は、頬かに青白く光っているようにみえるほど透き通っている。穏やかな瞳は知的で涼やかだ。真ん中で分けられた長い黒髪は一反の絹のようで、今は夕陽を受けて艶やかな光を宿している。
「あなたなら、大丈夫」
「は……い」
覗かれた瞳の色は、深くて甘い闇の色をしていた。咲は俄かに高鳴る胸を押さえて頷くと、時計をみた。
あと、三分だ。
「そうだ。これ、読んでいて」
「え?」
咲の目の前に、一枚の大きな封筒が差し出されていた。
何も書かれてはいないが、中に何枚か紙が入っているようだ。妖子は咲が受け取ると、満足そうに頷いて
「じゃ。今夜は帰りが遅くなるから、夕飯はいいわ」
と真っ黒な鞄を手にした。赤間が玄関に向かう彼女についていく。
「あの……」
赤間の行き先を訊きたげな口は
「みんなをよろしくね」
そう言われると、言葉を想いごと飲み込んでしまう。赤間はいつものように少し困ったような顔をして彼女のために扉を開けた。
「お任せください。お気をつけて」
「じゃ」
黒髪が翻り、まだ冷たい春先の風と入れ違いに妖子は出て行ってしまった。
「ここんところ、毎日だよな。彼氏でもできたのか?」
二之宮の言葉にも、赤間は振り返らない。じっと、ドアのむこうに消えた影を追うように、佇んだままだ。
「時間やで」
「あ!」
咲は足元からの声に、慌てて窓の外に目を向けた。