掌編小説/中世物語 『少女の誘惑』
少年のころ男子は大望を抱く。そして長ずるに及んでそれが煩悩に変ってゆく。男が堕落してゆくのは、女と酒とギャンブルだ。モテモテの坊ちゃんだが、そういう煩悩に免疫をつけていったのは、騎士の叙勲がなされて間もないころだった。
子供のころ、南ドイツ・田舎町の領主であった父親に連れられて、ウィナー・イノシュタットにあった「宮廷」に連れてこられたのだ。赤毛の坊ちゃん・ボルハイムは、騎士以上の家に生まれた子弟は、主君や親戚筋の家に預けられて、武術と教養を教え込まれる。
当時のドイツ=神聖ローマ帝国の宮廷は皇居といっても名ばかりの小さな砦だった。まだガラス窓というものが普及していない。ゆえに重厚な壁のわりに窓が小さくて暗いときている。しかし子供は元気なものだ。
「アンジェロ~。抱っこさせてよ~」
女はどうしてこうなのだ。抱っこは苦手だ。五、六歳そこらだろうか六、七人の娘たちが束になって廊下を駆けてきて俺を追いまわしたものだ。ここは逃げるが勝ちというもの。この城の姫君とお付の侍女たちだ。金髪のあんちゃん……もとい主公マクシミリアンの妹君・大公女は、なかなかの美少女で、方々から求婚が相次いでいた。
建物から外にでると一変して眩しいくらいの青空だ。庭は豆畑になっていて、主公の親父殿である皇帝みずからが家宰と一緒に畑仕事をしていた。一見名君みたいだが、人民と辛苦を分かち合う……というのではない。単純に貧乏なのだ。だいたいそんなことは、ちょっと体験して百姓仕事とはどういうものかというのが判ったら百姓にまかせておけばよい。そんなことより、行政システムがスムースに動いているかとか、世界情勢はどうなっているとかに関心を払うべきだ。
皇帝は、俺が駆けてゆき、その後を娘どもが追いかけてゆくのを一瞥した。丹精込めて育てている豆畑が踏み荒らされないように見張っているのだ。
庭に面した窓のひとつから、いつもの場所に駆け込む。そこが坊ちゃんの部屋だったというわけだ。
「あ、アンジェロ……また避難してきたのかい?」
まあな。坊ちゃん、風邪の具合はどうだい?
「うん、だいぶよくなった」
俺が窓枠に立ったのとほぼ同時に、エルネスタという宮女が部屋に入ってきた。
「ボルハイム卿、粥をお持ちしました」
米はオリエントからエジプトに伝わり、イタリアやスペインの一部でも栽培された。だが、中欧でいうところの粥とは、燕麦や蕎麦だった。好みで、塩・砂糖・バター・ジャムを加える。パンを口にするのは貴族階級のみだった。貧乏で節約を旨とした皇帝の宮廷ではどうか? どういうところは庶民とあまり変わらない。
有名な逸話で、主公マクシミリアンの母后がワインを口にしようとしたところ、父帝は、「水で割りなさい」といってたしなめたとかしないとか……。
俺が窓枠で伸びをしていると、宮女エルネスタは、ベッドに腰掛けて坊ちゃんの頭を膝に乗せ、スプーンにのせた粥を、ふーふー冷まして、食べさせてやっている。
宮女エルネスタは長い黒髪を編んでいる。瞳の色も黒だ。すらりと手足が長い。貫頭衣であるローブを羽織り、腰のくびれたところを紐で結わえていた。
「ねえ、ボルハイム様は好きな女の子がいます?」
宮女がかがむ。服越しではあるが胸のふくらみが顔にあたる。
おいおい、エルネスタ君、坊ちゃんをオッパイで窒息死させる気かよ。
「ねえ、ボルハイムさま~」
食事を終えた坊ちゃんは眠っていた。
「おねむさん。寝顔もかわいい」
宮女は坊ちゃんを膝から枕に移すと口づけした。額、こめかみ、頬、そして唇。特に最後の唇のときは余韻を残すように長くやった。
「貴男は私から離れられない……」
ぞっ。
廊下から足音がきこえてきた。一緒に騎士叙勲をやった主公マクシミリアンと、ソバカス君・ブリュッシェンクだ。
宮女はキスしていたのを悟られないように食器を下げた。その際、彼女はブリュッシェンクに流し目をやった。
おい、そこの君。狸寝入りをしている坊ちゃんのことだよ。世の中にはだな、こういう女もいるんだ。気をつけねばいけない。
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貧乏とはいえ、痩せても枯れても皇帝の宮廷だ。古今の書籍はもとより、多くの文化人が出入りしていた。主公マクシミリアンは、キリスト教の教義や古めかしい哲学にはあまり関心を示さなかったのだが、望遠鏡をつかった天体観測や科学実験をしたりするのは好きだった。そのため数学にも興味が湧き、騎士物語なんかも好みだった。それ以外の余暇は近習であるソバカス君と赤毛の坊ちゃんを引き連れ鹿狩りにでかけたものだ。そういうとき、俺も坊ちゃんの馬に乗せてもらい、ついていったものだ。そういう生活は騎士見習い期間は終わった後もしばし続いた。
その日は大物を仕留め損なった。帰り際に、城がみえてきたところで、坊ちゃんをみやったソバカス君が、長剣を引き抜いた。
「稽古か。いいだろう、相手になってやる」
徒士は30ヒッツオイル(80センチ)弱だが、騎士は40ヒッツオイル(100センチ)前後の片手でもつ長剣を携帯している。主公はだいたいのところは察したようで、審判役になった。
引き抜いた剣を引き抜いた両者は、はじめは距離をとり、じりじりと間合いを詰めてゆく。
最初に討ちかかってきたのはソバカス君だ。袈裟懸けに一撃を振り下ろしてくる。
坊ちゃんはそれをかわす。
二合めは横払いだ。
剣の身で受ける。火花が散った。
三合めは突きがくる。
坊ちゃんは、ソバカス君の腕を脇の下に挟んで、自らの剣・刃を相手の喉元にむけた。
「勝負あった!」
主公の審判が下った。
両者は剣を鞘に収めた。主公、ソバカス君、坊ちゃんの三騎が馬に乗り、轡を並べてゆく。俺も坊ちゃんの鞍に跳び乗った。
「また腕を上げたな、ボルハイム。やっぱりエルネスタは卿にこそ相応しい」
「!」
坊ちゃんが目を丸くした。
実をいうと例の宮女エルネスタは、ソバカス君といい感じだった。ソバカス君が夜になり部屋の扉を開けておくと彼女がやってきて寝台に並んで腰を降ろし語り合う仲だった。そのくせ坊ちゃんが風邪をひいたら、介護にかこつけてモーションをかけてきたというわけだ。イケイケのお姉さんかというと、そうでもない。こういう両天秤をやらかすのは案外と処女だったりする。単純にいってしまえば、気を引いている。
しかし愚かな男どもというものがひとたび友誼を交わすと結束する。
「いや、ブリュシェンク、卿が彼女に気を許していることは判っている。粥を運んできてくれただけだ。やましいことはなにもない」
「そ、そうか」
主公が口を挟む。
「じゃあ、これで手打ちとする」
めでたしめでたし。
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三騎が城に着き、やがてそれぞれの部屋に戻った。坊ちゃんは、窓枠のところで座っていた俺をみた。
「ねえ、アンジェロ、恋ってしたことある?」
遠い昔の謝肉祭。いまはもう色あせた記憶に過ぎない。……しかし、なんだね、坊ちゃん。けっきょくあの娘に惚れていたというわけか。恋より友情を優先したんだな。
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さて、いつものあれだ。
――俺かい? 猫だよ。
了
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ノート20140311




