掌編小説/中世物語 『マダムの唇』 2/3
マダムは、口にしていたブルゴーニュ産白ワインのグラスをサイドテーブルに置いた。
「あれは1479年8月7日のことだった……」
アルトワ州ギネガテ村での戦いだね。フランス軍は、電撃的にブルゴーニュ公国ピカルディ州を制圧し、勢いに乗ってアルトワ州をも切りとろうとしていた。
部屋の中は暗い。だからマダムは、昼前後になると椅子とサイドテーブルを中庭に面した回廊にもちだし、飲み物で咽喉を潤しながら、読書をしたり、うたたねをしたりして楽しんでいた。半分世捨て人のような生活だ。
サイドテーブルの横にもう一つ椅子がある。マダムはそれを俺に勧めてくれた。眼差しは遠く初夏・薄曇りになった空にむけられていた。
「暑い日だった。長髭の黒狐・デスケアード将軍に並んで私はテルアンヌ要塞から出撃した。騎士五千、徒士六千で合計一万一千というところだったか」
まあまあの軍勢だ。マダムも出陣したんだね。まるでジャンヌ・ダルクみたいだよ。
「督戦ってやつよ。最前線で戦っていたわけじゃないわ。でも騎士たちは私が軍中にいると妙に張り切った」
なるほどね。いつの世も男どもは莫迦だ。若い娘の前じゃ、いいところをみせようとする。若いときはさぞかし男どもを泣かせまくったことだろうよ。マダムは貫頭衣であるローブを腰のところをベルトで締めていた。その上にパルドゥスという上着を羽織っていた。靴は黄金糸の刺繍が施されていた。全体として青基調の装い。センスよく着こなしている。すらりと手足が長くて細面。異形の者ばかり生まれるあの家系にしては、唯一といっていいほどまともな、いや、美麗な容姿だ。そして年を重ねてまた違う魅力をかもしだしていた。
「私は将軍に、『敵は二万は下らない。大丈夫か?』ときいた。すると長髭の彼は、『マダム、大公は二十歳で実戦経験はほとんどない。騎士の突撃で歩卒の隊列など簡単に食い破れますぞ』と豪語した。長髭将軍は明らかに彼をなめてかっていた。かつては、兵員を線状に薄く横に並べた横列陣形が主流だった。ところが若い大公が採用した陣形は、あの歩卒密集方陣だった。約一万の軍勢で正方形の陣形を左右に二つ並べ横長にした。最も左に野砲からなる砲撃隊、最も右に追撃用の騎士隊を配備する。それはいままで騎士のサポート役に過ぎなかった歩卒を戦いの主役に置き換えたものだった」
実際の指揮は、左翼をサボワ家出のロモン伯に、右翼をナッサウ伯に執らせていた。金髪のあんちゃん……もとい大公は左翼前衛に立っていた。さすがは百年戦争でイギリスを押し返しただけのことはある。戦いの前半から中盤にかけてはフランス軍が優勢だった。フランス騎士隊は、まずはじめに左右にいた砲撃隊と騎士隊を蹴散らし、次いで右翼に食らいつく。それでナッサウ伯の右翼は半壊させられちまった。
「あれは傑作だった。あとで知った黒狐も私も愕然としたわ。騎兵も砲兵も見かけ倒しの餌。うちの騎兵はまんまと食いついちゃったのよね、あははは。まさか下賤な傭兵やら義勇兵と一緒に槍を持って最前列に立っていただなんて。まともな君主のすることじゃない。だってさ、あそこで討死したら公国は終わっていたわけでしょ? 黒狐は斥候をだしてもっとよく調べておくべきだったのよ」
フランス騎士隊は左翼じゃなくて右翼に突っ込んだことは幸運だった。
「まったく大公って運がいい人だわ」
マダムは細面に切れ長の目をしている。凛とした感じで、かつて18歳だった彼女を囲んで15人いたという元老たちはさぞ委縮させたことだろう。
「黒狐は分が悪いと察するや、鳴り物をならすよう命じ、前衛にいた騎士たちを撤収させた。右翼の大将首をあげる直前に、背後から無傷の敵左翼が襲い掛かってきたからだ」
挟み撃ち!
「そう、そうなる前に撤退する。騎士はいいものよ。だって不利になったとき馬に乗っているから逃げ足が速くなるじゃない」
フランスは戦争に負けても損失を甚大にしない。
「国是よ。戦争とは、相手をテーブルに着かせて、こっちの要求を呑ませること。反対の立場になったら、相手の要求を極力呑まないこと。それが講和会議というものだから」
なるほど、そのために、兵力を温存させる必要があるというわけだね。
白ワインのグラスを干した。マダムは手酌で瓶に収めた白ワインをグラスに注いだ。
「ギネガテ村からフランス軍はテルアンヌ要塞に敗走した。このとき敵兵の放った矢が、馬に刺さり、私は振り落とされた。そこで物見の敵騎士が私をみつけ、馬から飛び降り、仰向けになった私にまたがって動けないようにした。『卿を捕獲した。ご同行されたい』彼が私の兜についたカバーを上げて面食らった顔になった」
それが赤毛の坊ちゃん・ボルハイムだな。
「彼は、『なんという美しさ。女騎士だったのか……』とつぶやくと、名乗りをあげて自分の兜のカバーも上げて顔をみせてくれた。私も、これほどいい男はみたことがないってくらい、いい男だったなあ。すらっと背も高くってっさあ。捕虜になろうというときで不謹慎だけれど、そりゃあ、一目みた途端、ウルウルしちゃったわよ、オメメもあっちのほうも。あははははは」
おいおい酔ってないかい?
マダムはグラスをまた一息で呑んだ。目が座ってきた。
「しかし神様って無粋よね、イケメン騎士様の略奪嫁あるいは愛人になるチャンスを奪うだなんて……」
御味方が血相を変えて奪還にきたというわけかい?
「そうよ。残念ながら素敵な騎士様とはそこでお別れ。彼は馬に乗って自軍に駆け戻っていった」
マダムはそこで双眼を閉じて、ふう、と息を吐いた。
このときになって、主館の奥から、日に焼けた細身の老人がでてきた。顔や手にはそこかしこに刀傷の痕がある。おそらくは古参の騎士なのだろう。
「やあ、家宰君。どうしたのだね?」
「殿下、人の声が、御客人かと思いましたので……」
「察しがいいわね。そう、お客様よ。アンジェロ卿っていうの。ふるーい、ふるーい、お友達」
「アンジェロ……天使?」
老家宰は、さらに後ろについてきた若い侍女と顔を見合わせてから、また俺をみやった。
「素敵なお客様ですね」
「アンジェロ卿は水以外に口にしないわ。綺麗な容器に満たしてもってきて」
「かしこまりました」
二人は、殿下と呼ばれたマダムが俺にしている応対をユーモアと解釈したのか微笑していた。老家宰は右脚を引き、若い侍女は服の裾をつまむ。宮廷風のお辞儀だ。扈従たちは、それからまた奥に下がった。
「それでね、アンジェロ卿……」
マダムは話を再開した。
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This story follows the next time.
I will see you again.
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ノート20140318




