不眠症
診察室へやってきた患者を見てすぐ、私は彼の重篤性を認めた。
「先生、助けてください――」
患者は力なく、半ば呟くようにして言った。血色は悪く、体は痛々しく痩せ衰え、むやみに神経が高ぶっているためか指先は小刻みに震えている。
「まあ、まあ、落ち着いて」と、私はひとまず患者を椅子へ座らせる。頭を抱えつつも、患者の真っ赤な瞳は、まるでそれ自体が別の生き物であるかのように不自然なほど動き回っている。患者は不眠症だった。
患者の隅々を詳細に観察しながら、私は質問をしてみる。
「前の病院ではどのように診断されましたか?」
「はい、なんでも神経性のものだとか……」
「なるほど。で、薬はどのようなものを処方されましたか?」
「詳しくは……ただ神経の昂りを抑えるためのもの、とか」そこで突然口を閉ざすと、患者はヒステリックに髪をかき乱した。「ああ、でも結局は眠れないんですよ、何か、こう終始心臓がバクバクしているようで――」
「それでこちらへいらした、と?」
「はい、前の病院からは、心労が重なって不眠に拍車をかけているから、こちらで催眠療法を受けるように、と。……でも先生、僕は治るでしょうか?」
不安げな患者に私は微笑みかける。「大丈夫、きっと良くなりますよ……」
でも「治る」とまでは言えない。なるほど「病は気から」とは惨酷な諺だ。結局のところ、病気の治療には本人の意思が最優先である。
「とりあえず早速、試してみましょう。まずはそちらの診察台に横になってください」
患者は言われた通りにする。
「では目を閉じて。……これから、私の言う場面をイメージして下さい。今、あなたは病院で催眠療法士をしています」
黙ったまま患者は頷く。
「さあ患者が入ってきましたよ、一目で不眠と分かる、そんな患者です――では、その患者に催眠術をかけましょう、なんの場面を設定しますか?」
「ええと、その……何が良いでしょう?」患者はまごついた。
「何でもいいですよ、なりたい職業でも、見たい景色の場面でも」
「ならば、――ライオン、とか」
言い終わった瞬間、患者の体が弓なりに激しく仰け反った。そのまま激しく痙攣し、白目を剥いている。私はあまりのことに腰を抜かして尻餅をつく。そして一瞬の出来事の後、患者はライオンになってしまった。
「ああ、そんな……」こちらに向かって唸るライオンを見て、私は呻き声を上げるしかない。ライオンは容赦なく飛び掛ってくる。こんなことはあり得ない、これはきっと――
夢だ。
「――どうでしたか?」
遠くからの声で、私の意識は覚醒する。起き上がってみると、体は思いのほか軽い。
カウンセラーが差し出してくれた水を一気に飲み干す。背中に触れてみると、シャツは水を被ったように汗で濡れていた。それもそうだ、あんなに恐ろしい夢を見た後だ、冷や汗ぐらい……。
待てよ、
自分は「夢」を見たのか?
「どうでしたか、久しぶりの睡眠は?」
空になったコップを受け取って、カウンセラーが私に微笑みかける。信じられない。ここ数ヶ月の間、まともに眠れなかったのに。
「三時間ほどお休みでしたね。何度かうなされていましたが、だんだんと改善してゆくでしょう」
そうだったのか。しかしこのカウンセラーの言う通りだろう。眠ることを体が思い出したようだ。
「それにしても、不可思議な催眠術ですね」私はどうしても気になって尋ねてみた。「不眠症の私が、不眠症患者に催眠治療をする夢だなんて――」
とたんに、カウンセラーが奇声を上げると地面に倒れ伏した。しばらく痙攣していると、私のあっけにとられている目の前であれよあれよという間にライオンに変わってしまう。何ということだ。しかもこの獰猛さと牙の鋭さといったら。血走った目、爪の感触からしてどうやら、今回ばかりは夢ではないようだ。