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日記/幻の定義(じょうぎ)温泉

 迷走は時間のロスだ。無理をしてでも自家用車にはナビを設置すべきなのだ。そのことをつくづく思うことがある。仙台市街も慣れるまでかなり走った。おそらく、ナビを装着する費用くらい無駄なガソリン代を出費したに違いない。

 母のぎっくり腰騒ぎが一段落して、毎週のように実家に帰省していたのが、少し間隔を置いても大丈夫になった。そこで、8月初めに仙台に着任した私だが、ようやく遅まきながら、家内と名所めぐりをしようということになった。

 プレハブ現地事務所には、所長のシバタ氏、測量隊長のオヤッさん、測量助手のマッチョ氏、そして私・奄美の四人が事務机を並べ、隣接する休憩棟には作業員さんが15人前後が詰めている。

「――で、今度の週末は奥さんとお出かけなんだね」

「郊外を少しドライブすると、宿舎の近くに、名刹とか温泉がある。大倉川っていう川沿いの道を奥にむかってゆくと大倉湖っていうダム湖がある。そこからさらに先にいったところに、定義如来じょうぎにょらい西方寺って寺がある。門前町・土産物屋の揚げたて油揚げが絶品なんだ。寺から、さらに奥にゆくとだ、温泉まであるんだぜえ」

「そうそう」

 オヤッさんとマッチョ氏も腕組みしてうなずく。

 ――なるほどね。温泉か。

 私は、仙台市地図を事務机に広げる。

 するとシバタ氏が指をさす。

(秘湯だな)


 10月8日。雨が降ったので遺跡調査は休止となった。午後から休みをとり、タオルと着替えをもって早速、温泉のある名刹へとむかう。

 仙台市から山形県にむかう国道48号線。市域の西の外れ・熊ヶ根で北上して県道263号線・55号線と入ってゆく。まだ紅葉は半端な状態。そのうちダム湖がみえてくる。湖は底のほうに水が溜まっているくらいしかない。湖畔の細道をすれ違う車にときどき譲りながら、進んでゆく。それでもぽつん、ぽつん、と人家があり、猫の額のような耕地が散在していた。坂を越え、渓谷にかけられた橋を渡ってむこうにゆく。すると意外にも門前町が出現し、さらに奥には、定義如来西方寺の大伽藍が姿を現す。

 本堂、五重塔、なんとか堂……。

 小雨模様なので、外観をちょっと歩いて車に戻る。

 なんとか堂前の土産物屋には、編み籠、漬物や饅頭といった定番商品が並べられている。畳敷きの休憩所に入り、シバタ氏が勧めた油揚げを注文する。180円だったか。やたら大きくて、中身がしみ豆腐のような硬締めになっている。平日なものだから、揚げたてではなく、作り置きを電子レンジで再加熱したものである。

 さて、問題の定義温泉だ。寺の奥というのは、人気がない。村上春樹の『ノルウェーの森』みたいに、隔絶した山林の道らしき道もあるのかないのだかという感じで、仙台市地図には載っているものの、現地に案内板・標識というものがない。

 店の女将に地図を示し訊いてみる。

 ――ああ。あの温泉ですか。もう閉めちゃってますよ。3.11地震よりも前だったかな。もっともね、精神こころを病んだ人のための療養施設で、ぬる湯だったのだとか。一般の人が訪ねても断られていましたよ。

 女将が温泉のある方向を指さす。

 はるか山奥で、峯には霧がかかっていた。なんだか行ったら迷子になって戻ってこれない感じだ。で、そこに行ったかって? もちろん、そんなリスクはごめんだ。引き返すことにした。

 翌日、事務所の三人に、定義如来参拝と茶店の再加熱油揚げの件、それから定義温泉入湯失敗の報告をする。

 シバタ氏がいった。

「え、温泉なんかあったの?」

「やだなあ、シバタさんや、オヤッさん、マッチョさんまでいうから、でかけたんですよ」

「そんなことはいった憶えもない」

 脳が老化して訊き間違えたのか? いや、温泉といわれなければ、そもそも定義になんてでかけなかった。まるで現代版・隠れ里だよ。危ない、危ない。

     了

.

ノート2013.10.16

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