第五章 2
二
翌日からの聖美は、ご機嫌な日々が続いた。
毎朝、学校以外で聖司に会えるのが嬉しかったし、これをきっかけにして、以前より話すことが多くなった。それは、何気ない会話でも良かった。会話がない日がほとんどの頃に比べれば、格段の進歩だった。だが、事はそれだけでは終わらなかった。
このまま楽しい日々が続けばいいと思っていたのに突然、変化が見え始めた。
それは初めて、光画部の部室について行った日から始まった。
週に一回ある弁当の日、中庭で友達と食べ終えた聖美は、教室に戻る途中の廊下で聖司を見つけた。
「あっ、聖ちゃん。昨日のテレビ見た?」
「何の番組だよ」
「幽霊スポットバスツアーよ」
「相変わらず、好きだな」
「うん。大好き」
こう見えても聖美は恐いものが好きで、ホラー映画も見に行ったりしている。
「話は、それだけか?」
「どこかに行くの?」
「だから歩いていたんだ」
「また部室でしょ」
「そうだよ。じゃあな」
―――もうっ。今日は逃がさないんだから。
昼休みとなれば部室に行く聖司を、いつもは見送っていたが今日は違う。そそくさと行こうとする聖司の腕を掴んだ。
「待って。たまには私を連れて行ってよ」
「部室に?」
「うん」
実際、毎日のように行く光画部の部室には、前から興味があった。いわゆる暗室という言葉の響きに、恐いもの見たさの血がうずいていた。
「別に良いけど。狭いぞ」
「いいよ。そんなの」
「そんなに来たいのか?」
聖司は困っているように見えたが、それでも行きたかった。
「行きたい!」
「分かったよ」
―――やった。
念願が叶った聖美は、恐い物見たさのドキドキと、楽しみというウキウキが入り混じった心境で、聖司についていった。
「瀬名は、もう来ているかな」
「部員の人?」
「ああ。後輩だ」
「女の子?」
「そうだけど」
聖司はドアノブを回しながら答えた。
「先輩。待っていましたよ。あれ?」
聖司の後ろに人が立っているのに気が付いた真衣香が、身体を傾けて視線を投げかけた。
「入れよ」
「う、うん」
後から入った聖美は、真衣香に挨拶をした。
「こんにちは。あなたが瀬名さんね」
「そうですけれど」
「私は、聖ちゃんの友達で観月っていうの。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
真衣香は、何事かという表情で聖司を見た。
「部室を見たいって言うから、連れてきたんだ」
「そうなんですか」
「そういうことなの。ここが暗室かぁ。暗室なのに、けっこう明るくない?それに、何か臭うね」
「違うよ。暗室はこっちだ。臭うのは、壁に染みついた薬品だよ」
聖司は、もう一つのドアを叩いた。
「薬品?」
「フィルムを現像したり、プリントをしたりするときに使う薬だ」
「へ〜。見せて、見せて」
聖司が暗室のドアを開けると、微かだった薬品の臭いが増した。
「なんか酸っぱいねぇ〜。聖ちゃんは、何ともないの?」
聖美は、鼻を手で覆いながら言った。
「酢酸なんだから仕方ないよ。慣れだな」
「これ?」
何本か並んでいる薬品類の瓶を持ち上げた。
「そう」
「そっか。これはなに?」
「現像器」
「これは?」
「現像タンク」
「へ〜。知らない物ばっかりで、面白いな。化学実験室みたいだね」
初めて見る物ばかりだと、けっこうテンションが上がってくる。
「ははは。そうだな。ある意味、化学実験をしてるようなもんか」
「このドアを閉めると、暗くなるんだね。明かりはどうするの?真っ暗だと作業出来ないでしょ」
「これなら点けてもいいんだ」
そう言って赤外線ランプのスイッチを入れると、部屋の中が赤く染まった。
「ふうん。楽しいかも」
「あ、あのう」
真衣香が恐る恐る言った。
「もしかして観月さんは、陸上部ですか?」
「そうだけど、それが?」
「先輩。あの写真に写っていたのは」
真衣香は、雑誌の山をチラリと見た。
「そう。こいつだよ」
「こらっ、こいつ呼ばわりしないの!幼馴染みでしょうが」
聖司の背中を、拳で突いた。
「いたっ。こんな奴は、こいつで結構だ」
「もうっ。ふふ」
聖美は、こんな風に笑える会話こそがしたかった。
「幼馴染み……ですか」
真衣香は小声で言った。
「腐れ縁よ。瀬名さんには、いつも迷惑かけているでしょう。ごめんねぇ」
「いえ。そんなことないです。私の方がお世話になりっぱなしで」
真衣香は、両手を振りながら謙遜した。
「そう?」
「はい」
「おいおい。親じゃあるまいし、本人の前でそんなこと言うなよ」
聖司に頭を小突かれて、舌を出した。
「は〜い。それにしても瀬名さん、あなたって可愛いわね」
「え?」
聖美の顔が間近に来たので、真衣香は一歩引いた。
「毎日、ここで二人きりなんでしょ」
「そ、そんなことはないです。部長もいますし。ね、ねえ先輩」
聖司に助けを求める。
「そうそう。たまにだ。なあ」
「そ、そうです。たまに、です」
「ふうん。まっ、いいか」
と、口では言ったが、内心はざわめいていた
「あっ、鳴りましたよ」
五分前の予鈴に、真衣香が鋭く反応した。
「じゃ、じゃあ、行くか」
「そ、そうですね」
聖美に、自分の気持ちを知られるのではないかという聖司。本人の前で、聖司を好きなんじゃないかと聖美に言われることを恐れた真衣香。それぞれ、別の理由でギクシャクしながら部室を出た。