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なつやすみ口

作者: vectell
掲載日:2026/03/12

なつかしくて不思議で寂しさの残る読了感を目指しました。


原案・プロット:私

小説化:AI

全体的な調整:私

その朝、私は会社へ行くのをやめた。


やめた、といっても大げさな決意があったわけではない。改札を抜け、いつものホームに立ち、いつもの時間の電車が入ってきたとき、ただ、これ以上動きたくないと思っただけだった。


だから私は、会社とは反対方向の電車に乗った。


夏休みのない職場だった。取引先も上司も、季節など関係ないという顔をしていた。けれど今、車窓の外では、空だけがこれでもかというほど青く、蝉は景気よく鳴き、車内では親に連れられた小さな子ども達幸せそうに座っていた。どこかへ遊びに行くのだろう。周囲は浮き足立った声で満ちていて、自分だけが場違いに思えた。


ふと、視線を動かすと、向かいのベンチの端に、女の子がひとり座っているのが見えた。


麦わら帽子を膝に置き、白いブラウスに紺のスカート。年は八つか九つくらいだろうか。日に焼けた細い膝が、座席から少し突き出ていた。家族連れの多い車内で、その子だけがぽつんと置き忘れられたみたいだった。


最初は、途中で親と合流するのだろうと思った。だが駅をいくつ過ぎても、その気配はなかった。女の子はときどき窓の外を見て、ときどき舟をこぐようにうとうとしていた。慣れているようでもあり、不安げな表情はなかった。


終点を告げるアナウンスが流れたとき、女の子はハッと顔を上げた。眠気を振り払うように立ち上がり、麦わら帽子を抱えると、開いた扉へ駆けていった。


それを見送ると、私もつられるようにホームへ降りた。


終点の駅は、拍子抜けするほど小さかった。無人駅らしく、改札は扉もないICの読み取り機がぽつんとあるだけで、その向こうは森だった。終着駅なのに賑わいはなく、駅舎の屋根のトタンだけが、強い日差しを受けて白く光っていた。


女の子は改札を抜けると、森へは向かわなかった。


代わりに、線路に沿ってさらに奥へと歩いていく。ただ、ここが終点ならその先は行き止まりのはずだ。


彼女は草に半分埋もれた古いフェンス沿いを、迷いなく進んでいく。どこに行くのか気になって、私は少し距離を空けたまま後を追った。


フェンスのいちばん端まで来ると、そこには古ぼけた木の扉があった。その一角だけは雑草もなく、根元には朝顔やパンジーなどの花が咲いていた。


顔をあげると、扉には小さな案内板がひとつ、傾いてぶら下がっているのに気がついた。


そこには、かすれた文字でこう書いてあった。


『なつやすみ口』


そんな表示、さっきまで見えなかった気がした。


私が訝しんでいると、扉に手をかけていた女の子が振り向く。


「おじさん、ついてくるの?」


声は驚くほど良く通った。子どもらしく、けれど妙に落ち着いていた。


見つかっていたことに気まずくなりながら、私は曖昧に笑った。

「……迷子じゃないのか、と思って」


女の子は首をかしげた。

「迷ってるのは、おじさんのほうでしょ」


そう言うと、扉にかかる鎖に触れた。すると鎖はひとりでに外れ、からん、と乾いた音を立てて扉が開いた。


彼女は何でもないことのようにその扉の先へ進んでいく。私はためらったが、ここまで来て引き返すのも妙で、そのまま後を追った。


扉の先は階段になっており、更にそこを登り切った先には、小さなホームがあった。


一両きりの古い電車が停まっている。車体の色は褪せた青で、窓枠は木だった。行き先表示は空白のまま、蝉の抜け殻がひとつ、窓に張りついている。


「こんな路線、あったか?」


私がつぶやくと、女の子はうなずいた。

「あるよ。乗るべき人がいるときだけ」


彼女は当たり前のように乗り込んだ。車内には他に誰もいない。吊革がゆっくり揺れていて、どこからか線香の匂いがした。


発車ベルもなく、電車はするりと動き出した。


窓の外を見ていると、森が途切れ、光がにじむように広がっていく。遠くに入道雲が見え、その下に、見覚えのあるようなないような町並みが現れた。低い商店街、木造の小学校、石階段のある神社。どれも古びているのに、不思議と生き生きしていた。


最終的に電車は小さな駅に滑り込んだ。


木造の駅舎の看板には、丸い字で駅名が書かれていた。


『ひぐらし前』


私はそんな駅名を聞いたことがなかった。


ホームに降りた途端、むわっとした夏の匂いに包まれた。土、日なた、蚊取り線香、かき氷のシロップ、小川のせせらぎ。どこかで風鈴が鳴っている。懐かしい。だが何が懐かしいのか、うまく言えない。


女の子は麦わら帽子をかぶり直した。


「今日はここで過ごしてみたら?でも暗くなる前には戻ってきね。」


「ここは……どこなんだ」


「なくした夏が集まるとこ」


彼女はそう言って笑った。

「私はここの案内役。」


妖怪だよ、と続けた声は、ふざけているようでいて冗談には聞こえなかった。


次の瞬間、ひと際強い風が吹いたと思ったら彼女はいなくなっていた。


戻ることもできず、仕方なく私は駅を出て町を歩き始めた。


駄菓子屋のガラスケースに、子どものころよく買った串付きの菓子が並んでいた。神社の境内には夜に賑わうであろう屋台の準備が進んでいた。小学校の校庭には、白いタンクトップを着た子らが走り回っていて、その歓声がひどく遠く感じた。川べりには、サンダルを脱ぎ散らかしたまま、誰かが石を積んで遊んだ跡があった。


どこへ行っても、「前にもここへ来たことがある」と思うのに、その記憶の端をつかもうとすると、するりと抜けた。


喉の渇きを覚え、駄菓子屋に戻ると、女の子がラムネ瓶を二本持って待っていた。

「はい」


ビー玉を落とすと、しゅぽん、と澄んだ音がした。ビー玉がからんと鳴る。それだけで、目頭が熱くなった


「おじさんは、どんな夏をなくしたの?」

不意にそう聞かれて、私は返事に詰まった。


どの夏だろう。


思い返せば、子どものころは毎年のように夏があった。朝顔、プールの塩素、祖母の家の扇風機、夕立のあとの匂い。


けれど大人になってからは、季節はただの気温の変化に過ぎなくなった。気づけば夏休みという言葉の手触りも、もう何年も思い出していなかった。


「たぶん……全部だ」

私が言うと、女の子は少しだけ目を細めた。


「そういう人、たまに来るよ。」


ベンチ腰掛けて、私たちはひぐらしの声を聞いた。

空はまだ明るいのに、鳴き声だけが夕方だった。


「君は、ずっとここにいるのか」

「うん」

「親は?」


女の子はラムネ瓶の口を見つめたまま、しばらく黙っていた。


やがて彼女は言った。

「私ね、ずっと昔、あの線路がもっとずっと遠くまで続いてたころに、ここに来たの。昔は誰かを待っていた気がするけど・・・もう忘れちゃった。」


さらりと言う声が、かえって寂しかった。


「夏休みは学校に行けなくていいから好き。だけど、ずっと行かない間に本当に行けなくなっちゃった。」


彼女は笑ったが、その笑顔は古い写真のように見えた。


夕方になると、町じゅうに薄い金色の光が満ちた。提灯に明かりが入り、どこからともなく祭囃子が聞こえた。浴衣の人たちが行き交う。だが誰の顔も、よく見ようとすると霞んだ。


私はふと、このままここにいてもいいのではないかと思った。


会社も締切もない。明日もその次も、きっと同じように蝉が鳴いて、川は光り、夕方には祭りが始まる。懐かしいものだけが揃っていて、失くしたものしかない。そんな場所でなら、もう何にも傷つかずに済む気がした。


だが女の子は、私の考えを見透かしたように言った。


「だめだよ、おじさん」

「……何が」

「おじさんは自分の足で歩けるし、選べる。もっと行くべきところはあるはずだよ」


その言葉で、祭囃子が急に遠のいた気がした。


「帰る場所がある人は、帰らなきゃ」

彼女は立ち上がった。

「最終、行っちゃう」


駅へ戻る道すがら、私は何か言わなければならない気がしていた。けれど、結局うまく言葉が見つからなかった。


ホームに着くと、あの青い一両電車がもう停まっていた。窓の向こうには夕焼けが映り、車内は空っぽだった。


私は乗る前に振り返った。

「君も来ないか」


女の子は首を横に振った。


「私はもう終わっちゃったから」

そして、少し考えるようにして付け足した。

「それに、私がずっと向こうへ行っちゃったら、ここにくる人が道に迷っちゃうわ」


そう言って笑った顔を、私は一生忘れたくないと思った。


「せめて、名前を教えてくれないか」


女の子は麦わら帽子のつばを押さえた。

風が吹き、蝉の声がふっと止んだ。


「名前はあるよ」

彼女は言った。

「でも、みんなに名前を呼ばれると、消えちゃいそうだから」


それから、少しだけ寂しそうに笑った。


「ただね、みんなが知らなくても、おじさんが覚えててくれたら嬉しいな」


発車の合図もないまま、電車の扉が閉まり始めた。


私は慌てて乗り込んだ。ガラス越しに、女の子が片手を上げる。まるで昔から何度もそうしてきたみたいに、慣れた手つきだった。


電車が動き出す。


小さくなるホームで、彼女の姿だけが妙にはっきり見えた。麦わら帽子、白いブラウス、細い腕。その向こうで、駅名の「ひぐらし前」の字が、夕焼けの中でゆっくり滲んでいった。


「・・・」


気がつくと、私は無人駅のベンチに寝転んでいた。


蝉が、現実の声で鳴いていた。どうやって戻ってきたのかわからない。スマートフォンには、会社からの不在着信が何件も入っていた。


時刻を見ると、まだ十二時を少し回ったところだ。


私は日が暮れるまであの町で過ごしていたはずなのに、現実では数時間も経っていなかった。


「夢か・・・」

とベンチに座り直した時、カタンと何かが倒れる音がした。


倒れた何かを見ると、それは空になったラムネ瓶だった。

持ち上げると、青いビー玉がカランと音を立てた。


その後、私は会社を辞めた。


それから何年も何度も、私は同じ路線の終点まで行った。


夏の休日に。会社帰りに。有給を取った日に。


けれど、あの女の子には二度と会えなかった。古ぼけた木の扉やその先の階段など最初からなく、線路沿いのフェンスは綺麗になり、駅前にコンビニができ、人が流れ、森も次第に伐られていった。


それでも、ひぐらしの鳴く夕方になると、ふいに思い出す。


見たはずの町並みはもう曖昧だ。駄菓子屋の看板も、川のきらめきも、神社の屋台も、思い出そうとすると霞んでしまう。女の子の顔も、細かなところはもうわからない。


ただ、麦わら帽子の影からこちらを見る目だけは、今もはっきり覚えている。


そして、帰る場所がある人は帰らなきゃ、と言った声も。


私はあの日、たしかに一日だけ夏休みを手に入れたのだと思う。

その代わり、ひとつだけ、二度と取り戻せない寂しさを持ち帰った。


毎年、夏の終わりが近づくころになると、机の引き出しの奥であのラムネ瓶が薄く光る。


そのたびに私は、もう名前も知らない女の子のことを考える。


今も彼女は、誰かのなくした夏を迎えに、

路線図にないホームで、ひとり列車を待っているのかもしれない。


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