七十五日前 その1
「そんな……」
人の噂は七十五日だなんて。
咲はあまりのことに、絶句した。
込み上げた涙が、固い石ころになってのどに引っかかる。
不安を逃がすように、自分の膝に乗っている犬のジンの背中を撫でた。手のひらでジンの柔らかな毛が、きらきらと金色に光る。
文車堂古書店には、夕暮れの日差しが満ちていた。
咲は書店の中でも西側にある窓辺を、好んで座っていた。特に、日光を嫌う書物が赤く染まるこの時間は、そこから見渡せる店内が特別な空気を纏うような気がしてならないからだ。
壁が見えないほどうず高く積まれた古い書物たち。立ち上るほのかな黴臭さ。仄暗い部屋に浮かぶ、様々な国の文字。年代物の本棚に彫りこまれたレリーフ。埃をかぶったままのランプ。色褪せたカーテン。静かな空間。
全てが好きだった。
この空間の隙間を間借りするように住み着いている、ここの住人たちも。
「咲さん。残念ですが、現代の噂話はもっと速くうつろうものです。しかも、今後さらに短くなる可能性すらありますよ」
冷静な顔で紅茶のカップを傾けたのは、傍で本を読んでいた青年、赤間だ。上品な物腰で憂いを帯びた唇からそっと溜息をつく。後ろに撫でつけられた前髪の一部が、銀色をしていて、高い鼻先に小さな丸めがねをかけている。日本生まれだが、背はとても高くて、色白だ。
「ふんっ。お前は心配しなくていいから、そんな涼しい顔をしてられるんだろ。こっちは、色んな意味で危機だっつーの」
赤間とテーブルを挟んで座る少年、二之宮が唇を曲げた。イメチェンをしたくても髪を切れない彼は、茶髪に染め首の根元で括ってる。猫の様な一重の目は、やや生意気な印象を与えるが、顔の造形そのものはむしろ品のいい日本人形のようだ。しかし本人は自身の和風な外見がどうしても気に食わず、わざと英語のロゴが入った服を着ている。今日も、ざっくりと着ている黒いパーカーには、赤で大きく『FXXX YOU!』と殴り書きの様なロゴが入っていた。
咲はマスクを直しながら、首を傾げた。
「心配、ない?」
「そう。こいつ、女子高生の間で噂、されまくりだもん」
「え?」
一瞬緊張して赤間を見る。古書のむこうで、店主がこちらを窺う気配がした。赤間は慌てて「いや、私は何もしてませんよ!」と声を荒げ、店主のいる方へとチラチラ視線を投げた。
しかし、二之宮はその焦りを茶化すように、さらに声を上げる。
「本当か? 血が騒いでんじゃねーの? けっこう、前はヤンチャしてたんだろ? 美人の子ばっかり狙ってさ」
「大昔のことですよ! それに、べ、べ、別に美しい女性ばかりというわけでは。どちらかというと、僕のターゲットは子ども……」
目の前の二之宮に、というより店主の妖子に向けて話しているようなそぶりに、咲は思わず苦笑する。
確かに、噂にはなっているようだ。しかし、それは『イケメン書店員』って事で。その証拠に近くの聖真高校の女子たちが、きらきらした目をして覗いていくことが最近とても多い。
咲は彼女たちの春風の様な笑い声を思い出し、小さく息をついた。
普通に友だちと笑いあって、普通に恋をして、普通に学校に通う。そんな彼女たちはとっても可愛くて、とっても輝いて見える。憧れすら抱けないほどに。
「あっ」
慌てて、壁にかかった古い振り子時計を見上げる。
まだ、大丈夫。
ほっとして、またジンの背中を撫でる。柔らかな毛の感触が気持ちいい。
「いいよなぁ。聖真の制服、可愛いし。なぁ、一人くらいこっちに紹介してよ。昔みたいにナンパしてさ」
「じょ、冗談でもそういうことは、言わないでください! それに僕がしていたのは、ナンパではなく、人さらいです!」
「似たようなもんじゃん」
赤間の顔が、どんどん赤くなっていく。
いつもなら穏やかに笑って流すのに、そうはならないのはやっぱり……。
咲はチラッと店主のいる方へ目を向けた。
古書のむこうの気配が動いた。赤間の頬が強張り、二之宮がにやにやする。