第二章 1〜2・第三章 1
第二章
一
「う〜ん」
カーテンの隙間から入ってきた朝日が瞼にあたり、顔をしかめる。
「いつの間に、ベッドに横になったんだ?」
聖司は一端、目を開けたが目覚まし時計を見て、いつものように二度寝に入ろうとした。が、昨夜のことが頭をよぎり飛び起きた。
「どこに行ったんだ?」
部屋中を見渡しても、自分しかいない。まるで、何もなかったようだ。
「夢か?」
寝ぼけまなこで頭を掻き、夢だったのだと決めつけて横になろうとした。
「聖司様。おはようございます」
爽やかな笑顔で、梨々菜が入ってきた。
「夢じゃなかったか」
聖司は小さく呟いた。
「え?何ですか?」
「何でもないよ」
「朝御飯が出来ていますから、早く下に降りて召し上がってください。目玉焼きはわたくしが作ったんですよ」
カーテンを勢いよく開けて、聖司を急かす。
「わかったよ。って、君が作ったの?母さんと父さんに怪しまれなかったのか」
「記憶を操作すると、説明したじゃないですか」
「そ、そうか」
「わたくしは、お母様のお姉さんの、旦那様の妹さんの娘ということになっています。どうしても、こちらで学校生活がしたいということで、居候しているという設定です。ちなみに名字は鏡です」
鏡から出てきたということで付けたのだろうが、聖司は安直な理由だなと思った。
「設定、ね」
「了解。それと俺のことは聖司でいいから。様付けはやめてくれ」
「分かりました。行きましょう」
聖司はパジャマのまま、梨々菜とともに下に降りた。
「おはよう」
「あら、おはよう。早いじゃない。梨々菜ちゃんが起こしに行くと、キチンと起きるのねぇ。ありがとう、梨々菜ちゃん」
「はい」
―――自然な会話だな。
昨夜、記憶を操作すると聞いたときは、梨々菜の出現に驚いていたから、特に何とも思わなかった。しかし、今の何気ない会話を目目の当たりにすると、これから大変な経験をすることになるのだなと実感した。
「二人とも、ご飯を食べなさい」
「はい」
梨々菜が席に着くと、その隣に聖司は黙って座った。顔はテレビに向いている。
「梨々菜。あれって、もしかして関係あるのか?」
小さい声で言う。テレビでは、昨日の朝にも報道されていた事件が取り扱われていた。どうやら犯人が捕まったらしい。
「そうです。ここからは、だいぶ遠いところですから、聖司さん以外の方が退治したのだと思います」
「そっか」
「次は、ここの近くかも知れませんから、心の準備だけはしておいてください」
「うん」
食事を済ませて着替えると、二人一緒に家を出た。聖司が担いでいるバックには、特殊機能が追加された、見た目は普通のカメラが入っている。
「そういえば、学校の方は大丈夫なのか?」
「もちろんです。先週から転校したことになっています」
それはクラスメートになる学生、先生等の学校関係者、全ての記憶と書類を操作したということだ。
「凄いな」
「簡単なことですよ」
そう言って隣を歩きながら微笑む梨々菜は、高等部の制服を着て女子高生になりきっていた。凛とした顔立ちなので、とても大人びて見える。身長も百七十cmある聖司より、少し低いくらいのため、綺麗なお姉さんという雰囲気だ。
「どうしたんですか?ジッと見て」
「な、何でもないよ」
「おはよう、聖ちゃん。早いね。誰?その人」
曲がり角から突然現れた聖美は、梨々菜と聖司を交互に見て訝しげそうな表情をした。
「聖美には、してないのか」
梨々菜の耳に口を寄せて聞いた。
「はい。記憶操作を最低限に抑えるために、しなくてもよさそうな人にはしていません。しましょうか?」
言うが早いか、梨々菜は身体の後ろで素早く印を切った。
「いいよ」
梨々菜の手を止めてから、一歩前に出た。
「聖美には話してなかったよな。この人は鏡梨々菜さんといって、俺の遠い親戚なんだ。先週、蒼翠の高等部に転校してきたんだ」
「ふうん」
聖美は下から上に、舐めるように観察した。
「初めまして、鏡梨々菜と申します。聖司さんが、いつもお世話になっております」
「あっ、いえ」
聖美は、年下の自分に深くお辞儀をする梨々菜に戸惑った。
「保護者みたい」
ボソッと呟いた聖美から、さっきまでの怪しむような表情は消えていた。梨々菜の佇まいが、怪しい人ではないと感じさせたのだろう。
「世話になんか、なってないよ」
「あっ、そう言うんだったら今後一切、宿題見せてあげないんだから」
「うっ。そ、それは」
「仲が良いのですね」
微笑ましく見守っていた梨々菜の視線に恥ずかしくなった聖司は足早に歩き始めた。
「じゃあな、梨々菜」
「はい」
「待ってよ」
聖美は梨々菜に軽くお辞儀をすると、すぐに聖司の後を追った。他の通学している生徒を、どんどんと追い越していく。
「あんな美人が来ているなんて、なんで教えてくれなかったの?」
追い付いた聖美が、不満げに言う。
「なんでも聖美に教える必要はないだろう」
「一緒に通学しているってことは、一緒に住んでいるの?」
「わざわざ一人暮らしする必要ないだろう」
「ふうん」
聖美の口調にカチンと来た聖司は、思わず語気を強めた。
「いちいち報告する義務なんて、ないだろう」
「そうね」
聖美は足を止めて呟いた。
「なんだよ」
足を動かしたまま振り返ると、走ってきた聖美がアカンベエをして追い越していった。
「言い過ぎたかな」
聖美の記憶を操作するのは嫌だったのだが、こういう展開になってしまうとは。聖司は少し後悔していたが、謝るのも変なので放っておくことにした。
二
聖美と気まずくなってから数日後、暗室で一人、現像作業をしている時だった。定着液に浸していた印画紙を取り出し、水を流しているバットに入れると、その水面に梨々菜の顔が映った。
「聖司さん」
「おわっ」
ゆらゆらと揺れる梨々菜の顔に驚いて、思わず大声を出してしまった。
「どうかしましたか、先輩」
「い、いや、何でもない」
暗室の外から真衣香に声をかけられて驚いたが、冷静を装って答えた。
「ちょっと失敗しただけだ。まだ作業中だから開けるなよ」
本当はもう開けても大丈夫なのだが、未だ現像中だということにした。
「どうしたんだ」
梨々菜に小さい声で話すようにと、人差し指を立てながら言った。
「すみません。いま罪人の気配を感じました。カメラを持って急いで出てきてください」
「わかった」
聖司はバックにカメラを入れて、暗室を飛び出した。
「瀬名。あの印画紙、いま水に入れたばかりだから。乾燥までやっておいてくれ」
「良いですけど、先輩はどこに?」
バックを抱えているので、撮影に行くと思ったようだ。
「ちょっとな。先に帰って良いから。待っていなくて良いぞ」
呆気にとられる真衣香を残して廊下を走り、昇降口を出ると梨々菜が待っていた。
「なんだ、その格好」
梨々菜はレオタード姿だった。ジャージの上着を羽織ってはいるが、かなり目立つ格好だ。
「すみません。体育で張り切りすぎたら、担当の先生に気に入られたようで無理矢理、体験入部をさせられてしまって」
「クルッと回って着替えないのか?」
「そうですねぇ。実はちょっと気に入っているので」
どうやら、満更でもないらしい。
「まあいいか。で、どっちなんだ?」
「ここからだと少し離れているので、近道を行きます。ついてきてください」
梨々菜の後をついていくと、人気のない路地に入っていった。そして、ジャージのポケットからコンパクトを取り出して開いた。
「ここから行きます」
「ちょっと待て、ここからって」
梨々菜は、否応なしに聖司の手を握った。
「瞬」
「まさか」
コンパクトの鏡が白く光る。これは、梨々菜が聖司の前に現れたときと同じだった。
案の定、梨々菜と自分の身体も光り出した。
「心の準備が」
一瞬、目が眩み頭の中がグラリとした。
「着きましたよ」
梨々菜の声に促されて恐る恐る目を開けるとそこは、さっきまでいた路地とは、まったく違う場所だった。聖司の横には、二人が出てきたのであろうカーブミラーが立っていた。
「ふう〜。死ぬかと思った。ここは?」
「学校から十キロほど離れたところです。近くにいますよ」
聖司はバックからカメラを取り出し、フィルムを入れた。
「なあ。このまま行って、顔を見られるのって不味くないか」
「そうですねぇ。じゃあ、変身しましょうか」
「変身?仮面を着けるのか?」
「聖司さんが思い描いたとおりに変身できるようにしますね」
聖司の頭に手を置いた。
「いいですよ」
「じゃあ」
子どもの頃に見た特撮ヒーローを思い描くと、フルヘルメットの仮面が頭にピタリとフィットした。
「それだと、カメラを使いにくいですよ」
「そうだなぁ」
ファインダーを覗くと、カチカチとぶつかる。確かにこれだと瞬時に対応出来ないし、不便きわまりない。
「これはどうだ」
今度は仮面舞踏会で見かけるような、目に着ける仮面が出現した。これなら覗くのに支障はない。
「う〜む、却下だな。怪しすぎる。変質者みたいだ」
梨々菜の差し出したコンパクトに映る、自分の姿を見て顔をしかめた。
「では、目撃者には、首から上が見えないというのは」
「おいおい。勘弁してくれよ」
「そうですか?良いアイディアだと思いましたが」
「おっと。こんなことしている場合じゃないな」
当初の目的を忘れるところだった二人は、我に返った。
「そうでした。急がないと逃げられてしまいます。格好については、帰ってから考えましょう」
「そうだな。どっちだ?」
「こっちに反応があります」
梨々菜の後ろを走っていくと、そこは普通のホームセンターだった。平日の夕方なので、店内の客は少なかった。様々な生活用品が並ぶ商品棚の間を、怪しい行動をしている者がいないか注意しながら見て歩く。
「待ってください」
梨々菜が足を止めて、聖司の腕を取った。棚の影に隠れるように一歩下がる。
「あの人です」
梨々菜が小さく言った。
影からチラリと見ると、周りをキョロキョロと確認しながら、商品棚を物色している白髪の老人がいた。挙動不審で、明らかに怪しい。
「もしかして、万引きをしようとしているのか?」
「そうみたいですね」
「ニュースで見た強盗犯とは、かなり違うような」
「憑いている罪人が、生前に犯した罪を繰り返しているんです。でも時間が経つと、もっと悪いことをしようとしますので、今の内に退治しておきませんと」
「わかった。あの爺さんを写せばいいのか?」
「ええ」
聖司は手早く望遠レンズに付け替えて構えた。離れた位置からファインダーを覗くと、爺さんの背中に何かがいるのが見えた。
梨々菜の話から、てっきり人の形をしていると思っていたら、まったく違っていた。それは猿の姿をしていたが、表情は狂暴そのものだった。
「猿が見えるぞ」
「ええ。地獄に落ちた者は、主に動物の姿になりますので」
「そうなのか」
聖司は慎重にピントを合わせて、シャッターを切った。
「やったか」
しかし、普通にシャッター音がしただけで、何も起こらない。
「どうなったんだ?」
「聖司さん、失敗です。ピントが正確に合っていなかったのでしょう」
「え?」
F値を見ると、一番低い開放になっていた。この値が低いとピントの合う幅が狭くなる。聖司は二段絞って、もう一度ファインダーを覗くと、猿がこちらを見ていた。
「うっ」
明らかに聖司を睨んでいた。
「聖司さん、早く。気が付きました」
梨々菜がそう言ったとき、すでに老人は走り始めていた。
「しまった」
並んでいる商品棚の反対側を、見失わないように走る。出口は聖司の側にあるから、いずれこっちに向かって来るはずだ。動いている相手にピントを合わすのは難しく、聖司はタイミングを測るのに必死だった。
「どうする。もっとF値をあげるか」
しかし、F値を上げるとシャッタースピードが遅くなり、動くものは、ぶれやすくなる。
「梨々菜。ぶれているのを、何枚写してもダメなのか?」
「そうです」
「厳しいな」
この店内の明かりでは、あまり絞ることは出来ないので仕方なく、接近戦にもちこむことにした。出入り口に先回りした聖司は、いつでも写せるように集中した。
怒りを露わにした罪人は、老人とは思えないスピードで突進してきた。
一枚、二枚とシャッターを切ったが、なかなかピントが合わない。危険を感じた梨々菜は、防御の呪文を唱えた。
「膜」
二人の周りに、良く見ないと分からないくらいの薄い膜が張られた。店の出入り口も、逃げられないように塞いだ。
「これで、外には出られません」
それを感知した罪人は突然、方向を変えた。店員が使用するドアに向かって走った。
「逃がすか」
聖司はドアの辺りにピントを合わせた。置きピンという撮影法だ。老人がドアノブに手を掛けた一瞬、動きが止まった。その一瞬を逃さずシャッターを切った。
「ぎゃあ〜」
老人が喚き、膝から崩れ落ちた。そして煙のような物がモクモクと立ち上がった。
「あれは何だ?」
「罪人が霊体となって出てきたんです。カメラが吸い込みます」
梨々菜の言うとおり煙が一つにまとまり、カメラに向かって来た。すぅ〜っとレンズからカメラに吸い込まれる。
「これで終わりか?」
「ええ。後はフィルムを燃やすだけです」
「そっか。ふぅ〜」
初めての役目を終えて安堵していると、周りの客に見られていることに気が付いた。客が少ないとはいえ、走ったり、老人が喚いたりで目立ってしまったようだ。指を差している客もいた。
「聖司さん。行きましょう」
「あの爺さんは、大丈夫なのか?」
「ええ。直に目を覚ますでしょう。記憶は途切れているでしょうが」
「そうか。じゃあ行こう」
二人は足早に店を出ると、人気がないところまで走った。
「ここまで来れば、大丈夫でしょう」
「はあはあ。そうだな」
「聖司さん。フィルムを出してください」
「ちょっと待って」
聖司の使っているカメラは自動ではないので、レバーをクルクルと回して巻き上げなくてはならない。
「そういうカメラも、ノスタルジックで良いですね」
「そうか?…これでよし」
カバーを開けてフィルムを取り出し、梨々菜に渡した。
「ありがとうございます。では」
手の平にフィルムを乗せて呟いた。
「灼」
すると、十センチ位の真っ赤な炎が上がりフィルムを包んだ。
ジリジリと音がして、炎が赤から黄色に変わった。フィルムは溶けるように少しずつ崩れていき、消えてなくなってしまった。
「これで完了です。お疲れ様でした」
梨々菜は、疲れなど吹き飛ばしてくれる笑みを浮かべた。
「ふう。爺さんが走り出したときは、ちょっと焦ったけど、たいしたことなくて良かった」
「そうですね。今回は練習にピッタリでした」
「練習……か」
今後は、もっと危険な罪人に出会うかも知れない。聖司は気を引き締めた。
「ん?梨々菜」
ふと引っ掛かることがあった。
「何でしょうか?」
「もしかして退治に使うフィルムって、俺の小遣いで買ったのを使うのか?」
「聖司さんのお小遣いで買ったものでなくても、大丈夫ですが?」
「いや。そうじゃなくて。俺が用意しないといけないんだよな」
「そうですね」
それが何かという顔で、サラッと言う。
「そ、そうか」
まさか部室から拝借するわけにもいかない。
「さっきから使っているのって、魔法か?あれでフィルムを出す事って出来ないのか?」
「閻ですか?」
「閻?」
「はい。こちらで言う魔法のような物です。閻魔様から授けられた術で、『閻』と言います」
「そ、そうなのか。それで。出来るのか?」
「出来ません」
梨々菜の即答に、聖司は項垂れてしまった。
「月に何回、出るのかな」
弱々しい声で呟く。フィルムだって何本も買えば、高くついてしまう。
「さあ。それは、ちょっと分からないです」
「だよな」
今日は一本で済んだが、今後はどうなるか分からない。予備も含めて持って歩かないといけないし、小遣いが持つのか心配になる聖司だった。
第三章
一
翌日、聖司はいつもより早く起きて階段を駆け下りた。
「母さん。新聞は?」
郵便受けになかったので、台所へ向かって叫んだ。
「あら、もう起きたの?新聞なら居間にあるわよ」
居間には、すでに起きていた梨々菜がいた。
「おはようございます。新聞ですね。どうぞ」
「サンキュウ」
聖司が朝から新聞を読むなんて初めてのことだったので、横目でチラリと見ていた母親は、とても驚いていた。
「ないな」
昨日は大きな騒ぎにならなかったから、聖司のことに触れている記事はなかった。万引きをする前で、警察沙汰にもなっていないから当然だろう。
「今度は大事になるかも知れないから、変装のことを考えないと」
と言った矢先に、梨々菜が立ち上がった。何かを探すように、右を見たり左を見たりする。
「まさか。もうかよ」
聖司は溜息を吐いた。
「聖司さん、出ました。行きましょう」
「朝飯は?」
朝御飯を抜いたことがない聖司は、梨々菜をチラリと見た。
「誰かが、酷い目に遭っているのかも知れないのですよ」
「分かった」
聖司は渋々と立ち上がって、部屋からカメラを持って降りてきた。そのまま学校に行けるように、制服に着替えておくことも忘れない。
「二人とも、どこに行くの?」
母親が台所から顔を出した。
「学校」
聖司は靴を履きながら言った。
「学校って、まだ六時を過ぎたばかりよ」
「朝練があるんです」
すでに準備万端の梨々菜が答えた。
「朝練?」
「はい。新体操部の人に、見学に来ませんかと誘われたので」
「聖司、あなたは?」
「俺も朝練」
「朝練って、写真部でしょ?」
「写真部じゃなくて、光画部だよ。とにかく行って来ます」
「朝御飯は〜?」
玄関を出て、ドアを閉めようとしている聖司に叫ぶ。
「いらない」
「なあに、一体。聖司が朝御飯を食べないなんて」
母親は不思議そうな表情で、二人を見送った。
こんなに朝早く外に出るのは、小学校の夏休みのラジオ体操以来だった。七月も間近に来ているので、外はこの時間でも暖かい。と言うより、走っているので、すぐに暑くなってきた。
「まだか」
「もうすぐです。近付いてきます」
梨々菜がそう言うと、犬の吠える声が聞こえてきたと同時に、こちらに向かって走ってくる人影が見えた。
「あれは」
犬に追われて必死に走ってくるのは、意外にも聖美だった。よっぽど恐いのか、一切声を発することなく必死に逃げていた。前に人がいることにも気が付いていない。
「聖美」
聖司の声で、やっと気が付いた聖美は泣きそうな顔を上げた。
「聖ちゃん」
「大丈夫ですか?」
梨々菜は、聖司の後ろに身を隠して嗚咽している聖美の手を握った。
「う、うん」
聖美は子どもの頃に犬に噛まれたトラウマがあり、大の苦手だった。野良犬に追いつめられている所を、聖司に助けられたこともあった。
「聖ちゃん」
震えているのが、腕から伝わってくる。
「こんな朝早くに、何をやっているんだよ?」
「ひっく。ジョギング」
「ジョギング?」
言われてみれば、ジャージを着ていた。戦闘態勢の犬が唸り声をあげて、三人に鋭い目を向ける。
「恐いよ〜」
「大丈夫だ。梨々菜、こいつなのか?」
「はい」
聖司はカメラを構えようとしたが、視線を外すと襲いかかってくるだろうから、目を離すことが出来ない。それに、聖美がいてはマズイ。
「ここだとヤバイだろ」
聖司が梨々菜に伝わるように言う。
すると聖美が気づかないように、少しだけ気のような物を発して、自分が天界の者だということを示した。すると、その犬は一際大きく唸ると、素早く反転して疾走した。
「追うぞ」
「はい」
聖美には悪いが、一人残して後を追う。
「あっ。聖ちゃん」
聖美は、なぜ追う必要があるのか疑問に思ったが、犬の恐怖から免れたことで頭がいっぱいだった。
「くそ。速いんだよ」
いくら聖司の足が速いといっても、犬のスピードに勝てるはずもなく、どんどん離されていく。朝御飯を食べていないから、エネルギーも足りない。
「はあはあ」
梨々菜は平気だったが、聖司は息が上がっていた。このままでは逃げられてしまう。
「大丈夫ですか、聖司さん」
「はあ。大丈夫と言いたいけど、はあ。大丈夫じゃないみたいだ」
「そうですか。それでは」
梨々菜は右手を伸ばした。
「捉」
人差し指の指先から、細いレーザー光線のようなものが照射され、遠くを走っている犬の尻尾に触れると消えた。
「捕捉しました。止まってください」
「はあ、はあ。どうするんだ?」
「逃走経路の、一番近くにある鏡へ移動します」
「そういうことが出来るのなら、早く言ってくれよ」
「すみません。もしかして追いつけるのかなと思いまして」
申し訳なさそうな顔をして、頭を下げた。
「いいから。早く行こう」
「はい」
梨々菜はコンパクトを出して、聖司の手を握った。鏡から鏡の移動なんて、簡単に慣れるものではない。また、あの脳が揺れるような感覚が襲ってきた。
目を開けると、人目からは外れた場所に出たようだが、カーブミラーはなかった。
「梨々菜。いま、どこから出てきたんだ?」
「ここからですよ」
梨々菜が指差したのは、路上駐車をしていた車のサイドミラーだった。鏡なら、何でも良いらしい。小さなサイドミラーから出てくる自分を想像して、聖司は苦笑した。と、その時、近くから女性の悲鳴が上がった。
「あっちか」
「ええ」
悲鳴がした方へ急ぐと、そこは駅前だった。すでに通勤の時間になっていて、あの犬は人がたくさんいる中を走っていた。騒ぎを聞きつけた警察官まで見受けられ、出にくい状況になっている。
「どうしましょうか」
こうも人が多くては、望遠で狙うことは不可能だった。近づいていって、隙を伺うほかない。
「変装はいいから、俺の姿を消してくれないか」
「分かりました。滅」
梨々菜の閻で、聖司の身体は透明になった。しかしビルの窓には、宙に浮いている人型の学生服とカメラが映っていた。
「梨々菜。全部は消せないのか?」
「申し訳ありません。一度に消せるのは、一つだけなんです」
意外に万能ではなかった閻だったが、早く行かないと混乱が大きくなる。
「仕方ない。制限時間はないんだろう」
聖司は服を脱ぎ始めた。
「それはありませんが」
「かなり恥ずかしいけど。こうしないと出て行けないからな」
パンツまで脱いで梨々菜に渡すと、騒ぎの中へ入っていった。見えないのだから気にしなくても良いのだが、自動販売機の影に隠れて目標を確認した。
「速いんだよ。一瞬で良いから止まれ」
―――聖司さん。
頭の中に、梨々菜の声が聞こえてきた。
「なんだ?」
―――合図をくだされば、十秒位であれば動きを止めます。
「そうか。じゃあ、ちょっと待って」
動き回る犬をファインダーの枠から外さないように追い掛けつつ、ピントを近いところへ合わせる。
「いまだ」
―――はい。「固」
聖司が合図を出すと、犬の足が道路にくっついた。足を動かそうにも四本とも上げることが出来ないでいる。身体を揺すってもがいている間に写そうとしたが、先程走ったときの疲労が抜けきっていないのか、微妙に肩と手が揺れていた。
「いけるか」
少しの揺れなので、シャッタースピードでカバー出来ることを祈って十秒間に四回シャッターを切った。手動でフィルムを巻かないといけないので、それが限界だった。
「きゃん」
最後の一枚がヒットした。
足を動かそうと踏ん張っていた犬が気を失って倒れ込み、身体から霊が立ち上った。普通の人には煙にしか見えない。
「ヤバイ。こっちに来るんだった」
聖司は立ち上がって、その場から逃げるように走った。消えているとはいえ、真っ裸なのだから恥ずかしい。制限時間はないと言っていたが、間違って姿が現れて、犯罪者になりはしないかという恐怖心と闘いながら走った。角を何回か曲がり、ここなら大丈夫だろうという所に滑り込む。
「誰も来ないか?」
チラリと、来た道を覗く。
「ええ。大丈夫みたいです」
「わっ。いたのか」
「すみません。どうぞ」
差し出された下着と服を着ていると、やっと追い付いてきた霊体がレンズの中に吸い込まれていった。フィルムを巻き、梨々菜に渡す。
「お疲れ様でした。これで二体目ですね」
手のひらに乗せたフィルムを焼きながら言う。
「今回は疲れたよ。走りっぱなしだ。腹も減ったし」
「そうですね。ふふふ」
「ははは」
安心感から二人とも悠長に吹き出していたが、もうすぐ学校が始まる時間になっていた。
「いけない。急ぎましょう。瞬」
「おわっ」
慌てた梨々菜は聖司の腕を掴み、急いでコンパクトを開いた。聖司は心の準備をする間もなく、鏡に吸い込まれた。未だに慣れない感覚を味わいながら、まだ着かないのかと思ったとき「じゃあ聖司さんは、ここで」と、聞こえたと同時に鏡から頭が出ていた。
「おい。ちょっと」
聖司が頭を出したのはトイレの鏡だった。勢いよく飛び出たものだから、目の前に壁が迫ってきた。反射的に手を差し出して、壁に付いたお陰で無事に着地した。
「おいおいおい。危ないぞ。ったく」
放り出されたことにムッとしていると、手ぶらな事に気が付いた。
「聖司さん。忘れ物です」
鏡から声だけ聞こえてきて、学生鞄とカメラバックが飛び出してきた。
「梨々菜〜」
カメラバックの方を優先させて抱えるようにキャッチすると、その上に学生鞄が乗った。
「ふう〜。大事なカメラだぞ」
誰もいなかったから良かったものの、鏡から出てくるところを見られたらどうするつもりなのかと呆れていると、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。
「やばい」
トイレを出ると、そこは聖司の教室から一番近い男子トイレだった。廊下の先に、担任の背中が見えた。
「なんだ、鷹見。ギリギリか?」
「おはようございます。ちょっと寝坊して」
「早く座れ」
毎度のことなので怒られることなく、追い越し際に押し出すように背中を叩かれた。
「はい」
後ろのドアから教室に入り、聖美の姿を確認しつつ席に着いた。