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画集/徳姫

挿絵(By みてみん)

「徳姫」 2008年作   

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 私の描いた小品です。ここのところ、長編がつづきましたので、水彩画をお届けしたいと思います。

 故郷の福島県いわき市。そこの真ん中あたりに白水村というところがありました。国宝白水阿弥陀堂(願成寺阿弥陀堂)という建物があり、庭園の史跡整備に伴う発掘調査が行われ、子供の頃、一部始終を拝見しました。庭園に浮かぶ島と半島のように突き出たところに建てられた阿弥陀堂をつなぐ橋。復元された赤い橋。本来の橋の橋桁がでていましたよ。

 建立した人は、徳姫といいます。源義家の妹で、実質的な人質として、奥州藤原清衡の養女となり、一門の岩城国主平則道に嫁ぎます。徳姫は伝説が多く、この人に出会った人は皆、幸せになる。──そんな人だといわれています。皆様が幸福でありますように。(合掌)

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挿絵(By みてみん)

 写真,下記/里見(1996年)

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   『蘇らせた男』

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 日清戦争の年である一九〇二年(明治三五年)、常磐線で東京にむかう男がおりました。男の名前は亀岡末吉といいます。亀岡は内務省技師で松島瑞雲寺修理のため仙台にいった帰りでした。蒸気機関車に牽引された客車車両に人は少なく、向かい合った席にいた老婆と話し込んでいたところ、老婆が、

磐城いわきの白水というところに、徳姫という方がお建てになられたお堂があるから訪ねてみなさいな。むかし私が行ったとき、それはそれは素晴らしいお寺でしたよ」

 といい、徳姫の物語(※ 第6話参照)を訊かせてくれました。老婆の語り口は面白く、興味をそそるところがあります。

「白水阿弥陀堂か……」

 汽車は平駅を過ぎていましたが、亀岡は東京には帰らずに、ひとつ過ぎた駅で下り列車に乗りかえて平駅に引き返し、そこから人力車で、白水村へむかいました。そこで目にしたものは無残に荒れ果てた一棟の御堂でした。

「なんて荒れようだ。哀れな。廃仏毀釈運動はいぶつきしゃくうんどうのあおりをくらったんだな」

 亀岡は、堂に上がって御堂の柱、梁、天井、それに仏像群をつぶさに観察しました。その人は瞑想するかのように堂の中ほどで、往時の姿をイメージしてみました。

「痛みは極みに達している。どこもかしこも腐っているな――しかしなんて洗練された技巧なんだ。腐ってもたいだね、こりゃ。いや恐れ入った、こんなど田舎に都の技がきていたのかよ。ただの田舎寺とは格が違う」

 東京に戻った亀岡は、

 ――平安後期のすぐれた建造物白水阿弥陀堂を発見した。所在地は福島県磐前郡いわさきぐん白水村においてである。堂は南面して建ち、桁行き三軒、梁間三軒、一重、組物出組、宝形造り、とち瓦葺で宝珠・露盤を置く。組物や屋根の曲線に平安時代後期の特色がうかがえ地方色はない。阿弥陀三尊などの仏像は仏師の名匠定朝の流れをくむもののようだ。

 といった旨の報告書を提出し、東京美術学校(いまの東京藝術大学)図案科助教授千頭傭哉に緻密な図面を作成させ、さらに当代一の宮大工を白水村に派遣して解体修理の采配をしたため、御堂は朽ち果てる寸前で蘇り特別保護建造物の指定を受けました。その人が白水村を訪れてから二年後である一九〇四年(明治三七年)、日露戦争の年です。こうして一人の男の情熱によって白水阿弥陀堂は現在に残されたのです。

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 後日談――

 昭和に元号が代わったころ、阿弥陀堂はまた痛み雨漏りなどしだします。、名もない老農夫が、雨が降るたびに仏像に藁をかけて守っているという状況でした。この人の名前を子供のころにきいたのですが、忘れてしまい残念なことをしました。

 一九三四年(昭和九年)、国庫から六千円の費用をかけて再び大修理がなされました。さらに一九四三年(昭和二十七年)御堂は国宝に指定されます。

 戦後、水田耕作中に浄土庭園の立つ石が発見され、住職の報告を受けた教育委員会が文化庁に申請し、一九五一年(昭和三六年)、一九七二年(昭和四七年)、一九八三年(昭和五八年)の三次にわたる発掘調査がなされ、浄土庭園が地中から姿を現しました。いまはそこに再び水が満々とたたえられて蓮池となり、鯉や亀が泳ぎ、鷺・翡翠かわせみ、それに白鳥までもが飛来して人々を喜ばせております。

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引用参考文献

1 菊地康雄「白水阿弥陀堂研究史」『いわき地域学会潮流第二四冊別冊』1997年

2 里見庫男監修『目で見るいわきの100年』 株式会社郷土出版社 1996年

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挿絵(By みてみん)

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ブログ小説『伯爵令嬢シナモン』シリーズを読んでいただいた皆様には御礼申し上げます。さてコメントしていただく内容に、「考古学者レディー・シナモンのモデルは誰?」という質問がままあり、本日から、2回にわけてシナモンのモデルと背景をお話ししていきたいと思います。すべては私の郷里白水しらみずから始まります。

一九二七年(昭和二年)、黄金の髪をした才媛は日本へやってきました。その人の名は、ドロシー・ブレイヤーといいます。アメリカ合衆国マウント・ホーリーヨーク大学に進み、さらにミシガン大学で日本語科で日本語を習得します。両大学を卒業したドロシーは、すぐに太平洋を船で渡って京都大学考古研究室に在籍しました。

 当時の京都大学には浜田耕作という考古学界の巨人がおり、ドロシーは浜田博士に師事する形で十ヶ月日本に滞在し、 後に再来日して通算4年間滞在しました。その間、日本各地の社殿や寺院を巡っていたのです。

 彼女が訪れた寺院の一つに国宝白水阿弥陀堂しらみずあみだどうがあります。

 その日こそが「月と太陽が出会った」瞬間といえるでしょう。黄金の髪をした女性考古学者が国鉄常磐線平駅(現在のJRいわき駅)のプラットホームに降り立ちました。改札口で、駅員に、

「白水行きのバスはありますか?」

 と訊くと、

「白水? どこ、それ?」

 という返事でした。切符を切った駅員が離れたところにいた同僚にきいてみたのですがやはり判らないようです。それでも駅員の一人が、駅裏手にある平町役場(のちに移転していわき市市役所となる)までドロシーを案内してくれたのでした。町役場は戊辰磐城戦争で焼失した平城跡地の丘にあり、常磐線の砕石は城跡の石垣を利用しています。

 ドロシーが役場受付で、白水がどこにあるのか訊いてみましたが返事は同じく、「判らない」の一言です。そうしていると、一台のフォードが役場に着きました。ドロシーは、(もしかしたら、フォードの運転手は白水を知っているのかもしれない)

 と思いついて運転手に交渉してみました。

「白水? ああ知っているよ。送っていくよ」

 ドロシーは安堵して、

(やれやれね。なんとか白水に阿弥陀堂にいけそう……)

 と喜んでいたのもつかの間で降ろされたところは畑のふちでした。

「悪いけれど、ここからは車じゃいけないよ。この路地を道なりに進むといい。迷ったら地元の人に訊いてくれ」

 フォードの運転手はそういうとハンドルを切って引き返していってしまいました。畑道は雨あがりでしっとりと濡れています。

(人力車も通らないみたい。砂利も敷かれてないから道がぬかるんでいるわ。ここを歩くの? あーあ、革靴が台無しだわ)

 ドロシーが苦笑しながら、運転手が指さした方向へ歩いていきました。道を進めば進むほど市街地から離れてどんどん寂しい風景になってくる。しかしドロシーは周囲の景色を見渡してある確信を抱きました。

(浜田博士がおっしゃっていたわ)

 ──典型的な〈寺院風水〉は、三方に小高い山、開けた平地に南面したところを東に向かって流れる川がある)

(間違いない。白水阿弥陀堂はここだ!)

 以下は、戦後ドロシーへのインタビューと執筆した論文を抜粋したものです。

 駅から一里もすると小高い山に至る。麓をまわると三方が山に囲まれた人の少ない場所にでた。奥まったところにはつつましやかに、あたりの翠微すいびに包まれて阿弥陀堂が南面していた。数はさほどではないけれども、鬱蒼うっそうと茂る大木の生い立った境内に柿葺き宝形造こけらぶきほうけいづくりの屋根を遠望したときは、ついに来ることが出来たという安堵しめやかな嬉しさが胸にうづくのを覚えた。

「白水阿弥陀堂に近づいてみた人は、これほどまでに小さな寺院建築のいやみのない単純さに心引かれることだろう。丘を超えた寂しい場所に遠くかけ離れて位置し、傍らには二本の高い杉の木があたかもこの堂を守るかのようにそびえている。……白水阿弥陀堂は日本における最も美しい仏寺の一つである」

 ドロシーは帰国して、コルニング・ガラス博物館ニューヨーク州研究員として勤務し、博物館ニュースに記事を載せました。記事を読んだ東伏見伯爵は、

 ──日本美術に対する堅実な素養がうかがえるとともに、日本人には気づかないような点を興味深く指摘しているところもあり、外国人だというのに、このような境地に達している人であるということを知った。

 とコメントしています。

 資料に目を通すと、どうやらレディー・シナモンことドロシー・ブレイヤーは、『伯爵令嬢シナモン』「飛行船の殺人」とほぼ同じ舞台となる一九二七年(昭和二年)に実家の前の小路を北に向かって歩いたということが判りました。ドロシーの存在を知る白水の人はどれほどいるかさだかではありませんが、その人は私にとって、とても身近なところにいたのです。

 中国の天才詩人である杜甫と李白が顔合わせしたときのことを、「月と太陽が出会った」と形容します。白水阿弥陀堂を訪れたドロシーは、気づかぬうちに、ある貴婦人の崇高な魂に触れていました。ある貴婦人とは──。

 さて次回の『白水物語』は、今回紹介しました国宝白水阿弥陀堂を建立した徳姫とくひめについて書きたいと思います。徳姫こそは、清和源氏の娘に生まれ、奥州藤原氏の養女となり、平氏の流れをくんだ岩城則道いわきのりみちの妻となる貴婦人にして、もう一人のレディー・シナモンです。徳姫の数奇な人生に刮目かつもくあれ。

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引用参考文献

1.角田文衛「白水行──阿弥陀堂のことども」『古代文化10』 財団法人古代学協会 1978年 

2.菊池康雄「白水阿弥陀堂研究史」『いわき地域学会潮流第24冊別冊』 1996年

3.ドロシー・ブレイヤー『日本之硝子史』講談社インターナショナル株式会社1973年(DORTHY BLAIR 〝A HISTORY OF GLASS IN JAPAN〟)

 ※抜粋記事は、作品を平易に書く都合上、原文のいいまわしを現代風に少し変えていますが主旨の変更はありません。ご容赦のほどを。

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挿絵(By みてみん)

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   『北の貴婦人徳姫・シナモンのモデル』

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 以前に、実在する女性考古学者、「ドロシー・ブレイヤー」に関する記事をかき、彼女がレディー・シナモンのモデルの一人だと紹介しました。

 ドロシーのレポートと、この人を扱った取材記事を読まれた方はお感じになったでしょう。まるで、何者かに導かれるようにして、白水阿弥陀堂に向かいました。阿弥陀堂は、ある高貴な女性によって築かれた瀟洒な寺院です。その貴婦人の優しさと、ドロシーの探求心のイメージを合わせて、レディー・シナモン像ができあがりました。

 スピリチュアルなことをいう方であれば、ドロシーが、(飛行機も未発達な時代にもかかわらず、日本の片田舎の寺院を訪ねてきたのは、前世の記憶をたどってもう一人の自分に合いにやってきたとしか思えない)とおっしゃることでしょう。

 それでは、北国に実在した貴婦人の波瀾万丈の人生と愛に生きた伝説をご覧くださいませ。

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 ここは東京に本社がある雑誌『東京倶楽部』の編集室です。編集長の机の手前には記者やカメラマンの机が並べてあり、並んで座っているのが、記者の佐藤氏とカメラマンの中居氏でありました。ちょうど昼休みで、二人はコンビニで買ってきたカップラーメンをすすりながらノートパソコンのキーボードをたたいているところです。

「せ、先輩----」

「どうした、中居?」

「パソコンで検索していたら、スイーツマンの本店ブログをみつけました」

「それが、どうしたっていううんだよ」

 佐藤氏は、興味なさそうにカップラーメンを、ずず、とすすりました。

「先輩、姫様、レディー・シナモンには、モデルがいるようです」

 ラーメンを口に含んだ佐藤氏が、ぶっ、とそれを中居氏にふきました。

「わわっ、汚いっすよ、先輩----」

 パソコンの画面には、なんと、

『北の貴婦人徳姫シナモンのモデル

 と書かれているではありませんか……。 

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 平安時代末期の英雄源義家みなものとの よしいえが、勅撰集『千載集』に入選した和歌に次の一首があります。添え書きには、義家が、「陸奥国(みちのくに)にまかりける時、勿来(なこそ)の関にて花のちりければよめる」とあり、

 ──吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな

 と詠んでいます。意味は──勿来とは、『来るな』という意味の関所である。吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っている……というものです。

 歌の舞台は現在の福島県いわき市勿来にあった勿来の関のことを指しています。源義家はここを通りました。

 一〇六二年(康平五年)、前鎮守府将軍源頼義は、陸奥の豪族安倍貞任あべさだとうが起こした前九年の役を平定した帰り道に、常陸国権守を称する多気宗基わけむねもとの館に宿泊しました。このとき多気宗基は十八になった娘に、「頼義公を慰めるように」と命じます。娘はその戯れの中で懐妊し、一〇六三年(康平六年)に誕生したのが徳姫とくひめだというのです。なんという悲しい出生なのでしょうか。

 前九年の役から二十一年が経ちました一〇八三年(永保三年)、阿部貞任討伐に協力した清原一族が実質的に阿部氏旧領を接収し、かって阿部氏よりも強大な領国を築いてしまいます。朝廷側としてはゆゆしきこと。そんなとき、うまい具合に清原武衡きよはらたけひら家衡いえひらの兄弟による跡目争いが起こります。清原一門を叩きつぶすチャンスです。それが世にいう後三年の役です。

 源頼義の後を継いだ源義家は陸奥守むつのかみと鎮守府将軍を兼任し、後三年の役の鎮圧にむかいます。途中、常陸を通り、陸奥の入り口である勿来の関を通過しました。

 このとき、いかめしい軍団にまじって、朱を塗られた美麗な輿が担がれておりました。行列の中程にいた義家が、「小休止」の合図をすると、輿の傍に馬を停めて中の人に声をかけました。

「輿からでてきてみてみなさい、徳姫、見事な桜ではないか」

 長い黒髪をした姫君が輿を降り、兄と同じ勿来の山桜を眺めると、控えていた侍女に目配せをし笛を受け取り奏で始めました。笛は「波立」といい、昔、吉備大臣が朱雀天皇に献上し、源氏嫡流に伝わったという名器です。遠く陸奥の入り口へやってきた将兵たちは笛の調べに慰められたことでしょう。

 腹違いの兄である義家は妹を親切に遇しました。しかしながら奇異なのは、多気宗基の屋敷から、若き乙女である腹違いの妹を戦地に随行させたところです。そこには政治的な目論見がありました。

 源義家の盟友に藤原清衡ふじわらきよひらという人物がいます。清衡は、清原氏一門ではありますが、国司で藤原氏一門であった父と阿部氏の母との間に生まれ、阿部氏が滅ぼされると、連れ子として清原一門に加えられたのです。争っていた清原武衡の義弟にして家衡の義兄という立場にあり、戦争で両者が共倒れとなると、奥州藤原氏とよばれる百年つづく平泉政権を築き、実質的な東北王国の長となります。

 徳姫は、藤原清衡の養女となりました。ていのいい人質ですね。さらにこの人は、清衡の家臣で、清衡一門である清原直衡の娘婿の平則道たいらののりみちという人物が早くに妻を亡くしたため、後添えとして嫁がされました。このため平則道は奥州藤原氏一門に列せられます。一〇八四年(応徳元年)、平則道三十九歳、徳姫二十四歳のことでした。

 平則道の出自は平氏の流れとされていますが、実際は古墳時代の豪族石城国造を祖とし、清原氏もその流れをくんでいるという説もあります。いずれにせよ奥州藤原氏一門として不動の地位にあることには代わりありません。

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 迷惑そうな顔をしながら中居氏が、佐藤氏が顔にふいたカップラーメンを、タオルでふき取っています。

「せーんぱーい、こりゃないですよ、たくーっ……」

 佐藤氏はそんな中居氏を押しのけて、中居氏のパソコンに釘付けになっています。

 では、続きをいたしましょう。

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 源義家が奥州を鎮定すると、朝廷はこれを私闘とみなして論考功賞を行いませんでした。やむなく義家は私財を投じて麾下に恩賞を与えたため武家層からの絶大な支持を集めます。その結果、なおさら朝廷側から疎まれてしまい、ついには陸奥守を罷免されてしまいます。これには摂関藤原家の意向が大きく関わっていました。

 ──陸奥国は辺境とはいえ日ノ本一の大国じゃ。昨今、急速に勢力を拡大しておる源氏なんぞに任せておいたら藤原一門とて危ないわ。血は水よりも濃い。藤原清衡とやらは末流とはいえ藤原一門。源氏なんぞより信用できる。

 という陰謀があり、源義家は大功がありながらも失脚してしまったわけです。奥州の覇者清原氏を討ち、源義家が排斥され、漁夫の利をしめて最後に笑った男が藤原清衡でした。清衡は配下の武将たちに領地を分配します。平則道には、磐城国とも呼ばれる磐城五郡を与えました。    

 平則道は、新妻の徳姫を随行して現在のいわき市平物見が丘に居館を置き、磐城国主岩城則道と名乗ります。物見が丘の麓の平野部は市街地となり平と名付けられました。

 則道は国主となりしばらくすると亡くなり、貞衡が継ぎ、さらにその後目を繁衡が継ぎます。未亡人となった徳姫は薙髪ていはつして徳尼御前と称し、物見が丘の館から少し離れた御台境みだいさかいというところに居を移し簾政れんせいをしいたようです

 いわき中央部を流れる河川に夏井川がありますが、夏井川はいくつかの支流を加えて東流し、最終的には太平洋に注がれます。物見が丘の館のお膝元である平には支流の新川が流れていたのですが橋がありません。徳姫は、難儀する領民たちのために、当時としてはハイテク技術でしかも資金のいる大きな橋を建ててやりました。これが、今に伝わる「尼子橋」で、長さ百五十間、幅二間というものでした。尼子とは徳姫をさします。尼子橋を祝福し讃辞を送った人には、江戸時代の松尾芭蕉もいて、

 ──みちのくの 尼子の橋や 稲の上

 という句を残しています。この一句は、橋の完成を祝福したのは人間ばかりではなく商業の神である稲荷大明神までもが眷属を遣わして祝福したのだという伝承を俳句にしたものです。眷属は、老翁老姥と子女十二名が、衣冠装束に烏帽子姿で現れ、橋の開通式典の先頭を切って、笛や太鼓で舞い踊り、

 ──千代は泊まるともこの橋の、御代ながながと末長く、尼子の橋

 と万歳のはやしを唱い、橋を渡りきったところで、ふっ、と消えたのだとか。

 この人は、とても長生きします。

 一一六〇年(永暦元年)九十七歳のとき夢枕に御仏があらわれ、「三方を山に囲まれ、南に川が東流する祝福の地」に徳姫を案内します。喜んだ徳姫は、早速この地に、毛越寺の浄土庭園と金色堂にならった阿弥陀堂ほかの大伽藍からなる白水寺を築かせ則道公の菩提を弔うとともに、風水的に根拠地物見が丘の守護する南池としたといいます。白水寺は始め天台宗でしたが、現在は真言宗となって願成寺と名を改めます。これが白水阿弥陀堂しらみずあみだどうです。岩城氏の根拠地である平は、平泉の平という字にあやかったもので、白水という字は平泉の泉という字を二つに割ったものだ──という説があります。

 白水阿弥陀堂建立の前年、京では、徳姫の兄である源義家の末裔である源氏一門が、一一五九年(平治元年)平治の乱で、いったんは平清盛に滅ぼされています。嫡子源頼朝は伊豆に流されていましたが、徳姫は不遇な頼朝のために差し入れを贈ったりして世話を焼いたそうです。贈り物のなかには兄義家からもらった源氏棟梁家の名宝「波立」があり、不遇の頼朝を大いに励ましました。

 一一八〇年(治承四年)に、平氏六波羅政権に対する反乱が各地で連鎖的に勃発し治承・寿永の乱となると、板東平氏を見方につけた源頼朝が伊豆で挙兵をします。六年後の一一一八五年(元暦二年)には、頼朝はついに平氏を打倒します。

 その最中である一一八三年(治承元年)に、自らは草庵で質素に暮らし、ひたすら人を愛するためにだけに生きた「北ノ王国貴婦人」は、源氏天下の足音をききながら息をひきとり、亡骸は夫則道と同じ菩提寺である章門寺に納められます。なんと百二十二歳の大往生でした。

 一一八九年、源頼朝の弟義経を平泉がかくまっていたということを口実に、頼朝は奥州に遠征し、平泉政権奥州藤原氏を根絶やしとしました。奥州藤原氏一門である岩城氏は頼朝に寝返って存続を認められましたが領地を大幅に減らされてしまいます。

 徳姫第二の故郷平泉は陥落しましたが、その結果、岩城国は中世における陸奥国最大の経済的文化的拠点として栄えたともいわれます。皮肉な話しではありますが徳姫の努力が実ったことになり、私個人としては救われた気がします。岩城一族は、栄枯盛衰を繰り返しながらも存続し、近世は羽後(秋田県)に遷って亀田藩となり維新を迎えました。

 亀田藩藩庁であった亀田城は、秋田県由利郡岩城町に所在し、その岩城町は二〇〇五年の町村合併で由利本荘市に編入されます。合併前、岩城町は、岩城家つながりで福島県いわき市と姉妹都市になっていました。

 一九九〇年前後、白水阿弥陀堂の催しで岩城家令嬢が白水を訪れ、今は亡き私の父が近隣をご案内しました。なぜ父は上京していた私を呼んでくれなかったのでしょうね? いまだに不満です。

 最後に、白水阿弥陀堂を訪れた歌人土井晩翠の短歌をどうぞ。

 ──南無阿弥陀、仏と唱ふる一声に すくいの御手のふるるかしこさ

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 パソコン画面の末行まで、読んだ佐藤氏は、ふう、と一息いれました。

「神仏に愛され、領民に慕われ、詩人に讃えられた北ノ王国貴婦人『徳姫』か……」

「すっげーっ、徳姫、すっげーっ!」 連呼した中居氏が続けます。「ところで先輩、モデルの徳姫が百二十二歳まで生きたというとことは、姫様も? しわくちゃのババアになっちゃうんすかね?」

 そこで中居氏が、はっ、とわれに返ったのでありました。

 ぎゃ。

 一同礼。

     了

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引用参考文献

辻金録 『創立八百年記念国寶白水阿弥陀堂』 市川商店 1956年ほか)より

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ノート20120704

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