第一章 3
三
その日の夜、風呂上がりの聖司は、部屋でドライヤーをかけていた。特に身だしなみに気を付けているわけではない。髪を乾かしてから寝ないと、翌朝に髪を整える時間が必要となり、睡眠時間が減ってしまうからだった。
壁掛けの鏡に向かっていると、放課後に見た女の顔を思い出した。腰まである髪の毛は漆黒で、今時の娘は茶髪が多いので逆に印象に残っていた。あと覚えているのは、大きな目をしていたこと位だ。
「なかなか美人だったな」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
と、思わず答えてしまったが、信じられない物が見えていた。
映っていたはずの自分の顔が消えて、あの時に見た女の顔が映っているではないか。
目を丸く見開いた聖司は、何度もまばたきをしては見直した。しかし、女の顔が消えることはなかった。
「お褒めいただき、ありがとうございます。初めまして、鷹見聖司様」
女は深々とお辞儀をした。聖司は何か言おうとしたが、口をパクパクさせるだけで声は出ていなかった。
「あらぁ。混乱していますね」
女は口に手を当てて、心配そうに見ていた。聖司は一歩二歩と後退すると、足を絡ませて尻餅をついた。
「だ、誰だ」
尻から脳天に走った衝撃のお陰で、やっと声が出た。
「人を指差すのは、いけませんわ」
「そんなことは、どうでもいいんだ。お前は誰だ?」
「あら。これは失礼しました」
女はそう言うと、目を閉じて何やら呪文を唱えた。すると、鏡から目映いばかりの光りが発せられて部屋全体が、その光りに包まれた。
「うわっ」
聖司は顔の前で手を広げて、やっと片目を開けた。
「では、失礼いたします」
女の手が伸びてきて、鏡の中からニュッと出てくると、壁にガッチリと手を掛けた。
「よいしょ」
掛け声と共に、頭から順に身体が飛び出してきた。そして、まるで羽根のようにフワリと空中で一回転して、軽やかに着地した。
「はじめまして。わたくし、梨々菜と申します」
透けているかのように見える純白のドレスを着た梨々菜は、腰を九十度に曲げて深々と挨拶をした。顔を上げると、垂れ下がった黒髪が流れるように後ろへなびいた。その姿は一言で言うと、清楚なお嬢様といった感じだった。飾り気のないドレスが、それを際立たせていた。
事態を把握できていない聖司は、何度も目をこすり、目の前に存在する梨々菜を食い入るように見つめた。
「なんだ、一体。どうなっているんだ。どこから来たんだ」
あまりの出来事に対処しきれなかった聖司の心に、しばらくすると恐怖心が湧き上がってきた。
「混乱するのも無理はないですね。鏡から出てきたのですから」
「鏡?そうだ、いま鏡から出てきたよな」
聖司は部屋を出て助けを求めようと、ドアノブに手を掛けた。しかし、いくら力を入れても回転しない。
「開かない!」
渾身の力を込めて何度も回そうとするが、びくともしなかった。
「無駄ですよ。ドアは開きませんし、大声を出しても聞こえないように、この部屋を隔離しましたから」
どうなっているのか理解できないが、そう言われては観念するしかない。二回三回と深呼吸をして、梨々菜と名乗った女を観察した。
お嬢様風の、ゆったりとした口調で話す梨々菜は、危害を加える風ではなかったので、聖司は動転していた心を懸命に落ち着かせた。
「君は、何者なんだ?」
「そうですね。ますは、何故わたくしが聖司様の前に現れたのか、順を追ってご説明します。とりあえず、座ってもよろしいでしょうか?」
聖司はクッションを梨々菜の足下に置いて、サッと身を引いた。
「ありがとうございます」
梨々菜が背筋を伸ばして正座をしたので、聖司もつられて正面に正座した。
「まずは、わたくしが、どこから来たのかをご説明します。わたくしは、この世とあの世の境目にある場所、人間が亡くなって最初に訪れる世界から来ました。そこは天界と言います。人は天国と地獄のどちらかに行くことになります。そこでどちらに行くのか判定を下す閻魔大王様の、側近として仕えていました」
「閻魔大王?」
「はい。そこは天国と地獄へ続く門があるのですが、最近、地獄の門からこの世に脱獄した罪人達がいるのです。その者達は人間に取り憑いて、様々な悪さをしています。それらを退治する役目に、鷹見様、あなたが選ばれたのです」
簡単な説明が終わり、部屋に静寂が訪れる。しばらくして聖司が口を開いた。
「どうして?」
当然の質問だった。
「抽選で決まりました」
「抽選?そんな大変なことを抽選で?」
聖司は思わず立ち上がった。
「ええ。最初は真面目に決めようとしていたのですが、途中から楽しくなってきたらしくて、抽選で決めてしまわれました。この決定は覆りません」
「どうして、そんな危なそうなことに協力しないといけないんだよ。断る」
「断ることは出来ません」
「どうして」
「断ると、よっぽどの善行をしてから死なないと地獄に落ちてしまいますよ」
「地獄?」
地獄とは穏やかではない。聖司の表情が固まった。
「はい。天国か地獄かを決めるのは、この世でどれだけの善行をしてきたかによります。善行、悪行にはポイントがあって、それがマイナス百を超えると、情状酌量の余地なしとして、地獄に堕ちるのです。そして、この役目を断ると、マイナス五百がついてしまいます。四百以上の善行となると、かなり難しいですよ」
「そんな横暴な。そんなことが許されるのか?閻魔がいるなら、神様もいるんだろう。神様は許しているのかよ」
「はい」
梨々菜は微笑みながら即答した。聖司からすれば、笑いながら死を宣告されたも同じだった。
「そんな」
聖司は膝から崩れ落ちて項垂れた。
「もし、役目を引き受けて退治に成功すれば、一体につき十ポイントが付きます」
「一体?たくさんいるのか?」
「その通りです。正確な数は把握できていません」
「それを一人で?」
「いいえ。聖司様以外にも、選ばれた方がいらっしゃいます」
「じゃ、じゃあ、その人達に任せればいいじゃないか」
「ダメです。聖司様は選ばれたのです。聖司様が担当する地域があるので、そこに出現した罪人は、聖司様が退治しなくてはなりません。ちなみに、罪人が動ける範囲は、閻魔様の張った結界の中に限られています」
免れる道を絶たれた聖司は、観念するしかなかった。
「それと、わたくしは、この事を伝えに来ただけではなくて、あなたのサポートをするために参りました。ご両親の記憶を操作し、親戚の女の子ということにして、この家にご厄介になります」
「助手ってことか」
「はい。あなたの安全は、出来る限り保障します。わたくしには退治する力はありませんので、主に防御面でのサポートになりますが」
それを聞いて、聖司は少しだけ安心した。守りのサポートがあるのなら、一人でやるよりも生き残る可能性は高くなる。
―――やるしかないか。
「その十ポイントって、大きいの?」
腹を決めると、こんな質問をする余裕が出来た。
「ええ。例えば、溺れている人を助けると五ポイント、苛められている子供を助けると二ポイントなどです。自分以外の命を救ったり、危機を脱する手助けをしたり、人の役に立つことをすることが善行のポイントとなります」
「じゃあ一億円を寄附したら?」
「善行は、お金の額ではありませんが、何人の命に影響があったのかで変わってきます。ただし、上限は五十ポイントになります」
この説明を聞く限りでは十ポイントは、結構大きな数字だ。
「もう一つ。この役目をやり終えると、よっぽどの悪行をしないかぎり、天国行きが保障されます」
「ふうん」
これを機会に変われるかも知れない。常識では考えられないことだったが、もし無事にやりきることが出来たら、聖美に引け目を感じなくてもすむ男に、なれるかも知れない。
そう考えた聖司は目を閉じて、決心を固めた。
「わかったよ。引き受けた」
「そうですか。ありがとうございます。では、これに署名をお願いします」
梨々菜が聖司の顔の前で、指で四角を描くと、用紙のような物が出現した。
「ここ?」
一番下にある、下線が引いてある所を指差す。上の段に漢字で梨々菜と書かれてある。
「はい。指で描けば大丈夫です」
「梨々菜って、こう書くのか。漢字なんて、ずいぶん日本的だな」
「それは分かりやすいように漢字になっているんですよ」
「ふ〜ん」
言われたとおりに指で書くと、「鷹見聖司」と文字が浮かび上がった。
「天界から連絡が来ました」
梨々菜は目を閉じて、何かを受信しているように耳に手を当てた。
「はい。はい。分かりました。では。いま正式に受理されました。そこに立ってください」
「なんで?」
言われるままに立つと突然、聖司の身体に光りが降り注いだ。
「何だ、これは?」
「大丈夫ですよ。これで天界に登録されました」
「そ、そうなのか」
やがて光りは消え、聖司は手や身体を触ったが何ともなかった。
「はい。これで完了です。しばらくの間、お世話になります」
梨々菜が三つ指を突いて頭を下げたので、聖司も真似た。
「こ、こちらこそ」
「では、早速」
梨々菜は立ち上がって、その場でクルリと一回転した。身体が白い光りに包まれて、正面を向いたときには服が変わっていた。それは、聖司が見たことのある服だった。それもそのはず、その服とは蒼翠学院高等部の女子の制服だった。
「まさか。通うのか?」
「そうです。察しがいいですね。聖司様の身近にいた方が良いので、今日学校の下見に行って来ました」
「それを、俺が見たのか」
「そうです。一瞬、目が合ったときは驚きましたわ」
「それは俺のセリフだよ」
「ふふふ。それもそうですね」
聖司は、梨々菜の笑顔に見とれていた。閻魔大王の側近だと言うが、純真無垢な雰囲気を漂わせる梨々菜は、もし女神という者が存在するのなら、梨々菜こそが相応しいと感じさせた。
「聖司様?」
ボーっとしていた聖司は、梨々菜の問い掛けにビクッとした。
「な、なに?」
「地獄から脱獄した者と戦う方法なのですが」
「そうだ。どうやって戦うんだ?」
「聖司様は、格闘技のご経験は」
「そんなのないよ」
「そうですか。では、何か得意なことはありますか?」
「得意なこと?う〜ん、カメラかな」
いつもは部室に置いてあるのだが、今日は手入れをするために持ってきていた。
「カメラで戦うことなんて、出来ないよな」
「いえ、大丈夫ですよ」
梨々菜は、カメラを保管してある防湿庫の前まで行き、また呪文を唱え始めた。すると手が青く光り、防湿庫に向けて照射された。
「どうなったんだ」
カメラと交換用レンズが青く輝き、やがて消えた。壊れてはいないかと心配した聖司は、カメラを取り出して調べてみた。
「壊れていませんから、安心してください。カメラ自体は今までと同じです。ある一点を除いては」
「一点?」
「ファインダーを通して罪人を写すことで、フィルムに閉じ込めることが出来ます。そして、それを焼くことで退治したことになります」
「焼く?フィルムを?」
「はい。フィルム自体を焼かないとダメです。残しておくと、復活の可能性もあります。焼くのはわたくしが行いますが、閉じこめるのは、聖司様がやらないとなりません」
それから、しばらく説明を受けたが、聖司はいつの間にか座ったまま眠っていた。