No.52 仔象の呪縛
ソウコは高校二年の二学期に編入して来た。
「柄聡子です。よくサトコと読まれますけど、ソウコです。聡明のソウ、聡明な子と覚えてください」
とても高飛車なその自己紹介に、クラス全体が静まり返った。
「あはは、聡明な子かあ。自分に自信を持つと言うのはいいことだよ、うん」
取り繕って乾いた笑いを零す担任の里中先生が、あまりにも気の毒だと私は思った。
「柄も始めは女子同士並んだ方が何かと聞きやすいかな」
里中先生はそう言ってぐるりと教室内を見渡し。
「辻の隣が空いてるな。クラス委員長殿、よろしくっ」
友達口調で気やすく私を案内人に任命した。
「はい」
委員長らしく即答を返し、私は机を空席にくっつけた。教科書ほか諸々ほとんどのものを彼女は持って来ていないだろうと思ったからだ。
ソウコが、こつこつと木の床を鳴らして歩く。私の方へ向かって来る。群青色のブレザーをまとう生徒たちばかりの教室の中を、黒いセーラー服で堂々と闊歩する彼女の艶やかな黒髪がひときわ映えた。サラサラと流れる長い髪から、シャンプーのいい匂いが慎ましやかに漂って来る。
「よろしく」
隣の席の椅子を引き、席についている私を見下ろして彼女は言った。
「よろしく。辻春奈です」
冷たい印象だった彼女の切れ長の目が、綺麗な緩い弧を描き出した。
「ハルナね。ハルナもソウコって、呼んで」
彼女の大人びた顔立ちにはあまりにも不似合いな、少女みたいな微笑にドキリとした。
「それから、敬語もかったるいからタメでよろ」
そんな砕けた口調が、私にも微笑を促した。
「うん、わかった。ソウコ」
それが、ソウコと私の馴れ初めだった。
ソウコは、いつまで経ってもどこかクラスで浮いていた。
私は委員長としてクラスに溶け込ませようとあれこれしてみたけれど、巧くいかない。
クラブにもは入らない。まっすぐ校門を出て行ってしまう。ひと月ほど経った頃、私は里中先生に呼ばれた。
「保護者さんに電話をしても、なかなか繋がらなくて。やっと繋がったかと思うと、彼女自身が電話に出ちゃうしさ。一方的に切られてしまうんだよ」
ソウコは母子家庭なのだそうだ。お母さんに心配を掛けまいとしての行為だろうが、と愚痴を零す先生に私の方から質問をした。
「里中先生はどうして電話をしたんですか」
「うん、確かにね。特に問題を起こしているわけじゃあないんだから、とは思うんだけど」
先生はそれだけ言うとひと呼吸置いて、机に置いていたお茶をひとすすりした。
「教師の勘、かな。一度しかないこの時間なのに、柄は君たちのように自分のために生きている様子がない。というか、どこか醒めた目をして友達を見ている気がするんだ。わざと自分を遠い場所に置いている、というか」
辻以外の生徒にはね、とつけ加えられて、私は少し面食らった。
「私?」
「うん、君。君は柄と、個人的な話をしたことがあるのかな」
例えば家庭のこととか親のこととか、と問われ、先生の意図したことを理解した。
「特にありませんけど。やっぱり似た空気とか、先生たちから見たら、わかるものなんですか?」
母親に余計な心配を掛けたくないとか、ついつい頑張ってしまうこと、とか。
「うーん。僕らは資料で先に知っているから、第三者から見て解るかどうか、その辺は答えにくいところだな」
先生はそう言ってお茶を濁し、文字通りまたお茶をひとすすりした。湯気で曇る眼鏡の向こうの瞳がどんな表情をしているのか私には解らない。
「ただ僕は、見てのとおりまだまだ教師としては至らない部分があるからさ。君たちのことを考えるとき、自分の学生時代を思い返しながら考えるんだ」
曇る眼鏡がクリアになっていく。先生の複雑な心の色を映し出す。
「そんな思考で柄のことを思い描くと、ひどく心がアンバランスで危なっかしく見えてね、ちょっと、心配、かな」
ほかの先生にはナイショだよ、と人差し指を立てて、無理をしてくすりと笑う。普通ならきっとここで「この先生は下心があって女子生徒に媚を売ってるんじゃないか」と疑うところなのだろうけど。
「先生、去年私がグダグダだったときも、誰にかほかの生徒に相談したの?」
少しだけよい子の仮面を外して、砕けた口調で先生に問う。ちょっとした意地悪心と、やっと巡って来たお礼を伝えられる機会だ、と思ったから。
「君の場合はその必要がなかった。まるで僕の学生時代そのもの、って感じたから。なんか、勝手に動いてた。その後、お父さんとの会えるようになったみたいで、ほっとしたよ」
去年、父と母が離婚した。私になんの心の準備もさせないまま勝手に決まっていて、私は女の子だからという理由で母に引き取られることになった。父が行き先も告げずに出て行った。私は去年のある日突然、衝動的に学校の花壇を踏み荒らし、陶器のプランターを壊して回った。
父も母も好きだった。父と会ってはいけない、それが離婚のときに取り決めた約束だからと一方的に告げられて、私は我慢ならなかったのだ。
「先生が自分の子供時代の話とその頃の気持ちを両親に伝えて説得してくれたお陰です。あのときは本当にありがとうございました」
今どき、ここまで家庭に踏み込んでくれる先生なんていない、と、母はさめざめと泣いて里中先生と私に土下座した。里中先生は責任を持って連れ帰るから、と、私と父を会わせてくれた。父も同じように、里中先生と私に詫びの言葉をぽつりと零した。
『母さんと争うよりも、俺が我慢すればいい。それが春奈のためだと思っていたんだ。すまなかったな』
それから弁護士さんを交えて私も同席の上で、もう一度話し合って今の家族の形がある。離婚理由を私は知らないけれど、弁護士さんが、もう少し大人になってから、わかる年になったらお母さんから話してくれると言っていた。その少し困った微笑を見たら、なんとなく聞けなかった。けれど、娘が触れてはいけない事情があったのだろうと今も疑問を飲み込んでいる。
「僕はきっかけを作っただけに過ぎない。気持ちを伝えたのは辻自身だし、僕は親にどうしたいということを伝えられなくて悔やんだから。君が言葉に出来る自分であったことを、誇りに思うべきだと思うよ」
そう言ってずれた眼鏡を人差し指で押し上げてにこりと笑う。私は里中先生のそんな笑顔に少しどきりとさせられる。
「辻は僕にとって、自慢の生徒のひとりだ。なんでも自分から向かっていく強さを持っている。柄にそんなモチベーションの保ち方を伝授してやってくれないか」
なんて言われたら。
「先生、私に投げてソウコから逃げるつもりでしょう」
そうやり込めながらも笑みが浮かんでしまう。
「いやいや、教師や親では敵わない部分ってのがあるんだよ。信じるか信じないかは、辻次第」
君は年と見た目に似合わず大人びていて、話していて気が抜けないね、と先生が苦笑する。私は彼のそんな言葉を、大人扱いしてくれたと思ってとても心が浮き足立った。
「ソウコとはケータイのアド交換しているの。返信の来た試しがないんだけど。根気よく送ってみますね」
「頼むよ、委員長」
去年のあの頃と同じように、先生の大きな手が私の頭をぽんと撫でてくれると思って、彼の手の動きを目で追った。でも、その手は途中ではたと気づいたように止まり、そのまま先生の机に戻っていった。
「じゃ、帰ってよしっ。週末は確か吹奏楽の県大会だったな。大事なときに時間をとらせて悪かった」
そう言う先生の顔が、少しだけゆがむ。机に置かれた手が握り拳を作る。
同じクラスの喜代子のお母さんが、彼女を注意した里中先生の対応について学校へ抗議したらしい。
『いちいち触れるなんていやらしい』
喜代子がお母さんに、どう話したのか知らないけれど。制服チェックの日に、丈を短くしたまま登校した喜代子が悪いと私は思う。規則どおりの長さで登校した私と並べさせ、
『ほら、定規の問題じゃないだろう。辻は膝丈を守っている』
そう言って私と喜代子の膝からスカートの裾までの長さを手で測り、比較させて見せただけだ。その時少し触れてしまっただけだ。
多分里中先生は来年担任を持てなくなるのだろう。最悪、異動になってしまうのかも知れない。
「先生、ソウコがクラスに馴染めるようになったら、なにかねだってもいいですか」
小さな小さな声で尋ねる。心臓が飛び出すかと思うほどの勇気を振り絞って、それでも先生の目をまっすぐ見たまま訊いてみる。
「先生に出来ることなら、なんでも」
初めて里中先生が自分のことを、“僕”ではなく“先生”と言った。
「来年も、ソウコと同じクラスにさせてくださいね」
本当は別の個人的なおねだりをしたかったのだけれど。牽制を掛けられてしまった私は、仕方なく引き下がるしかなかった。だから、もうひとつの願いごとの方を先生にねだった。
「ソウコって、私以外に話し掛けていくことがないんです。きっと彼女は私と似てる部分があって、何か伝えたいことがあるんじゃないかと思っていたんだけど。メルアドの交換も私からお願いしたし、ちょっと自信を失くしかけていたから。でも、先生の言葉で、なんか頑張れそう。クラス替えで離れちゃったら、ソウコと喋る機会がなくなっちゃうから、お願いします。ね、先生?」
「僕には決定権がないから、約束は出来ないけれど。でも、会議のときに打診することなら出来るから」
というか、そのつもりでいたから、と、先生はまた私の大好きな笑みを浮かべて快諾の答えをくれた。
「充分。先生、ありがとうございます。じゃあ、私、クラブに行きます」
「ほい、お疲れさん。大会、頑張れよ」
「ありがとうございます。失礼します」
国語教科の準備室の片隅で、ちょっと憧れている先生と共有する秘密。始めはそれが私の大半を占めていた。
短い冬休み。そして遊べる最後の冬休みとも言える高校二年のそれは、クリスマスと日が重なっていた。
「ソウコ、彼氏がいるのかな」
そんなことも知らないで友達気分でいた自分に気づかされた。いつもメールで送る内容は、他愛ないテレビの話やクラスの友達、教科担任の愚痴とかだったのだけれど。
『ソウコ、私、今年もサミシマスー。よかったらクリスマスデート、どうよ?』
私はちょっとドキドキしながら送信ボタンを押した。
「やだ、女の子にメール送るのに私ってば」
思わず誰も見ちゃいないのに照れ隠しが言葉に出る。また無視されたらどうしようとか、巧く約束までこぎつけたら、どこへ行こうとか、何がソウコの好きなものなんだろうとか。
きっかけは里中先生だったけれど、私の中で、ソウコに対する関心と期待がすごい勢いで膨れていった。
お年玉をずっと貯めて来た貯金通帳の残高を確認する。
「よし、二万円までなら使ってもいいかな」
バイト代を貯めていけば、来年の誕生日までに車の免許を取る資金も確保出来そうだ。お父さんからの支援を断っているお母さんには申し訳ないと思ったけれど、日頃と同じように、ソウコのことをお母さんに話して外泊の許可を願い出た。
「――ってことでね、お母さんが悪いわけじゃあないんだけど、込み入った話がしづらいかな、なんて」
お父さんの会社が運営している保養所への一泊旅行。日帰り出来る近い場所。だけど知っている人がだれもないところで、近くには美術館や遊園地もあって、そして保養所の食事は年齢に合わせたメニューにしてくれる健康食らしいから、なんて。お父さんの受け売りをそのままお母さんに伝えて説得した。
「あまり感心しないことだわ。でも、ちゃんと携帯の電源を切らないことと、連絡を入れること、その約束を守れるなら、まあいいわ」
そしてついでに拗ねられた。
「お母さん、春奈が思っているほど堅苦しいお母さんじゃあないつもりよ? どうしてお母さんに真っ先に相談してくれなかったのかしら」
笑っているくせに疑うような、寂しい視線が私を貫く。ほんの少しだけ、解った気がした。お父さんが家を出て行ったわけ。
今までもずっとそうだったから、というだけなのに。いつもお母さんはお父さんを立てて、「お父さんがいいというなら」って言って来たから、効率を考えただけなのに。
「なんとなく。意味はないよ。気を悪くしたなら、ごめんなさい」
悲しげなお母さんの潤んだ瞳を見たら、気の利かなかった私が悪い気がして、条件反射みたいに謝っていた。
クリスマスイブ、当日。私は最寄駅の自分が指定した場所で、ケータイを握りしめたまま右へ左へと落ち着きなく動き回っていた。
プチ旅行のお誘いメールを送ったあの夜、初めてソウコから返信が届いた。
『行く』
簡素で用件のみ、というふた文字が彼女らしくて、笑った。
『ソウコのお母さんさえオッケーだったら、箱根にプチ旅行なんて、どう? 父の会社が運営している保養所を社員割引で借りられるの。親ウザいし、受験生活に入る前に、羽伸ばそうよ!』
そんな言葉と一緒に、待ち合わせの日時を記して送信した。その後ソウコからの返信はなくて。
お母さんが「ちゃんと親同士で話しておかないと春奈が悪い友達と思われちゃうから」と言って、ソウコのお母さん宛に電話をしたのだけれど、誰も電話に出なかった。直接伺おうとお母さんから言われて初めて気づいた。考えてみたら私、ソウコの自宅も知らない。
お母さんが不審な表情になったので、突然のダメ出しを食らう前に急いで家を飛び出して来た。
「ソウコ、来てくれるかな」
鳴って欲しい携帯電話は、私の手の中で沈黙を守ったままだった。
待ち合わせの時間を少し遅れて、見覚えのある憧れのロングヘアが目にとまった。サラサラの黒い髪が、ちらつく雪の中でよく映える。
「ごめん、ちょっと遅れた」
そう言って近づいて来るソウコは、レザーのロングブーツに黒のジーンズと、ダウンジャケットも黒でカラートーンを統一して、スレンダーなスタイルをより際立たせていた。赤のタートルネックのインパクトが強くて、なんだか制服姿のとき以上に大人びた雰囲気だった。
「ちょっとハルナ、何そのカッコ」
呆れた口調でそう言われ、私は慌てて自分の姿をショップのウィンドウで確認した。
ボアのついたベージュのロングブーツ、多分これは及第点だと思うのだけれど。
「ミニスカートじゃあ、フォール系やスピード系のアトラクションに乗れないじゃん。めくれるよ」
でも、ポンチョが似合う可愛い顔立ちで羨ましい、と彼女は笑った。
「れ、レギンスってやっぱ中まで見えたら恥ずかしいモノなのかな」
「足フェチが見たら発情するかもよ?」
「はっ、はつ、て、ちょっと」
うろたえる私を見て、ソウコが笑う。それもおなかを抱えて声を出して。そんな自然なソウコを見たのは多分初めてかも知れない。
「もう三十分も立てば、ここのお店、開くじゃん。スパッツを買って履き替えてから行けばいいんじゃない?」
当たり前のようにソウコが私の背中を押す。
「慌てて出て来たから朝ご飯まだなんだ。つき合ってよ」
私の所為で予定の電車に乗り遅れるのに、そう思わせない言葉を選んでくれる。
「ソウコ、ありがとう」
私だけに見せてくれる自然体の優しさが、なんだかものすごく嬉しかった。それがそのままなんの前置きもなく、言葉にされてしまった感じ。ちょっと不自然過ぎてしまった。
「は?」
「えっと、イロイロよ、色々っ」
彼女はきょとんとした顔で私をしげしげと見つめていた。かと思ったら、顔をくしゃくしゃにしてまた笑った。
「あんたってホント、キレイだよね」
「え?」
「なんでもない、こっちの話。行こ」
慌しく促され、早々にスタンドコーヒーの店に連れ込まれてしまい。「どこへ行こうか」「何があるのか」などガイドをめくりながらまくし立てられ。
そんな積極的なソウコは初めてで。いつの間にか、ふと湧いた疑問は、巧くソウコにごまかされてしまった。
キレイだね、と言った瞬間に見せた悲しそうな瞳。潤んだ気がしたのだけど、なんだったのだろう。
それは長い長い夜に、たくさん話が出来るから。話したいこともたくさんあるから。
私は「お日さまの高い今は、思い切り楽しもう」と思うことにした。
昼間は“悪い子・二人組”だった私たち。
カップルが公共の場でいちゃついてるのを見てガン見したり、美術館の作品の横で同じポーズを取って写真を撮ったり。そして係員さんに叱られて逃げ出してしまったり。
温泉のある場所だったので、源泉とかいうところまで行ってみた。
「卵が入ってる」
ソウコが源泉を見て呟いた。
「ああ、そういえば下の売店で温泉玉子を売ってたね。ここで茹でていたんだ」
「ねえ、カワイソウだよね、コレ」
そう言って彼女が卵を指差す。
「いっそ割って焼いてくれるとか、熱湯で茹でてしまって中身をぶちまけてしまうとか」
「何それ。怖い」
「一瞬の内に命の素を断ってくれればいいのに、って意味よ。じわじわと熱されて、いつまでも熱い思いをさせられるんだよ。それって、まさに、地獄」
彼女は、「有精卵で栄養満点」が売りらしいそれを擬人化させて、私見を述べた。
「ん~。でも、まだ卵だし、そんな感覚ないんじゃないの?」
「なったことないからわかんない。でも、昔見たことがあるんだ。ひよこになりかけている卵が割れた奴。個としての形を取り始めていたそのひよこが苦しくなかった、なんて誰に解る?」
ソウコが、眉間に深い縦皺を寄せて、笑う。笑っているのに、泣いているように見える。
「……ソウコ、保養所へ帰ろうか」
温泉であったまろう。身体もココロも。
冷え切った彼女の手を取ってそう言った。なぜだかとても嫌な予感がして、そうしなくちゃと思った。六十度を越えるこの源泉に、ソウコが今にも飛び込んでしまいそうな気がしたから。
「ソウコ、前から訊きたかったんだ。本当は私に何か伝えたいことがあってソウコから声を掛けてくれたんじゃあないの?」
彼女が編入して来た日のこと、改めて思い返してみた。彼女は教室に入って来たあの日、あの瞬間からずっとずっと、私だけを見ていたのだ。多分私は知らない内に、ソウコとそれ以前に会っている。
「……うん」
俯いて源泉を見つめていた横顔がこちらを向いた。半分髪で隠れたソウコの顔に、儚げな微笑が浮かんでいた。
カラン、と、氷がグラス弾いて涼しげな音を立てる。グラスを満たすのは、コンビニで買って来た甘い甘い桃のサワー。アルコールなんて初めて飲む。ソウコはソルティなんとかっていうカクテルを何本か買い込んでいた。
「家ってさ。形的には母子家庭だけど、母親の愛人が一緒に住んでるんだ」
ソウコは飲み慣れた雰囲気でカクテルをちびりとしながら、そんな風に話し始めた。
「母親が昔から、女でいたい人っていうの? 物心ついたころから男をとっかえひっかえしてるって感じ。でも、私が出来たときに、父親がプロポーズして結婚したんだって」
中小企業の社長さんらしいその人としばらくは普通に暮らしていたとソウコはぽつりと言った。
「去年の高校入学早々に色々測定があったときにね。健診結果表を父親がたまたま見ちゃったんだ。それで血液型が違うって。……私、その父親の子供じゃなかったんだって」
目の前で繰り広げられる、ソウコの擦り付け合い。裁判所で聞くに堪えかねた担当の職員が、ソウコを部屋の外へ連れ出してくれたらしい。
「そのとき、隣の部屋からすごい怒鳴り声が聞こえたんだ」
――お父さんもお母さんも、自分たちの都合ばっかりで、私の気持ちなんかこれっぽっちも聞いてくれなかったじゃないっ!
「あ……」
私は、絶句した。頬がかっかとしているのは、飲みつけていないアルコールが熱を持たせた所為だと思いたいくらいに熱かった。
「泣きながら部屋を飛び出して行ったあんたを見て、思わず私、追い掛けたんだ。職員の人にとめられて諦めたけど。よその問題に関わっちゃダメだ、って」
どうしたら親に自分の気持ちを伝えられるんだろう、とソウコが問う。
「あんなんでも、結局施設へ預けないで引き取ってくれた、親じゃん? 騙されたとは言っても、一時は情けを掛けてくれた父親も、養育費を出してくれてるらしいんだよね。母親の方も、金目当てで私を引き取ったんだろうって自分に言い聞かせて、言いたいことを言って出て行こうって何度も自分に言い聞かせるんだけど」
ソウコの頬に、キレイで哀しいひと筋が、白い肌をまたたかせる。
「……なんでだろ。出来ないんだ……」
ハルナみたいに強くなりたい。ソウコに対して私が感じていたことが、初めて音にされたような気がした。なぜか彼女に惹かれた。それははかなく消えてしまいそうに見えるのに、それでもしっかりとそこにいる、それが“強さ”でなくてなんだろう。私はきっと、そんな目でソウコを見ていたんだ、とそのとき初めて自覚した。
「……ハルナ、怖い。……あいつのいる家に帰るのが、怖い……」
あいつ。話の流れで見れば多分それは。
「お母さんの愛人って人?」
私ならきっと我慢出来ない。お母さんに「外で会って欲しい」と言うけれど、彼女は言えないのだ。でも、なぜ?
「あいつ、お母さんの恋人のくせに……お母さんにばれたら、私きっと、殺される」
ソウコの握っていたグラスがきゅんと小さな悲鳴を上げる。彼女の指先が白くなる。温かなはずの部屋の空気が、ざわりと私の肌を舐めた。
「ハルナと話せるようになってから、少し勇気をもらったんだ。お母さんに一度だけ、頼んでみたの。昼の仕事はもうやめて、って」
はたはたと落ちるソウコの涙が、いつの間にか乾いていた。くすりと零れた彼女の苦笑も、カラカラに乾いていた。
「けど、殴られた。“誰の所為で昼も夜も働かなくちゃならないんだ”って。当然、だよね」
ソウコはグラスの中で遊ぶ氷を見つめていたけれど。それはまるで教室の中でクラスメートを見るときの瞳とおんなじ、モノを見る冷ややかな目だった。
「どうしたらお母さんが幸せになれるのか、私、解ってるんだ。……だけどさ、それじゃあ私」
――なんのために生まれて来たの?
ことん。それは私がグラスをテーブルに置いた音。私の手がソウコの頬に触れると、彼女は怯えた子供のようにビクンと大きく肩を揺らした。
「汚いのが、伝染るよ」
「汚くなんか、ないよ」
憧れていた黒髪に、初めて遠慮なく触れた。どこか距離を置く彼女を、初めて懐に納めることが出来た。
「ソウコ。“サーカスの像”って、知ってる?」
小さく首を横に振る彼女へ、私は掻い摘んで話して聞かせた。
「サーカスで芸をする像はね、仔象のうちから鎖で繋いで親から引きはがすんだって。仔象はお母さんを恋しがって暴れるんだって。だけどね、鎖が皮膚に食い込んで痛くて、調教師に鞭で打たれて痛くって、それで逃げることを諦めてしまうの。大きくなって、鎖がただのロープに変わっても、人間を踏み潰す力が持てても、その記憶が抵抗させないから、逃げようとしないんだって。自分の本来の力を知らないまま、大人しく言いなりになってるなんて、可哀想だよね」
だけど私たちは仔象じゃない。抗うことを知っている。そんなような話を、酔った勢いのままつらつらと話した。
「こんな小さな悪いことじゃなくって。ちゃんと抵抗しようよ。一緒についていくから。警察に、行こう?」
ひぃっく、と大きなしゃくりあげる声が、ひとつ。
「ハルナ――ハル、ナ……っ」
「ソウコ、私はソウコが必要だよ」
一緒に暮らそうよ。あと一年だけ頑張って。高校を卒業したら大学へいかないで、フリーターでもなんでもいい。とにかく働いて、ふたりで自由を手に入れよう。
社会の厳しさを知らない私は、明るい未来を想像しながら、ソウコが泣きやむまでずっとずっとそんな夢を語り続けた。
お母さんの顔色ばっかり見る自分を、本当は私も、キライ。彼女と似ている部分がどこなのかというのが解った気がした。逃げたくても逃げられない。だから諦めてしまっていたのだ。サーカスの像について講釈を垂れた私こそが。
いつの間にか眠りに落ちて、次に目覚めたとき、ソウコはいなかった。
――ハルナへ。
先に帰る。ありがとう。
ハルナを巻き込みたくないから、自分で自分のことはなんとかする。
そうしようっていう気力が湧いた。
話を聞いてくれてありがとう。
ソウコ――。
窓の外を見ると、雪が降っていた。急いで窓辺に駆け寄ると、随分と積もっていた。足跡はひとつもない。ソウコの足跡も降り積もった深雪が隠してしまっている。慌ててフロントへ内線を掛けると、彼女が先に精算を済ませたことと、ついさっきロープウェイが悪天候のために運休してしまったことを告げられた。
真っ白な雪が世界を包むクリスマスの夜、私がようやく自宅へ戻ると、お母さんが血相を変えて最寄り駅まで迎えに来ていた。
「春奈、よかった、無事で」
まるで周囲に認知させるような大きな声でお母さんは言った。
そのあと自宅へ戻ってから知らされた。ソウコが家にいた男を包丁で刺すという傷害事件が発生していたということを。
真っ白になった頭の中、ソウコの泣き顔が浮かんでは消えた。
あれから五回目の冬がやって来る。私は大学へ進学し、今度の春から専攻過程を学ぶ予定。なんの、と言えば、心理士の。
ソウコに罪は科されなかった。正当防衛だったらしい。彼女の母親の愛人だった男は、詐欺と婦女暴行罪と、それから……いちいち覚えていられないほどの罪状で逮捕されたそうだ。
あの事件があった数日後、警察の人が事情聴取したいと言って訪ねて来た。事件直前まで私がソウコと一緒にいたからだ。
『春奈は一切関係ありません。お引取りください』
母は握り拳を震わせながら、ドアチェーンを外しもしないで警察の人たちを追い返した。あのときの私は、ただただ震えていた。ドアの向こうで若い刑事さんが私に向かって叫んだのだ。
『春奈さんっ。“私はサーカスの像じゃない”っていう意味をご存知だったら、教えてください。頼みますっ』
私がソウコを狂気に駆り立ててしまったのだとばかり思い、耳を塞いで目を硬く閉じ、ただただ部屋で縮こまっていた。
それからふた月が過ぎたころ、父を伴って里中先生が母と暮らすこのアパートにやって来た。私は三学期という貴重な時間を、丸々休学しているときだ。
父は母と話があるという。そして先生が私の部屋へやって来た。
『通知表。どうしても僕の手から辻に手渡したくて』
教師を辞める、と先生に告げられた。私はその言葉を受けて、初めてもぐっていた布団から顔を出して飛び起きた。
『どうして? 先生、私やソウコを見捨てるの?』
言ってから悔やんでも遅かった。飛び起きて見た先に、先生の土下座する姿があった。
『教師という立場では、今は逆に苦しんでいる子供たちに踏み込んでいくことが、出来ないんだ』
すまない、と告げた震える声が、先生の口惜しさを伝えていた。
『僕は君の中に、僕の親友を見ていたのかも知れない、と思った。僕は親友に救われて今があるから。大人にはどうせ解ってもらえないと醒めた目で見ていた自分と、柄を同一視していたのだと思う』
以前私が言ったとおり、ソウコから逃げただけなのかも知れない、そう言って先生は床に頭をこすりつけ、傷つけて済まないと私に詫びた。
『先生は、先生を辞めて、完全に逃げるんですか』
彼は私のその問いを聞いて、初めて、ようやく顔を上げてくれた。
『違う。今までが逃げていた。片手間にではなく、きちんと差し伸べる手を待っている子たちの手を取れる自分になろうと思っている』
スクールカウンセラーを目指し、一から勉強し直すと言う。涙で濡れた眼鏡に気づけていないほど、先生は真剣でまっすぐな視線を私に見せて訴えて来た。
『許しを乞いに来たんじゃない。大人に裏切られたとか、所詮世の中こんなものとか、諦めないで欲しくって。だから、伝えに来たんだ。逃げるのではなく、今度こそ柄みたいな子を救える自分を目指す、と』
この人は、ただの一生徒に対して、どうしてここまで真摯に向かえるのだろう。すごく、不思議だった。そしてやっぱり、憧れた。
『先生……大人が思っているほど、子供って子供じゃないと思います』
ベッドから抜け出し、先生の前に正座した。そして驚いた表情で呆然と見つめる先生に両手を差し出した。
『二年間、ありがとうございました。通知表、ください』
そしてもうひとつ先生に伝えた。私も同じ道を目指す、と。
『サーカスの像の話を、きちんと伝えたかったとおりに伝えられるようにならないと、本当の意味でソウコを救えないから』
多分そのとき、私と里中先生は、生徒と先生ではなくなった。同じ志を持つ同志として、ソウコを思ってかなり長い時間、泣いた。
ソウコは今も入院生活を続けている。
里中先生と話したあと、父に頼んで一緒に警察へ行ってもらったとき、ソウコの身元引受人のことを教えてもらったのだ。
ダメ元なのに教えてもらえたのは、ソウコの身元引受人が、長い間彼女を育ててくれた父親だった人だから。
『聡子の友達を続けてくれるのですか』
彼女の父親は、彼女の口から伝えられたよりも、はるかに普通で温和で、そしてソウコを娘として愛していると感じられる瞳をしているおじさんだった。
確かに幸せな父娘の時間があったのに、元妻の裏切りに逆上してしまった自分が今更どの面を下げて聡子に会えばいいのか解らないでいた、と、ソウコの父親は同席していた私の父に愚痴零した。
『娘に償えるだけ償って行こうと思います。あのとき手離すべきじゃなかったと、許されなくても詫び続けます。あんなに慕ってくれたのに』
嗚咽を漏らして何度も何度も、私に「聡子を頼む」というおじさんが痛々しかった。
私はそれから、一方的な交換日記を綴り出した。
前のケータイメールのような、他愛ない話ばかりじゃなくて。自分のこと、ソウコの今を知りたい、という話や、サーカスの像の本当の意味とか、そして何より「大好き」という気持ち。
「ねえ、そこに僕が割り込んだら、やっぱり春奈は怒る?」
遠慮がちにねだる里中先生に、私はわざとしかめっ面を返す。
「ダーメっ。やっと初めて返事をくれるようになったところなのよ? 先生に壊されるのは勘弁って感じ」
「もう先生じゃないんだけど。それもそろそろ、なんとかならない?」
「ならない。先生はすぐ甘えるから。あの時の初心を忘れさせてなんかあげない」
里中先生は、一年先輩というだけではなくて、永遠に私の先生だ。私をこの道へと導いてくれた“先生”なんだから、と相変わらずの説教を偉そうに垂れる。
「早くホンモノの先生になってくださいね? 私、先生を目指してるんだから」
「むしろ越されてる気がするんだけど」
そう言って先生が私の胸元に納まっているノートを指差して笑う。
「柄のお母さんも、もう心の病が治まって柄と和解出来たそうじゃないか。春奈が償わせてあげたら、って言ったお陰もあるんじゃないの?」
それは、わからない。一歩間違えば無理解な提案としか受け取れない打診でもあるから。
自信がなくてそう零す私の頭を、大きな手がふわりと包んで、そして、撫でた。
「早く僕たちの夢が叶うといいね」
痛みを知っているからこそ、分かち合いたい。大人が思っている以上に子供は子供じゃないんだと知っているからこそ、それを分かち合い、支え合いたい。
出来ることなら、柄さえよければ三人で。
「……なんて、今言ったらきっと柄を焦らせてしまうから、言えないけどさ」
寂しげに笑う先生のそれは、また悪いくせの諦めの色。
「焦らずにジックリいきまっしょ!」
これじゃどっちが先輩で後輩かわからないじゃん、という憎まれ口のおまけつきで、私は里中先生の背中を思い切りバンと叩いて笑った。